第一章 第四節「ドナウの砲声」中編
-1924年9月16日 午前10時15分-
オーストリア=ハンガリー帝国軍 ゼムン サヴァ川北岸
砲撃開始から四時間余りが経過していた。
サヴァ川の両岸には、硝煙が漂っていた。
ゼムン方面の砲兵陣地では、ホーエンベルク少佐が観測報告を受けていた。
「敵の河岸陣地に複数の着弾を確認しました」
観測将校が報告した。
観測将校が報告した。
「しかし、機関銃陣地の制圧状況は不明です」
ホーエンベルクは眉をひそめた。
「不明、か」
「はい。敵の陣地は土嚢と掩体で補強されている模様です」
少佐は双眼鏡を覗いた。
対岸には、砲撃によって生じた土煙が立ち込めていた。
塹壕の一部は破壊されているように見える。
しかし、敵兵の姿はほとんど確認できなかった。
「……沈黙しているからといって、全滅したわけではない」
ホーエンベルクは呟いた。
そのとき、伝令兵が駆け込んできた。
「少佐殿! 渡河部隊より連絡です!」
「何だ?」
「午前11時をもって、第一波の渡河を開始するとのことです!」
ホーエンベルクは腕時計を確認した。
「了解した」
彼は砲兵中尉へ向き直った。
「渡河部隊が川へ進出する直前まで、敵陣地への制圧射撃を継続する」
「はっ!」
「ただし、味方が対岸へ上陸した後は、射撃区域を変更する。誤射は絶対に避けろ」
「了解しました!」
中尉は敬礼した。
ホーエンベルクは再び対岸を見つめた。
川幅は場所によって異なるが、渡河地点では数百メートルに及ぶ。
その距離を、歩兵たちは舟艇で渡らなければならない。
敵の機関銃が生き残っていれば、渡河部隊は大きな損害を受けるだろう。
ホーエンベルクは静かに息を吐いた。
「……どうか、砲撃が十分に効いていてくれ」
-同日 午前10時50分-
セルビア王国 ベオグラード北西部 国境警備隊陣地
ペトロヴィッチ中尉の小隊は、砲撃によって大きな損害を受けていた。
塹壕の一部は崩れ、通信線も切断されていた。
負傷兵たちは後方へ運ばれ、残された兵士たちは必死に陣地を修復していた。
「中尉殿!」
ヨヴァノヴィッチ軍曹が駆け寄った。
「第一分隊、戦闘可能な兵士は八名です!」
「第二分隊は?」
「十二名です!」
ペトロヴィッチは眉をひそめた。
小隊の兵力は、すでに大きく減少していた。
「機関銃は?」
「一挺は使用可能です。もう一挺は砲撃で破損しました」
「弾薬は?」
「まだあります。ただし、補給は期待できません」
ペトロヴィッチは頷いた。
「了解した」
彼は双眼鏡を覗いた。
対岸のゼムン方面では、何かが動いていた。
兵士たちが川岸に集まっている。
舟艇らしきものも見えた。
「……渡河準備だ」
ペトロヴィッチは呟いた。
ヨヴァノヴィッチも双眼鏡を覗いた。
「間違いありません」
「各分隊に伝えろ。敵が川の中央付近へ来るまで発砲するな」
「了解しました」
ペトロヴィッチは続けた。
「機関銃は、先頭の舟艇を優先して狙え」
「はっ!」
ヨヴァノヴィッチは走っていった。
ペトロヴィッチは小銃を握りしめた。
砲撃は、まだ続いていた。
しかし、敵の歩兵が動き始めた以上、次に来るのは本格的な攻撃だった。
-同日 午前11時05分-
オーストリア=ハンガリー帝国軍 サヴァ川渡河地点
「第一波、前進!」
命令が響いた。
オーストリア軍の歩兵たちは、工兵が準備した舟艇へ乗り込んだ。
舟艇には、十数名の兵士が乗り込んでいた。
小銃を抱えた兵士たちは、緊張した表情で対岸を見つめていた。
「大丈夫だ」
一人の伍長が言った。
「砲兵が敵を叩いている。向こうには、もう大した兵力は残っていないはずだ」
若い兵士が尋ねた。
「本当でしょうか?」
「そうでなければ、我々を渡らせるはずがない」
伍長は笑った。
しかし、その笑顔には余裕がなかった。
舟艇が岸を離れた。
兵士たちは櫂を動かし、川を渡り始めた。
水面には、砲撃によって生じた波紋が広がっていた。
対岸は静かだった。
セルビア軍からの射撃はない。
「……敵は逃げたのか?」
若い兵士が呟いた。
そのときだった。
対岸の塹壕から、突然、銃声が響いた。
続いて、機関銃の連続射撃が始まった。
「敵襲!」
伍長が叫んだ。
次の瞬間、舟艇の側面に銃弾が命中した。
木片が飛び散る。
兵士の一人が倒れた。
「伏せろ!」
しかし、舟艇の上には身を隠す場所などほとんどなかった。
機関銃弾が水面を叩き、白い水柱が次々と立ち上がった。
兵士たちは必死に身を低くした。
櫂を握っていた兵士が撃たれ、舟艇は進路を失った。
「漕げ! 早く漕げ!」
伍長が叫んだ。
しかし、舟艇は流れに押されて横を向き始めた。
その瞬間、近くの水面に砲弾が落下した。
大きな水柱が立ち上がり、舟艇が激しく揺れた。
兵士たちは悲鳴を上げた。
渡河作戦は、開始からわずか数分で混乱に陥っていた。
-同日 午前11時12分-
セルビア王国軍 サヴァ川南岸
「撃て!」
ペトロヴィッチ中尉が叫んだ。
塹壕から小銃射撃が始まった。
機関銃が連続して火を噴く。
川の中央付近では、オーストリア軍の舟艇が次々と停止していた。
「先頭の舟艇を狙え!」
ヨヴァノヴィッチ軍曹が叫んだ。
「後続を近づけるな!」
兵士たちは必死に射撃を続けた。
しかし、敵も反撃していた。
舟艇から小銃弾が飛んでくる。
対岸の砲兵陣地からも、再び砲弾が飛来した。
塹壕の前方で爆発が起こる。
「伏せろ!」
ペトロヴィッチが叫んだ。
兵士たちは身を低くした。
土と石が降り注ぐ。
しかし、砲撃が止むと再び射撃を開始した。
ペトロヴィッチは双眼鏡を覗いた。
敵の舟艇の一部は、すでに引き返していた。
しかし、数隻は対岸へ向かって進み続けている。
「……まだ来るか」
彼は呟いた。
ヨヴァノヴィッチが駆け寄った。
「中尉殿、右側の陣地が突破されそうです!」
「何だと?」
「敵の一部が上陸しました!」
ペトロヴィッチはすぐに判断した。
「第二分隊を右側へ回せ!」
「はっ!」
「機関銃は正面を維持! 敵の後続を止めろ!」
ヨヴァノヴィッチは走っていった。
ペトロヴィッチは小銃を握りしめた。
敵はすでに川を渡り始めている。
ここから先は、塹壕の中での戦闘になる。
-同日 午後1時30分-
オーストリア=ハンガリー帝国軍 ゼムン方面砲兵陣地
渡河作戦は、予定より大幅に遅れていた。
ホーエンベルク少佐は、次々と届く報告に眉をひそめていた。
「第一波、損害多数!」
「第二波、渡河を一時停止!」
「対岸に上陸した部隊との通信が途絶!」
報告が重なった。
ホーエンベルクは地図を見つめた。
「……やはり、敵の機関銃陣地が残っていたか」
彼は静かに呟いた。
砲撃によって敵の陣地を完全に制圧することはできなかった。
さらに、渡河部隊が対岸へ上陸したことで、砲兵支援は難しくなっていた。
敵の陣地と味方部隊の位置が近すぎる。
誤射の危険があるため、無制限に砲撃を続けることはできなかった。
「少佐殿」
砲兵中尉が声をかけた。
「司令部より、攻撃継続の命令です」
ホーエンベルクは顔を上げた。
「……攻撃継続だと?」
「はい」
少佐はしばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「了解した」
彼は地図を指した。
「ただし、味方部隊の位置が確認できるまでは、対岸への集中射撃は行わない」
「はっ!」
ホーエンベルクは双眼鏡を覗いた。
川の向こうでは、まだ戦闘が続いていた。
煙の中に、時折、銃火が見える。
彼は静かに息を吐いた。
「……これが、短期決戦か」
-1924年9月17日 午前9時40分-
オーストリア=ハンガリー帝国軍 ゼムン方面前線司令所
翌朝。
サヴァ川沿岸では、依然として散発的な戦闘が続いていた。
前日の渡河攻撃は、決定的な成果を得られなかった。
オーストリア軍の一部は対岸に上陸したものの、セルビア軍の反撃によって孤立し、夜間に撤収を余儀なくされていた。
ゼムン方面の前線司令所では、将校たちが慌ただしく動いていた。
そこへ、一台の軍用自動車が到着した。
車から降りたのは、ヨーゼフ・フォン・アルテンブルク中将だった。
「閣下!」
現地の将校たちが敬礼した。
アルテンブルクは軽く頷いた。
「戦況は?」
現地司令官が答えた。
「昨日の渡河攻撃は、敵の抵抗によって停滞しました」
「損害は?」
「現在、集計中です」
アルテンブルクは眉をひそめた。
「集計中、か」
彼は地図を見つめた。
「敵の機関銃陣地は?」
「依然として健在です」
「砲兵は何をしている?」
「制圧射撃を続けていますが、敵の陣地は堅固です」
アルテンブルクは腕を組んだ。
「……なるほど」
彼はしばらく考えた。
そして、静かに言った。
「前進指揮所へ行く」
現地司令官が驚いた。
「閣下、あそこは敵砲兵の射程内です!」
「分かっている」
「危険すぎます!」
アルテンブルクは首を振った。
「報告書だけでは、現場の状況は分からん」
彼は続けた。
「私は自分の目で確かめたい」
将校たちは顔を見合わせた。
しかし、中将の決意は固かった。
「車を用意しろ」
アルテンブルクは命じた。
「前進指揮所へ向かう」
-同日 午前10時20分-
オーストリア=ハンガリー帝国軍 サヴァ川北岸 前進指揮所
アルテンブルク中将は、前進指揮所に到着した。
そこには、ホーエンベルク少佐が待っていた。
「閣下!」
少佐は敬礼した。
「ホーエンベルク少佐か」
「はっ!」
「砲兵の状況を説明してくれ」
ホーエンベルクは地図を広げた。
「現在、敵の河岸陣地に対して断続的な砲撃を実施しております」
彼は続けた。
「しかし、敵の機関銃陣地は依然として健在です」
アルテンブルクは眉をひそめた。
「昨日の渡河攻撃は?」
「敵の抵抗によって停滞しました」
「砲兵支援が不足していたのか?」
ホーエンベルクは一呼吸置いた。
「閣下、砲兵支援そのものは予定どおり実施しました」
彼は続けた。
「しかし、敵の陣地は予想以上に堅固でした。また、渡河部隊が対岸へ上陸した後は、誤射を避けるため射撃区域を制限せざるを得ませんでした」
アルテンブルクは黙って聞いていた。
「つまり、歩兵と砲兵の連携に問題があったということか」
「はい」
ホーエンベルクは答えた。
「通信の途絶も大きな問題でした」
アルテンブルクは静かに頷いた。
「分かった」
彼は双眼鏡を手に取った。
そして、サヴァ川の向こうを見つめた。
対岸には、セルビア軍の陣地が広がっている。
土煙の中に、塹壕の一部が見えた。
「……あそこに、敵がいるのか」
「はい」
ホーエンベルクは答えた。
「我が軍は、あの陣地を突破できずにいます」
アルテンブルクはしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「攻撃を継続する」
ホーエンベルクは顔を上げた。
「閣下」
「ただし、無理な渡河は避ける」
アルテンブルクは続けた。
「砲兵による制圧を強化し、敵の防御陣地をさらに削る」
彼は地図を指した。
「歩兵と工兵の連携を改善し、次の攻撃に備えるのだ」
ホーエンベルクは敬礼した。
「了解しました」
アルテンブルクは再び対岸を見つめた。
そのとき、遠くで砲声が響いた。
セルビア軍の砲兵が、反撃を開始したのである。
第四節 後編へ




