序章 第二節「平穏な夏の終わり」 前編
―1924年8月18日―
大英帝国 イングランド南部 ロンドン・アンド・サウス・ウェスタン鉄道 ポーツマス行列車内
規則正しい車輪の音が客室に響いていた。
1時間前にロンドンのウォータールー駅を出発した蒸気機関車は、黒い煙を吐きながらイングランド南部の田園地帯を走り抜けていた。汽車の窓の外には青々とした牧草地が広がり、時折、小さな村や赤煉瓦造りの農家が通り過ぎていく。
夏の陽光が差し込む二等客室の片隅で、一人の若い海軍士官が新聞を広げていた。
英国海軍大尉、エドワード・アーサー・ハミルトン 29歳。
英国海軍の士官養成機関を経て任官した彼は、現在、英国海軍が誇る最新鋭の巡洋戦艦「フッド」に砲術士官として勤務していた。
ロンドンに暮らす両親のもとで一週間の休暇を過ごした彼は、今日から再び軍務に戻るため、母港であるポーツマスへ向かっていたのである。
ハミルトンは膝の上に広げた新聞の見出しに目を落とした。それは今朝、ウォータールー駅の売店で購入した『タイムズ』紙であった。
その一面には、大きな活字で次のような見出しが躍っていた。
『欧州情勢、再び緊迫――独仏国境における軍事的緊張高まる』
記事によれば、ドイツ帝国とフランス共和国の国境付近では、ここ数週間にわたって双方の軍事行動が活発化しているという。
フランス政府はドイツ軍による国境付近での大規模演習に抗議し、一方のドイツ政府はこれを通常の軍事訓練であるとして、フランス側の主張を一蹴していた。
さらに、バルカン半島ではオーストリア=ハンガリー帝国とロシア帝国の対立が再び表面化しており、欧州各国の外交官たちは連日のように会談を重ねているらしかった。
「……またか」
ハミルトンは小さく呟いた。
欧州情勢の緊迫を伝える新聞記事など、今に始まったことではなかった。
10年前の1914年、サラエヴォでオーストリア皇太子夫妻が暗殺された際には、欧州全土が戦争の瀬戸際に立たされた。
しかし、英国をはじめとする列強諸国の外交努力によって危機は辛うじて収束し、欧州は大戦争を回避したのである。
それ以来、欧州では何度となく外交危機が繰り返されてきた。
そのたびに新聞は戦争の危険を大々的に報じ、市民たちは食料や生活必需品を買い求め、軍隊は警戒態勢を強めた。
だが、結局はいつも外交交渉によって事態は収まっていた。
今回も同じだろう。正直、この手のニュースにうんざりしつつ、ハミルトンはそう考えていた。
「ドイツ人もフランス人も、そこまで愚かではあるまい」
彼は新聞を一度畳み、窓の外へ視線を移した。
昔からイングランド南部は温暖な気候で農産に適しており、それが南部の産業の基盤だった。 穏やかな田園風景がどこまでも続き、農夫たちは畑仕事に精を出し、牧草地では羊の群れが草を食んでいる。
遠くの丘には教会の尖塔が見え、その周囲には小さな家々が寄り添うように建っていた。
そこには戦争の気配など微塵も感じられなかった。
ハミルトン自身、戦争というものを知らなかった。
幼い頃には南アフリカでのボーア戦争の話を耳にしたこともあったが、彼が海軍士官となってからは、英国海軍が大国の艦隊と本格的に砲火を交えたことなど一度もなかったのである。
もちろん、海軍士官である以上、戦争に備えることは当然の務めであった。
しかし、彼にとって戦争とは、海軍大学で学んだ戦術理論や、演習海域で繰り返される模擬戦闘の延長にあるものだった。
実際に敵の砲弾が飛来し、目の前で同僚が命を落とす光景など、想像することさえ難しかった。
「戦争など、起こらないに越したことはないさ」
そう呟くと、ハミルトンは再び新聞を開いた。
その紙面の片隅には、ドイツ海軍の新型戦艦建造に関する小さな記事が掲載されていた。
しかし彼は特に気にも留めず、次のページへと目を移した。
列車は変わらぬ速さで南へと走り続けていた。
―同日 午後2時―
大英帝国 ハンプシャー州 ポーツマス・ハーバー駅
甲高い汽笛とともに、列車はゆっくりと速度を落とした。やがて車輪が軋む音を立て、列車はポーツマス・ハーバー駅のホームに滑り込んだ。
ハミルトンは新聞を畳んで鞄にしまうと、制帽を被り直して席を立った。
客室からホームへ降りると、潮の匂いを含んだ生暖かい風が頬を撫でた。ロンドンとは違う、港町特有の空気であった。
駅の周囲には旅行客や商人に混じって、多くの海軍軍人の姿が見られた。
白い水兵服を着た若い水兵たちが談笑しながら歩き、軍服姿の士官が鞄を片手に足早に通り過ぎていく。
ポーツマスは英国海軍の主要な軍港であり、街そのものが海軍とともに発展してきたと言っても過言ではなかった。
ポーツマス軍港も大英帝国最古の軍港であり、海軍艦艇の約3/2が在籍する帝国最大の軍港でもあった。
都会のロンドンで育ったハミルトンは最初こそ戸惑ったが、今ではこの街にはすっかり馴染んでいた。
「さて、また退屈な艦艇勤務の始まりか」
そう独り言を漏らしながら駅を出た時だった。
「おい、エドワード!」
背後から聞き慣れた声がした。
振り返ると、一人の海軍士官がこちらへ向かって歩いてきていた。
「おや、トーマスじゃないか」
ハミルトンは笑顔を見せた。
声をかけてきたのは、同じ「フッド」に勤務するトーマス・ウィリアム・ベネット海軍大尉であった。年齢は30歳。
ハミルトンとは士官候補生時代からの付き合いであり、彼現在はフッドの航海科に所属していた。
「休暇はどうだった?」
「悪くなかったよ。久しぶりに母の料理を食べられたし、父ともゆっくり話せた」
「そいつは羨ましいな。俺なんか休暇の半分を親戚の結婚式に費やしたんだぞ」
「それはご愁傷様」
二人は笑いながら歩き始めた。
海軍基地へ続く通りには、軍需品を運ぶ荷馬車や自動車が行き交っていた。
沿道には海軍軍人を相手にする仕立屋や酒場が軒を連ね、店先では水兵たちが煙草をふかしていた。
「ところでエドワード、新聞は読んだか?」
ベネットが尋ねた。
「ああ。ドイツとフランスのことだろう?」
「それだけじゃない。ロシアも随分と騒がしくなっているらしい。昨日、士官室でもその話でもちきりだった」
「また外交危機か。十年前から何度も聞かされた話じゃないか」
「まあ、そうなんだがな」
ベネットは少し声を落とした。
「どうも今回は、いつもと様子が違うらしい」
「どう違うんだ?」
「詳しいことは分からん。ただ、艦隊司令部ではここ数日、随分と慌ただしい動きがあるそうだ。休暇を切り上げて戻ってきた士官もいる」
ハミルトンは眉をひそめた。
「それは単なる演習準備じゃないのか?」
「さあな。俺もそうだと思いたいが」
ベネットは肩をすくめた。
「もっとも、俺たちが心配したところで何か変わるわけでもないさ」
「まったくだ」
ハミルトンは笑って答えた。しかし、先ほど列車内で読んだ新聞記事が、再び頭をよぎった。
片隅にあった「ドイツの新型戦艦」の文字。
一瞬足を止めたが、すぐに再び海軍基地に向かい歩き出した。
後編へ続く




