序章 第三節「皇帝の頭脳」前編
―1924年8月26日 午前8時―
ドイツ帝国 首都ベルリン 市街地
8月も終わりに近づき、街を吹き抜ける風には、どこか秋の気配が混じり始めていた。
ベルリン中心の市街地を走る路面電車はいつものように満員の乗客を運び、ウンター・デン・リンデンの大通りには、仕事へ向かう市民や買い物客の姿が見られた。
街角の新聞売りは、今朝も欧州情勢の緊迫を伝える新聞を声高に売り歩いていた。
しかし、その声に足を止める者は少なかった。
この10年間、欧州では幾度となく戦争の危機が叫ばれてきた。
そのたびに各国政府は外交交渉を重ね、軍隊は動員準備を進め、新聞は大戦争の勃発を予告した。
だが、結局は何事もなく日常が戻ってきたのである。ベルリンの市民たちにとって、欧州情勢の緊迫はもはや珍しい出来事ではなかった。
しかし、そんな平穏な街の中心部にある一つの建物では、朝早くから慌ただしい動きが続いていた。
―同日 同時刻―
ドイツ帝国 首都ベルリン 帝国参謀本部
ドイツ帝国参謀本部。
ドイツ帝国の作戦全体を立案し、戦時には数百万の将兵を動かす頭脳とも呼べる組織である。
その建物の二階、長い廊下を一人の若い陸軍士官が歩いていた。
黒い革靴が磨き上げられた床を規則正しく叩き、手にした書類鞄が歩調に合わせて小さく揺れていた。
フリードリヒ・カール・フォン・ヴァルテンベルク陸軍大尉。29歳
ドイツ帝国参謀本部作戦課に勤務する若き参謀将校であった。
プロイセンの古い軍人家系に生まれた彼は、幼い頃から軍人となることを当然のように考えて育った。父は陸軍少将、祖父は普仏戦争に従軍した元陸軍中将であり、ヴァルテンベルク家は代々プロイセン王国、そしてドイツ帝国に仕えてきた家柄であった。
しかし、フリードリヒ自身は家柄だけを頼りに出世した人物ではなかった。
士官学校時代から数学、地理、軍事史に優れた才能を示し、特に作戦立案と兵站計画においては、教官たちを驚かせるほどの能力を発揮していた。
任官後も各種演習で優秀な成績を収め、若くして参謀本部勤務を命じられたのである。
彼は戦争を直接経験したことがなかった。
だが、ナポレオン戦争から普仏戦争、さらには極東の日清日露戦争に至るまで、過去の戦争については徹底的に研究していた。
・戦場における勝敗は、勇敢さや兵力の多寡だけでは決まらない。
・天候、輸送、補給、通信、動員速度、そして敵国、同盟国、中立国の政治的事情
・それら全てを計算に入れて初めて、勝利を導く作戦が成立する。
それが彼の持論であった。
もっとも、その優秀さゆえに、周囲からは少々理屈っぽい人物として知られていた。
本人もそれを自覚していたが、特に気にする様子はなかった。
軍人に必要なのは上官の機嫌を取ることではなく、冷静に正確な判断を下すことだと考えていたからである。
長い廊下の突き当たりにある会議室の前で、フリードリヒは立ち止まった。
懐中時計を取り出す。
時刻は午前8時55分。
会議開始まで、あと5分であった。
―同日 午前9時―
ドイツ帝国 首都ベルリン 帝国参謀本部2階 大会議室
フリードリヒは軍服の襟元を整えると、扉を軽く叩いた。
「入れ」
室内から低い声が返ってきた。
扉を開け、姿勢を正した。
「フォン・ヴァルテンベルク大尉、参りました」
「うむ。席につきたまえ」
会議室の奥に座っていた初老の将官が答えた。
カール・フォン・シュタインベルク陸軍大将。
帝国陸軍参謀総長を務める人物であり、皇帝ヴィルヘルム二世からも厚い信頼を寄せられていた。
62歳になるシュタインベルクは、厳格なプロイセン軍人そのものといった風貌であった。
灰色の髪を短く刈り込み、整えられた口髭の下には、滅多に笑みを浮かべない引き締まった口元があった。
フリードリヒは一礼すると、会議卓の末席へと腰を下ろした。
大会議室内には既に十数名の高級将校が集まっていた。参謀次長、作戦部長、情報部長、兵站部長。さらに、帝国海軍から派遣された連絡将校の姿もあった。
会議卓の中央には欧州全域を描いた大きな地図が広げられ、各国の軍隊配置を示す赤と青の駒が並べられていた。
その周囲には鉄道網の図面、各国の兵力一覧表、外交報告書が積み重ねられている。
中央正面の壁にはドイツ皇帝ヴィルヘルム二世の肖像画が黄金の額縁に入れられて掲げられていた。
午前9時。
シュタインベルク参謀総長が口を開いた。
「諸君、本日の会議を始める」
室内の私語が止んだ。
「議題は、現在の欧州情勢と、我が帝国が取るべき軍事的対応についてである」
参謀総長は卓上の地図に目を落とした。
「まずは情報部から報告を」
「はっ」
立ち上がったのは、情報部長のオットー・フォン・ライヒェナウ少将であった。
彼は手元の書類を開くと、落ち着いた声で説明を始めた。
「現在、欧州情勢は1914年以来、最も危険な状態にあります」
その言葉に、数名の将校が顔を上げた。
「まず西方のフランス共和国ですが、今月に入り、アルザス・ロレーヌ国境付近での軍事活動が著しく増加しております」
ライヒェナウは地図上のフランス国境を指し示した。フランス共和国はドイツ帝国最大の仮想敵国であり、その脅威はこの場にいる全員には既に周知の事実だった。
「フランス陸軍は国境付近に新たな部隊を展開させ、鉄道輸送による物資の集積を進めています。現時点では演習の範囲内と判断しておりますが、動員準備に転用できる態勢であることは間違いありません」
「フランス人どもは、まだアルザスとロレーヌを諦めておらんのか」
一人の中将が不愉快そうに呟いた。
普仏戦争によってドイツ帝国が獲得したアルザス・ロレーヌは、半世紀以上が経過した今もなお、両国間の最大の対立要因であった。
フランス共和国内では失われた領土の奪還を訴える声が根強く、ドイツ帝国側も領土を返還する意思など全く持っていなかった。
「フランス政府は、我が国の国境演習が挑発的であると非難しております」
ライヒェナウは続けた。
「しかし、我が軍の演習は以前から計画されていたものであり、フランス側の主張には政治的意図があるものと考えられます」
「つまり、フランスは我々を口実にして軍備を増強しているということか」
「その可能性は十分にあります」
参謀総長は小さく頷いた。
「東方はどうだ?」
「ロシア帝国についても、看過できない動きが確認されています」
ライヒェナウは地図上のロシア帝国を指した。
ロシア帝国とは1873年にドイツ宰相オットー・フォン・ビスマルクの主導により締結された三帝同盟のにより、ドイツ帝国・ロシア帝国・オーストリア=ハンガリー帝国の3国間で同盟が結ばれていた。
しかし、ビスマルク失脚後、皇帝ヴィルヘルム2世は再保障条約を更新せず、ロシアとの関係が冷え込み、さらに悪いことに孤立したロシアは1894年に仮想敵国のフランスと露仏同盟を結び、ドイツにとって「挟み撃ち(2正面作戦)」の脅威が生まれていた。
「ロシア軍はポーランド方面での鉄道輸送能力を増強しており、国境付近の軍管区では予備役将校の召集が増加しております」
「ロシアもか……」
参謀次長が低い声で呟いた。
「はい。さらにバルカン半島では、セルビア王国を巡ってオーストリア=ハンガリー帝国との対立が再燃しています」
ライヒェナウは地図の南東部へ指を移した。
「セルビア国内では反オーストリア運動が活発化しており、ウィーン政府は国境警備を強化しています。一方、ロシア政府はセルビアへの支持を改めて表明しました」
会議室に重苦しい空気が流れた。
ドイツ帝国にとって、オーストリア=ハンガリー帝国は最も重要な同盟国であった。
もしオーストリアとロシアが戦争状態に入れば、ドイツもまた、その戦争に巻き込まれる可能性が高かった。
さらに、ロシアと同盟関係にあるフランスが参戦すれば、ドイツは東西二正面での戦争を強いられることになる。
それこそが、ドイツ参謀本部が長年にわたって恐れてきた事態であった。
「英国の動向は?」
シュタインベルクが尋ねた。
「英国政府は現時点では中立的な立場を維持しています。しかし、外務省を通じてフランス政府との協議を重ねており、海軍にも一定の警戒態勢が敷かれている模様です」
「英国まで敵に回れば、厄介なことになるな」
海軍連絡将校が小さく呟いた。
ライヒェナウは頷いた。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、ドイツ帝国とイギリス帝国は、世界の覇権と制海権をめぐる激しい建艦競争を展開していた。
ドイツ帝国ヴィルヘルム2世は、植民地と国際的な影響力を拡大する「世界政策」を掲げ、「艦隊法」を整備しイギリスに対抗できる強大な海軍の保有を目指した。
対して伝統的な海洋国家であるイギリスは、海軍力で世界一の地位を維持するため、「上位2か国の合計を上回る海軍力を持つ」という二国標準主義を掲げ、ドイツの猛追に対し1905年に戦艦「ドレッドノート」を建造して対抗、以降両国の対立は激化していった。
「英国は欧州大陸の勢力均衡を重視しています。我が国がフランスに対して大規模な軍事行動を起こした場合、英国が介入する可能性は否定できません。また、英国は世界最大の海軍を有しており帝国海軍はこの大艦隊を最大の脅威と見なしています。」
「結局、どの国も我々を警戒しているということか」
参謀次長が苦々しげに言った。
帝国の頭脳である参謀本部、大会議室内にはしばし思い空気と沈黙が立ち込めた。
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