序章 第二節「平穏な夏の終わり」 後編
―同日 午後3時頃―
大英帝国 ポーツマス海軍基地
海軍基地の門を通り抜けると、二人の前には巨大な軍港が広がっていた。帝国最大の軍港なだけあって、岸壁には大小様々な軍艦が係留され、港内では曳船や内火艇が忙しなく行き交っていた。
遠くでは工廠のクレーンがゆっくりと動き、修理中の軍艦からは金属を叩く音が響いていた。
そして、その軍港の一角に、ひときわ巨大な艦影が横たわっていた。
「珍しく岸壁に付けたんだよな」
通常、戦艦ほどの巨大な船は岸壁に直接付けずに沖合いに錨を下ろして投錨するかブイに係留するのが基本である。内火艇と呼ばれる小さなボートで岸壁と船を行き来するのである。
しかし、今回は前回の演習で消費した弾薬の補充の為に岸壁に横付けしていた。
2人は岸壁に着くと上を見上げた。
巡洋戦艦「フッド」
英国海軍が世界に誇る最新鋭の主力艦である。
基準排水量4万トンを超える巨大な船体に、15インチ連装砲4基8門を備え、最大速力は31ノットを超える。1920年に竣工したフッドは、その巨体と優美な艦容から、英国海軍の象徴とも呼ばれる存在であった。
長大な船体の中央には二本の煙突がそびえ、艦首と艦尾には巨大な主砲塔が配置されていた。
灰色に塗装された船体は夏の日差しを受け、鈍い光を放っていた。
「いつ見ても大きな艦だな」
ベネットが感心したように呟いた。
「ああ。初めて見た時は、これが本当に海に浮かぶものなのかと思ったよ」
ハミルトンも頷いた。
「しかし、これだけの艦を造れるのだから、我が国の造船技術も大したものだ」
「まったくだ。ドイツ人にも一度見せてやりたいくらいだよ」
「連中もさぞ驚くだろうな」
二人は笑った。
やがてフッドの舷梯に到着すると、当直の水兵に敬礼を返し、艦内へと乗り込んだ。休暇を終えた2人とって、そこは再び日常へ戻る場所であり「我が家」でもあった。
―同日 午後3時半頃―
大英帝国 ポーツマス海軍基地 戦艦「フッド」艦上
「フッド」の甲板上では水兵たちが清掃や整備作業に従事し、士官たちが忙しそうに行き交っていた。どこからか甲板を磨く音が聞こえ、機関室へ続く通風筒からは油と機械の匂いが漂っていた。
「俺は航海長に帰艦を報告してくるよ」
ベネットが言った。
「ああ。分かった」
「それじゃ、また後でな」
そう言うと、ベネットは艦内へと姿を消した。
ハミルトンは一人、上甲板に残った。
久しぶりに見るポーツマス港の景色を、もう少し眺めていたかったのである。
彼は手摺に近づき、軍港を見渡した。
そこには英国海軍の威容が広がっていた。
港内には「フッド」のほかにも、幾隻もの戦艦や巡洋艦が停泊していた。
遠くにはクイーン・エリザベス級戦艦の特徴的な艦影が見え、その近くにはリヴェンジ級戦艦が堂々たる姿を浮かべていた。
さらに別の岸壁には巡洋艦や駆逐艦が並び、港内を行き交う小艇がその間を縫うように進んでいた。
造船所には来年完成予定の新型戦艦が2隻並んで鎮座しており、さらに奥の船台にはまだ名前すら付いていない新型艦が建造中だった。
これらは、世界各地に広大な植民地と通商路を持つ大英帝国を守るための艦隊であった。
英国海軍
かつてトラファルガーの海でナポレオンの艦隊を打ち破り、百年以上にわたって世界の海を支配してきた海軍である。
その伝統は今なお受け継がれていた。
ハミルトンは誇らしげに港内の艦艇を見渡した。
「……これだけの艦隊があれば、たとえ戦争になっても英国が負けることなどあるまい」
彼は小さく呟いた。
それは英国海軍の士官として、ごく自然な自信であった。
英国は世界最大級の海軍力を保有し、その艦艇は本国のみならず、地中海、インド洋、極東にまで展開している。
仮に欧州で戦争が勃発したとしても、英国海軍が制海権を握り、敵国の海上交通を遮断すれば、いずれ敵は屈服するはずであった。
少なくとも、ハミルトンはそう信じていた。
しかし、彼の脳裏に一つの国の名が浮かんだ。
ドイツ帝国
北海を挟んで英国と対峙する、欧州大陸最大の工業国の一つである。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世は、かねてより英国に匹敵する大海軍の建設を国家の目標として掲げていた。
その中心となったのが、ドイツ帝国海軍の外洋艦隊である。
キールやヴィルヘルムスハーフェンを拠点とするその艦隊は、長年にわたる建艦競争の結果、英国海軍にとって最大の脅威となっていた。
10年前には、英国海軍の戦艦群に対抗できる艦艇はまだ限られていた。
しかし、それから10年。
ドイツは新型戦艦と巡洋戦艦を次々と建造し、その戦力を着実に増強していた。
バイエルン級戦艦に続き、さらに強力な新型主力艦の建造計画も進められているという。
ドイツの造船所では、今この瞬間にも巨大な軍艦が建造されているのだろう。
ハミルトンはフッドの前部主砲塔へと視線を移した。 巨大な15インチ砲の砲身が、静かに空を指していた。
これほど強大な軍艦であっても、敵の砲弾が命中すれば無事では済まない。
その事は砲術の専門家である自分が一番良く分かっていた。ましてや相手が、英国海軍と同じように長年の訓練を積み重ねてきたドイツ海軍であればなおさらである。
彼は士官学校時代に学んだ海戦史を思い出した。
日露戦争における日本海海戦。
日本海軍はロシアのバルチック艦隊をほぼ壊滅させ、世界中の海軍関係者を驚愕させた。
あの海戦から19年。
艦艇の大きさも、砲の威力も、射撃指揮装置の性能も、当時とは比べものにならないほど進歩していた。
もし、今の英国海軍とドイツ海軍が北海で激突したら、一体どうなるのだろうか。
何十隻もの戦艦が砲火を交え、何百発もの大口径砲弾が飛び交う。
巨大な軍艦が炎上し、海中へと姿を消していく。
その中には、自分が乗るフッドも含まれるかもしれない。
「……馬鹿馬鹿しい」
ハミルトンは首を横に振った。
考えすぎだ。
英国もドイツも、戦争によって失うものがあまりにも大きい。
両国の政府が、それを理解していないはずがない。
10年前に戦争を回避できたのだから、今回もきっと同じように解決するだろう。
そう考え直した。
だが、不思議なことに、胸の奥に生まれた小さな不安は消えなかった。
彼は再び港内を見渡した。
整然と並ぶ戦艦群。
岸壁を行き交う水兵たち。
工廠から聞こえる槌音。
そして、穏やかな夏の海。
そこには、いつもと変わらぬ英国海軍の日常があった。
その時だった。
「エドワード!」
背後から声がした。
振り返ると、ベネットが甲板へ戻ってきていた。
「こんなところにいたのか。探したぞ」
「すまない。少し港を眺めていたんだ」
「相変わらず軍艦を見るのが好きな奴だな」
ベネットは呆れたように笑った。
「それより、砲術長がお呼びだ。帰艦したらすぐに顔を出すようにとのことだぞ」
「砲術長が?」
「ああ。何やら明日以降の予定について話があるらしい」
「演習のことか?」
「さあ、そこまでは聞いていない」
ベネットは肩をすくめた。
「とにかく、早く行った方がいい。あの人を待たせると後が面倒だからな」
「それもそうだな」
ハミルトンは苦笑した。
二人は並んで艦内へと向かった。
昇降口に足をかけたところで、ハミルトンはふと立ち止まった。
もう一度だけ、港内に停泊する戦艦群を振り返ったのである。
午後の陽光を受け、灰色の巨艦たちが静かに海面へ影を落としていた。
英国海軍の栄光と誇りを象徴する艦隊。
その威容は、彼に再び自信を与えた。
「どうした?」
先に降りかけていたベネットが尋ねた。
「いや、何でもない」
ハミルトンは微笑んだ。
「ただ、我々は幸運だと思ってね」
「何がだ?」
「世界で最も強い海軍に勤務できることさ」
ベネットは一瞬きょとんとした後、声を上げて笑った。
「ははは! そいつは違いない!」
ハミルトンも笑った。
そして二人は、薄暗い艦内へと姿を消した。
甲板には再び静けさが戻った。
ポーツマス軍港の上空には、白い海鳥たちがゆっくりと弧を描いていた。
海はどこまでも穏やかであった。
しかし、その遥か東方。
北海を隔てたドイツ帝国の軍港では、英国海軍と同じように、無数の水兵たちが軍艦の整備に励んでいた。
彼らもまた、自分たちの艦隊こそが祖国を守る最強の盾であると信じていた。
そして、英国の若き士官たちと同じように、戦争など起こるはずがないと考えていたのである。
だが、欧州の平和を支えてきた均衡は、すでに静かに崩れ始めていた。
そのことを、この時のハミルトンもベネットもまだ知る由もなかった。
1924年8月18日
大英帝国は、未だ訪れぬ大戦争を前に、最後の平穏を享受していた。




