序章 第三節「皇帝の頭脳」中編
―同日 午前10時半―
ドイツ帝国 首都ベルリン 帝国参謀本部2階 大会議室
少しの無言の沈黙の後、会議卓の末席から静かな声が上がった。
「閣下、発言をお許しいただけますか」
フリードリヒであった。
参謀総長は彼に視線を向けた。
「構わん。意見を述べたまえ」
「ありがとうございます」
フリードリヒは立ち上がると、卓上の地図へ歩み寄った。
「私は、現在の情勢において最も警戒すべきなのは、フランスでもロシアでもなく、各国の動員計画そのものであると考えます」
会議室の視線が一斉に彼へ集まった。
「どういう意味かね?」
作戦部長が尋ねた。
「各国の軍事計画は、戦争の初期段階で敵国よりも早く兵力を集中させることを前提としております」
フリードリヒはドイツ西部の鉄道網を指し示した。その線は国境を超えて、西はスペイン、東はロシアまで続いていた。
「例えば、フランスが動員を開始した場合、我が国はその意図が攻撃であるか防御であるかを判断しなければなりません。しかし、判断に時間を費やせば、我が軍は兵力集中で後れを取る可能性があります」
「当然だ。だからこそ迅速な動員が必要なのだろう」
「仰る通りです。しかし、そこに問題があります」
フリードリヒは一呼吸置いた。
そして国境付近にドイツ帝国軍を表す青い駒を並べた。
「我が国が対抗して動員を開始すれば、今度はフランスがそれを攻撃準備と判断するでしょう。」
青い駒に向かい会うようにフランス共和国軍を示す赤い駒が並べられていく
「フランスがさらに兵力を増強すれば、ロシアも同盟国を支援するために動員を開始するかもしれません」
彼は地図上の青い駒と赤い駒を一つずつ動かした。
「そして我が国は、ロシアの動員に対抗するため、東方にも兵力を集中させる必要に迫られます」
味方を示す青い駒は各地に次々と散らばっていく。それに合わせて周りには敵を示す赤い駒が散らばり、やがて地図は駒で埋まった。
会議室は静まり返っていた。
「つまり、各国が自国を守るために軍を動かした結果、誰も戦争を望んでいないにもかかわらず、戦争を避けられなくなる可能性があるのです」
フリードリヒはそう結論づけた。
数秒間の沈黙が流れた。
やがて参謀総長が口を開いた。
「なるほど。君は軍事的合理性が、かえって政治的な選択肢を狭めると言いたいのだな」
「はい、閣下」
「では、君はどうすべきだと考える?」
フリードリヒは少し考えた後、答えた。
「動員準備は進めるべきです。しかし、実際の動員命令を発する時期については、外交上の影響を十分に考慮する必要があります」
「敵が先に動員を完了すれば、我が国は不利になるぞ」
「承知しております」
フリードリヒは即座に答えた。
「ですが、戦争を回避できる可能性が残されている段階で、軍事的な都合だけを優先すべきではありません」
その言葉に、一部の将校が不満そうな表情を浮かべた。
参謀本部は戦争に勝利するための組織であり、戦争を避けるための外交機関ではない。
若い大尉の発言は、彼らにとって少々理想主義的に聞こえたのである。
しかし、シュタインベルク参謀総長は違った。
「続けたまえ」
「はっ」
フリードリヒは地図上のフランスとロシアを交互に指した。
「我が国にとって最も危険なのは、東西二正面での長期戦です」
「それは誰もが承知しておる」
「はい。しかし、近年の軍事技術の進歩を考慮すれば、従来の作戦計画を再検討する必要があると考えます」
彼は手元の書類を開いた。
「我が国の作戦計画では、迅速な兵力集中と機動によって西方の敵を短期間で撃破し、その後に東方へ主力を転用することが重視されています」
それは、かつてシュリーフェン伯爵が構想した戦略思想を受け継ぐものであった。
【フランスを短期間で打倒し、続いてロシアと戦う。】
二正面戦争を回避できない場合、ドイツに残された数少ない勝利の可能性であった。
「しかし、フランス軍もこの十年間で大幅に強化されています。要塞線は拡張され、機関銃や重砲の配備も進みました」
フリードリヒは続けた。
「我が軍が想定通りに進撃できる保証はありません。仮に西方で戦線が膠着すれば、ロシア軍の動員が完了するまでに決着をつけることは困難になります」
「つまり、短期決戦に失敗すれば、我が国は消耗戦に引きずり込まれるということか」
参謀次長が尋ねた。
「その通りです」
「だが、我が帝国の工業力をもってすれば、長期戦にも耐えられるのではないか?」
別の将官が口を挟んだ。
フリードリヒは首を横に振った。
「英国が中立を維持するならば、可能性はあります。しかし、英国海軍が参戦し、北海を封鎖した場合は別です」
彼は海軍連絡将校へ視線を向けた。
「我が国は海外から多くの原材料と食料を輸入しています。海上交通を遮断されれば、工業生産だけでなく、国民生活にも深刻な影響が及びます」
海軍連絡将校が頷いた。
「その点については海軍も同様の懸念を持っている。外洋艦隊はこの十年間で大きく強化されたが、英国海軍艦隊と正面から戦って確実に勝利できるとまでは言えん」
「では、我々は英国を敵に回してはならないということか」
「少なくとも、英国の参戦を当然のものとして戦争を始めるべきではないと考えます」
フリードリヒは静かに答えた。
シュタインベルク参謀総長は腕を組み、しばらく考え込んでいた。
「……なかなか興味深い分析だ」
やがて彼は口を開いた。
「だが、君の考えには一つ問題がある」
「何でしょうか、閣下」
「我が国が戦争を望まなくとも、敵国が戦争を始めた場合はどうする?」
フリードリヒは即答しなかった。
それは彼自身、何度も考えてきた問題であった。
戦争は必ずしも、一方の国が望んで始めるものではない。
外交交渉の失敗、国境での偶発的な衝突、あるいは同盟国の独断によって、国家は望まぬ戦争に巻き込まれることがある。
そして一度戦争が始まれば、軍人は勝利のために戦わなければならない。
「その場合は……」
フリードリヒはゆっくりと、しかしはっきり答えた。
「我々は、あらゆる手段を尽くして勝利を目指すべきです」
「諸君、我々軍人の任務は、帝国の安全を保障することにある。戦争を望む必要はない。しかし、戦争が避けられぬものとなった時、準備不足を理由に敗北することは許されん」
将校たちは姿勢を正した。
「作戦部は西方および東方の動員計画を再検討せよ。情報部はフランス、ロシア、英国の動向を引き続き監視すること」
「はっ!」
「また、海軍との連絡を密にし、英国が参戦した場合の経済的影響についても改めて検討する」
参謀総長はそこで一度言葉を切った。
「フォン・ヴァルテンベルク大尉」
「はっ!」
「君には特別に、欧州全域で戦争が勃発した場合の長期戦に関する研究を命ずる」
フリードリヒは一瞬驚いた。
「長期戦、でありますか?」
「そうだ。従来の短期決戦構想が失敗した場合、帝国はいかにして戦争を継続し、勝利へ導くことができるのか。兵站、工業生産、海上封鎖、同盟国の戦力、全てを考慮して報告書を作成したまえ」
「承知いたしました」
フリードリヒは敬礼した。
「ただし」
参謀総長は低い声で付け加えた。
「その報告書が必要になる日など、来ないことを祈っている」
大会議室を出たフリードリヒは手元の時計を見た。時刻は13時12分
4時間以上にも及んだこの日の会議は昼過ぎにようやく終わった。
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