第一章 第四節「ドナウの砲声」後編
-1924年9月17日 午前11時05分-
セルビア王国軍 サヴァ川南岸 国境警備隊陣地
ペトロヴィッチ中尉の小隊は、前日の戦闘によって大きな損害を受けていた。
塹壕の一部は崩れ、負傷兵たちは後方へ運ばれていた。
しかし、陣地はまだ維持されていた。
ペトロヴィッチは双眼鏡を覗いた。
対岸のオーストリア軍陣地では、将校たちが集まっている様子が見えた。
ヨヴァノヴィッチ軍曹が駆け寄った。
「中尉殿!」
「何だ?」
「対岸の指揮所付近で、敵の活動が活発になっています」
ペトロヴィッチは頷いた。
「確認した」
「新たな攻撃準備でしょうか?」
「その可能性はある」
ペトロヴィッチは地図を広げた。
「上級司令部へ報告しろ」
「はっ!」
ヨヴァノヴィッチは伝令兵を呼んだ。
ペトロヴィッチは再び対岸を見つめた。
敵の砲兵陣地からは、時折、砲煙が立ち上っていた。
しかし、前日ほど激しい砲撃ではなかった。
「……何かを待っているのか」
彼は呟いた。
そのとき、後方からセルビア軍の砲声が響いた。
味方砲兵が、反撃を開始したのである。
ペトロヴィッチは双眼鏡を覗いた。
砲弾がサヴァ川を越え、対岸へ向かって飛翔していく。
数秒後、ゼムン方面で爆発が起こった。
「着弾!」
ヨヴァノヴィッチが叫んだ。
ペトロヴィッチは静かに頷いた。
「敵の砲兵を黙らせてくれればいいが……」
彼はそう呟いた。
その砲撃が、オーストリア軍の高級将校を死に至らしめることになるとは、まだ知らなかった。
-同日 午前11時18分-
オーストリア=ハンガリー帝国軍 サヴァ川北岸 前進指揮所
最初の砲弾は、前進指揮所から百メートルほど離れた畑に落下した。
地面が震え、乾いた土が空高く吹き上がる。
「敵砲撃!」
見張りの兵士が叫んだ。
アルテンブルク中将は、双眼鏡を下ろした。
「セルビア軍の砲兵か」
「閣下、ここは危険です。直ちに後方へ!」
副官が叫んだ。
しかし、中将はすぐには動かなかった。
「渡河部隊の状況はどうなっている?」
「依然として敵の抵抗を受けています!」
「ならば、砲兵に――」
その言葉は、最後まで続かなかった。
耳をつんざくような飛翔音。
次の瞬間、指揮所のすぐ近くで砲弾が炸裂した。
凄まじい爆風が周囲を襲い、木製の観測台が砕け散った。
副官は地面に投げ出された。
しばらくして、彼は耳鳴りの中で意識を取り戻した。
「……閣下?」
返事はなかった。
「アルテンブルク閣下!」
倒壊した指揮所のそばに、軍服姿の男が倒れていた。
ヨーゼフ・フォン・アルテンブルク中将だった。
副官は駆け寄り、その肩を抱き起こした。
「衛生兵! 衛生兵を呼べ!」
しかし、中将はすでに意識を失っていた。
駆けつけた軍医が診察したものの、ほどなく静かに首を振った。
「……残念ですが」
副官は何も言えなかった。
つい数分前まで、目の前で部隊に命令を下していた将軍が、今は動かなくなっていた。
遠くでは、まだ砲声が続いていた。
その日、オーストリア=ハンガリー帝国陸軍は、セルビア戦線において一人の中将を失った。
-同日 午後0時05分-
オーストリア=ハンガリー帝国軍 ゼムン方面前線司令所
アルテンブルク中将の戦死は、前線司令所に大きな衝撃を与えた。
参謀将校たちは慌ただしく動き、各部隊への連絡が相次いだ。
「中将閣下が戦死された?」
現地司令官は、報告を受けて顔色を変えた。
「間違いないのか?」
「はい。軍医が死亡を確認しました」
司令官はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「……ウィーンへ報告しろ」
「はっ!」
参謀将校は敬礼した。
司令官は地図を見つめた。
アルテンブルク中将は、バルカン方面の作戦計画を担当していた重要人物だった。
その戦死は、単なる一人の将校の損失ではない。
軍の士気にも影響を及ぼす可能性があった。
「各部隊へ伝えろ」
司令官は命じた。
「現在の防御線を維持し、次の命令を待て」
「攻撃は?」
「一時停止する」
司令官は答えた。
「指揮系統を確認するまで、無理な攻撃は行わん」
参謀将校たちは頷いた。
前線では、依然として戦闘が続いていた。
しかし、オーストリア軍の攻勢は一時的に勢いを失っていた。
-同日 午後6時40分-
オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン 陸軍省
ウィーンの陸軍省では、緊急会議が開かれていた。
アルテンブルク中将の戦死は、すでに軍上層部へ報告されていた。
会議室には、重苦しい空気が漂っていた。
「……アルテンブルク中将が戦死した」
一人の高級将校が静かに言った。
「前線視察中、セルビア軍の砲撃を受けたとのことです」
別の将校が拳を握りしめた。
「許しがたい」
「セルビア軍の抵抗は、予想以上に激しい」
参謀将校が報告した。
「渡河作戦は停滞し、損害も増加しています」
会議室が静まり返った。
「攻撃を中止すべきではないか」
一人の将校が言った。
「このままでは、さらに損害が増える」
しかし、別の将校が反論した。
「今さら退くわけにはいかん!」
彼は机を叩いた。
「中将閣下の戦死を無駄にするつもりか!」
議論は次第に激しくなった。
しかし、最終的に軍上層部は攻勢継続の方針を確認した。
「セルビア軍への圧力を緩めるわけにはいかん」
会議を主導する将校が言った。
「ただし、無理な渡河攻撃は避け、部隊の再編成を優先する」
参謀将校たちは頷いた。
「そして、ドイツ帝国へ戦況を報告する」
その言葉に、会議室は再び静まり返った。
オーストリア=ハンガリー帝国は、すでに同盟国ドイツの支援を必要としていた。
戦争は、想定より難しいものになり始めていた。
-1924年9月18日 午前8時15分-
ドイツ帝国 ベルリン 帝国参謀本部
ベルリンの帝国参謀本部には、ウィーンからの報告が届いていた。
シュタインベルク大将は、机上の電報を見つめていた。
「.....やはりセルビアは手強いか」
シュタインベルクは静かに息を吐いた。
「戦況は?」
「オーストリア軍の渡河攻撃は停滞しています」
ライヒェナウは続けた。
「セルビア軍の抵抗は予想以上に激しく、オーストリア軍は部隊の再編成を進めています。」
「被害は?」
「砲撃と銃撃戦により多数の死傷者が発生している模様です。また、前線を視察中だった中将1名が砲撃により死亡したとのことです。」
フリードリヒ大尉は、黙って報告を聞いていた。
シュタインベルクが口を開いた。
「ヴァルテンベルク大尉」
「はっ」
「君は、この戦況をどう見る?」
フリードリヒは一呼吸置いた。
「閣下、オーストリア軍の短期決戦構想は、すでに困難に直面していると考えます」
シュタインベルクは頷いた。
「理由は?」
「セルビア軍は、予想以上に組織的な抵抗を続けています」
フリードリヒは地図を指した。
「さらに、渡河作戦の失敗によって、オーストリア軍は攻勢の再編成を余儀なくされています」
ライヒェナウが尋ねた。
「つまり、戦争が長期化する可能性があるということか?」
「はい」
フリードリヒは答えた。
「その可能性は高まっています」
シュタインベルクは腕を組んだ。
「……ロシアが動く前に、セルビアを屈服させることができなければ、状況はさらに悪化する」
フリードリヒは静かに頷いた。
「その通りです」
会議室には、重苦しい沈黙が流れた。
ドイツ帝国は、まだ戦争に参加していない。
しかし、同盟国の苦戦は、確実にドイツの戦略的立場を難しくしていた。
-同日 午後2時30分-
ロシア帝国 サンクトペテルブルク 冬宮殿
ロシア帝国の首都サンクトペテルブルク。
冬宮殿では、皇帝ニコライ二世が政府高官から報告を受けていた。
窓の外には、ネヴァ川の水面が広がっていた。
ニコライ2世は、机上の報告書を静かに読んでいた。
「……セルビアへの砲撃はまだ続いているのか」
ヴォロンツォフ外務大臣が答えた。
「はい、陛下」
外務大臣は、険しい表情を浮かべていた。
「セルビア政府は、我が帝国に対してさらなる支援を求めております」
ニコライ2世は静かに頷いた。
「オーストリア軍の状況は?」
「渡河攻撃が停滞している模様です」
ヴォロンツォフは続けた。
「また、オーストリア軍の中将1名が戦死したとの情報も入っております」
皇帝は眉をひそめた。
「中将が?」
「はい」
ニコライ2世はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「戦争は、すでに多くの命を奪っている」
ヴォロンツォフは頷いた。
「陛下、外交的解決の可能性は、まだ残されております」
「そうであってほしい」
ニコライ2世は答えた。
そのとき、オルロフ中将が口を開いた。
「陛下」
「何だ、オルロフ」
「軍事的な備えについて、進言がございます」
オルロフ中将は、ロシア帝国陸軍参謀本部の作戦担当将校だった。
「現段階で総動員を行う必要はありません」
彼は続けた。
「しかし、西部方面の警戒態勢を強化し、動員計画の再確認を進めるべきと考えます」
ニコライ2世は静かに頷いた。
「ドイツはどう動く?」
「現時点では、ドイツ軍も総動員には踏み切っておりません」
オルロフは答えた。
「しかし、我が軍の動きに対して警戒を強めているものと思われます」
皇帝は窓の外を見つめた。
「……互いに、相手を恐れているのだな」
オルロフは黙っていた。
「ロシアが動けば、ドイツも動く」
ニコライ二世は静かに言った。
「ドイツが動けば、フランスも動くかもしれん」
ヴォロンツォフは頷いた。
「陛下、その連鎖を避けることが重要です」
皇帝はしばらく考えた。
そして、静かに命じた。
「軍の警戒態勢を強化することは認める」
オルロフは敬礼した。
「はっ!」
「しかし、まだ総動員は行わない」
皇帝は続けた。
「外交交渉を継続せよ」
ヴォロンツォフは深く頭を下げた。
「承知いたしました」
ニコライ2世は再び窓の外を見つめた。
ネヴァ川の水面には、午後の陽光が反射していた。
帝都は、まだ平穏だった。
しかし、遠く離れたバルカン半島では、戦争が続いている。
その戦争がロシア帝国へ及ぶ可能性を、皇帝は強く意識し始めていた。
-同日 午後6時10分-
セルビア王国 ベオグラード北西部 国境警備隊陣地
夕暮れのサヴァ川。
砲声は、ようやく少なくなっていた。
ペトロヴィッチ中尉は、塹壕の中で小隊の損害報告を確認していた。
机代わりの木箱の上には、兵士たちの名前が記された紙が置かれていた。
戦死者。
負傷者。
行方不明者。
その数は、決して少なくなかった。
ヨヴァノヴィッチ軍曹が静かに近づいた。
「中尉殿」
「何だ?」
「後方から、補充兵が到着するそうです」
ペトロヴィッチは頷いた。
「そうか」
軍曹は少し迷った後、尋ねた。
「……我々は、勝ったのでしょうか」
ペトロヴィッチは顔を上げた。
そして、静かに答えた。
「敵を渡らせなかった」
「はい」
「だが、それだけだ」
ヨヴァノヴィッチは黙っていた。
「多くの部下を失った」
ペトロヴィッチは続けた。
「敵も、同じように死んでいるだろう」
彼は紙を見つめた。
「これを勝利と呼べるのか、私には分からん」
軍曹は何も答えなかった。
遠くでは、再び砲声が響いた。
ペトロヴィッチは塹壕の外を見つめた。
サヴァ川の向こうには、オーストリア軍の陣地が広がっている。
その向こうには、ウィーンがある。
さらにその先には、ベルリンがある。
そして、東方にはロシア帝国が存在していた。
この戦争が、どこまで広がるのか。
彼には分からなかった。
サヴァ川の両岸で響いた砲声は、単なる国境紛争の音ではなかった。
それは、欧州全体を巻き込む大戦争の前触れとなるかもしれない音だった。
そして、その砲声は、遠く離れた黒海の向こう側にも届こうとしていた。
ロシア帝国と長年にわたり対立してきた、もう一つの帝国。
オスマン帝国。
ボスポラス海峡を挟んで欧州とアジアにまたがるその国家もまた、バルカン半島で始まった戦争を、決して他人事とは考えていなかった。
1924年9月。
欧州の戦火は、少しずつ新たな地域へと影を落とし始めていた。
第一章 第四節 終




