序章 第一節「大正十三年、夏」
ー1924年(大正十三年)8月12日ー
大日本帝国 横須賀軍港沖 戦艦「長門」艦上
夏の夜風にあたりながら若い海軍大尉が遠くの水平線を見つめていた。
数年前に海軍兵学校を卒業したばかりの砲術士官、篠原直樹大尉である。28歳であった。
彼は日露戦争を直接知らない世代であった。
幼い頃から日本海海戦の英雄譚を聞いて育ち、いつか自らも戦艦に乗り、帝国海軍の一員として国を守ることを夢見ていた。
そう思うのは当初の男子たちの中ではごく自然なことであり、篠原も特段優れた成績という訳ではなかったが、難関と言われた海軍兵学校を卒業し戦艦「長門」の砲術士官を拝命されたことには誇りを感じていた。
篠原はぼんやりと海を眺めているとチーク材の甲板をコツコツと歩いてくる足音が聞こえていた。
ふと振り返ると次の瞬間には緊張した様子で「艦長!」と言って敬礼した。
「あぁ、かまわんよ」
そう言うと彼は篠原の隣に並んだ。
有馬忠久海軍大佐、戦艦「長門」の艦長である。
有馬は篠原とは異なり日露戦争を間近で経験していた。
東北の貧しい農村の生まれだったが幼い頃から勉学に励み、海軍兵学校に入校した。
卒業後すぐに日露戦争が勃発し、士官候補生だった有馬は装甲巡洋艦「浅間」で日本海海戦にも参加していた。
篠原はやや落ち着いた様子で敬礼を解くと有馬に「艦長、こんな時間にどうされました?」と尋ねた。
「ガンルーム(士官室)が蒸し暑くてなぁ」
少し笑った様子で答えた。
「そうでしたか」「まぁ、ここも対して変わりませんが」
篠原も少し笑って答えた。
この日の横須賀は熱帯夜で気温は28℃を越えていた。この時代の艦艇には冷房はなく鉄板で囲われている室内はさながらサウナのようになっていた。
二人はしばらく海を眺めた後に、有馬がふと背後にそびえる巨大な艦橋を見上げた。
「それにしても、大した艦だな」
「長門のことでありますか?」
「ああ。初めてこの艦を見た時は驚いたものだ。まさか四十一糎砲を積んだ戦艦が我が国で建造されるとはな」
有馬はそう言うと、月明かりに照らされた第一主砲塔へと視線を移した。
「まさしく帝国海軍の誇りであります」
篠原は自慢げに答えた。
「私が兵学校にいた頃、長門の建造が始まったと聞いて同期の者たちと随分騒いだものです。いつかはこの艦に乗ってみたいと」
「ほう、それで念願が叶ったわけか」
「はい。もっとも、実際に乗ってみると覚えることばかりで、感慨に浸る暇もありませんでしたが」
そう答えると二人は小さく笑った。
戦艦「長門」は1920年(大正九年)に竣工した帝国海軍の最新鋭戦艦であり、姉妹艦の陸奥と共に連合艦隊の主力を担っていた。
その威容はまさに帝国海軍の象徴と言うべきものであり、横須賀の市民たちも港に長門の姿を見つけると足を止めて眺めるほどであった。
しかし、有馬の表情はどこか複雑であった。
「……時代は変わったものだな」
有馬は独り言のように呟いた。
「と、申されますと?」
「わしが初めて軍艦に乗った頃の話だ。あの頃は三十糎砲を積んだ戦艦でさえ世界有数の大艦と呼ばれておった。速力十八節も出れば立派な高速戦艦だったものだ」
有馬は懐かしそうに目を細めた。
「日本海海戦の時など、敵艦を見つけるのも、砲弾が命中したかを確かめるのも、最後は人間の目が頼りだった。測距儀も今ほど優秀ではなかったからな」
「日本海海戦……艦長は浅間に乗られていたのでしたね」
「ああ。あの時はまだ右も左も分からん若造だった。敵の砲弾が海面に落ちるたびに、腹の底まで響くような音がしたものだ」
有馬はそこで言葉を切った。
「...戦が終わった後、艦の甲板を洗い流した時のことは今でも覚えておる。勝ったとはいえ多くの戦友が死んだ」
先ほどまでの穏やかな表情は消えていた。
「浅間」は日本海海戦では海戦初期の被弾により舵を損傷、集中砲火を受け多数の死傷者が出ていた。その中には有馬の同期の若い士官候補生の姿もあった。
篠原は何も言わずただ静かに耳を傾けていた。
「それが今ではどうだ。大砲は四十一糎になり、射程も当時とは比べものにならん。航空機が空を飛び、潜水艦が海中から魚雷を放つ。わずか二十年足らずで海戦そのものが変わろうとしておる。時代は変わる...」
「しかし、どれほど兵器が進歩しようとも、最後に勝敗を決するのは人間ではないでしょうか」
「ほう、なかなか立派なことを言うじゃないか」
篠原は少し照れながら言った。
「いえ、兵学校で教わった受け売りであります」
「ははは、正直でよろしい!」
有馬は愉快そうに笑った。
やがて笑い声が収まると、再び静かな波音だけが二人の間に流れた。
「しかしな、篠原大尉。わしは時折考えるのだ。これほどまでに強大な軍艦を、世界中の国々が競うように造り続けて、一体どうするつもりなのだろうとな」
「うむ。英国は新型戦艦を次々と建造し、ドイツもそれに対抗しておる。北海の両岸には、今や互いを睨み合う大艦隊が存在しているそうだ」
有馬は懐から煙草を取り出すと一本を口に咥え、マッチで火をつけた。
「英国は世界最大の海軍国という地位を守ろうとし、ドイツはそれに追いつこうとしている。フランスもロシアも、黙って見ているわけにはいかんだろう」
「米国も近年は随分と海軍の拡張に熱心であります」
「そうだ。太平洋の向こうでも新しい戦艦が続々と建造されておる。我が国とて例外ではない」
有馬は煙をゆっくりと吐き出した。
「十年前、欧州では大きな戦争が起こると言われていた。オーストリアの皇太子が暗殺された時など、いよいよ欧州全土が火の海になると誰もが思ったものだ」
「ですが、結局は戦争には至りませんでした」
「ああ。各国の外交官たちが土壇場で踏みとどまった。あの時は世界中が胸を撫で下ろしたものだ」
有馬は少し間を置いた。
「あの時、いずれの国も戦争を望んでいるとは公言しなかった。しかし、いずれの国も戦争に備えることだけは決して怠らなかった」
篠原はふと言った。
「平和を守るために軍艦を造る。だが、相手も同じことを考えて軍艦を造る。そうして互いに疑心暗鬼になり、気がつけば引くに引けなくなる」
有馬は静か黙ってうなづいた。
「まるで火薬庫の中で、誰が一番大きな松明を持っているか競っているようなものだな」
「……いつか、戦争になるのでしょうか」
篠原の問いに、有馬はすぐには答えなかった。
遠くの陸地では、横須賀の街明かりが夜空をぼんやりと照らしていた。
「分からん」
しばらくして、有馬は口を開いた。
「ただ、もし戦争になれば、日露戦争のようには済まんだろうな。あれから二十年、兵器は進歩しすぎた。次の戦争では一度の海戦で何万人もの将兵が命を落とすかもしれん」
「その時、我が国はどうするのでしょう」
「それを決めるのは政治家たちだ。我々軍人は、命令が下ればそれに従うまでよ」
有馬はそう言って煙草の火を消した。
「もっとも、戦争など起こらんに越したことはないがな」
「はい」
二人は再び海へと目を向けた。
篠原はふと横須賀の岸辺に目を向けた。
海軍工廠の方角である。
東洋一とも言われた横須賀海軍工廠は数多くのの艦艇を建造しており、長門の姉妹艦「陸奥」もその一隻であった。夜も更けていたが、工廠の一角にはまだ明かりが灯っていた。「陸奥」を建造した巨大なガントリークレーンの下には、新たな建造途中の軍艦が黒々とした船体を横たえていた。
「……あれも、いずれは長門を凌ぐのでしょうか」
篠原が呟いた。
有馬もその視線の先を見つめた。
「ああ。あれが完成すれば、長門も最新鋭とは呼ばれなくなるだろうな」
横須賀海軍工廠で建造が進められていたのは、帝国海軍が威信をかけて計画した新型戦艦であった。長門型を上回る巨体に、四十一糎連装砲五基十門を備え、排水量は四万噸を超えるという。さらに速力は三十節近くに達するとされ、完成すれば世界でも屈指の高速戦艦となる予定であった。
新型の戦艦「第四号巡洋戦艦」
本来ならば巡洋戦艦として計画された艦であったが、帝国海軍は設計を改め、新時代の高速戦艦として建造を進めていたのである。
一番最初に起工されたが昨年の震災の影響もありまだ艤装の途中であった。
しかし船体その物は完成しており来月進水を迎える予定である。
工廠の照明に浮かび上がる鋼鉄の巨体は、長門に勝るとも劣らぬ威圧感を放っていた。
「我々の乗る長門でさえ、いずれは旧式艦になるということだ」
有馬は少し寂しそうに笑った。
「軍艦というものは不思議なものだな。完成したその日から、次に造られる軍艦に追い越される運命にある」
「ですが、艦長」
「うん?」
「私は、たとえ長門が旧式になろうとも、この艦に乗れたことを誇りに思います」
有馬は篠原の顔を見た。
そして満足そうに頷いた。
「うむ。それでよい。軍艦の価値は大砲の大きさだけで決まるものではない。最後にその艦の名を残すのは、そこに乗った人間たちだからな」
遠くの工廠から、金属を打つ乾いた音が微かに響いてきた。それはまるで、まだ姿を現さぬ新時代の艦隊が、その誕生を告げているかのようであった。
有馬は腕時計に目を落とした。
「さて、そろそろ戻るとするか。明日も早い」
「はっ、お疲れ様であります!」
篠原が気をつけして敬礼すると、有馬も軽く答礼した。
艦長の背中が艦内へと消えていくのを見届けた後、篠原はもう一度だけ工廠の方角を振り返った。
建造中の新型戦艦。
その向こうには、夜の闇に沈む横須賀の街並みが広がっていた。
この時、篠原はまだ知らなかった。
10年前に回避されたはずの欧州大戦が、再び世界の運命を大きく揺るがそうとしていることを。
そして、自らが誇りとする帝国海軍の軍艦が、遠く離れた欧州の海で戦う日が訪れようとしていることを。
1924年(大正十三年)8月12日。
世界は、長すぎた平和の最後の夏を迎えていた。




