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第一章 第四節「ドナウの砲声」前編

-1924年9月16日 午前4時45分-

オーストリア=ハンガリー帝国 ゼムン サヴァ川北岸



 夜明け前のサヴァ川には、薄い霧が立ち込めていた。

 川面を渡る風は冷たく、対岸のベオグラードは灰色の影となって浮かんでいる。

 川の南にはセルビア王国の首都があり、北にはオーストリア=ハンガリー帝国領のゼムンがあった。

 サヴァ川とドナウ川が合流するこの土地は、古くから帝国とバルカンを結ぶ交通の要衝であると同時に、両者を隔てる国境でもあった。

 その国境が、今や戦場となっていた。


 9月12日、オーストリア=ハンガリー帝国とセルビア王国の間で戦争が始まった。

 開戦から数日、国境地帯では小規模な銃撃戦や偵察部隊同士の衝突が繰り返されていたが、両軍の主力は慎重に相手の動きを探っていた。

 しかし、その静けさも終わろうとしていた。


 ゼムン郊外の果樹園には、オーストリア軍の砲兵陣地が築かれていた。

 砲列には、口径76.5ミリの八センチ野砲M.5/8が並んでいる。

 砲兵たちは夜明け前から準備を進め、砲弾の運搬、照準器の点検、通信線の確認を終えていた。


「第一砲列、準備完了!」

「第二砲列、異常ありません!」


 報告を受けていたのは、カール・フォン・ホーエンベルク少佐だった。

 38歳。

 ボヘミア出身のドイツ系将校で、長年にわたり砲兵部隊を指揮してきた職業軍人である。


 彼は手袋を外し、懐中時計を確認した。

 午前4時52分。

 攻撃開始まで、あと1時間余り。


「観測所との電話連絡は?」

「異常ありません、少佐殿」

「予備の伝令も用意しておけ。砲撃が始まれば、電話線はいつ切れるか分からん」

「了解しました」

 若い砲兵中尉が敬礼し、駆け足で離れていった。

 ホーエンベルクは砲列の間を歩いた。

 砲兵たちは、無言で自分の持ち場を確認している。

 その顔には緊張があった。

 無理もなかった。

 彼らの多くにとって、これが初めての実戦だった。

 オーストリア=ハンガリー帝国陸軍は、ドイツ人、ハンガリー人、チェコ人、クロアチア人、ポーランド人など、多くの民族から構成されていた。

 命令にはドイツ語が用いられることが多かったが、兵士たちが日常的に話す言葉は必ずしも同じではない。

 平時の訓練では大きな問題にならないことも、実戦では命取りになる可能性があった。


「少佐殿」

 先ほどの中尉が戻ってきた。

「何だ?」

「兵たちの間では、数日でベオグラードを占領できるという噂が広がっています」

 ホーエンベルクは対岸を見つめた。

「誰がそんなことを言っている?」

「分かりません。しかし、上層部も早期決着を期待しているようです」

「期待と現実は違う」

 少佐は静かに答えた。

「セルビア軍は、バルカン戦争を経験している。山岳戦にも慣れ、祖国を守るためなら激しく抵抗するだろう」

「しかし、我が軍は兵力でも火力でも優勢です」

「その優勢を、川の向こうまで運ばねばならん」

 ホーエンベルクはサヴァ川を指した。

「砲は岸に据えれば撃てる。だが歩兵は違う。舟を用意し、兵を乗せ、敵の銃火の中を渡らなければならん」

 彼は少し間を置いた。

「渡河というのは、攻める側が最も無防備になる瞬間だ」

 中尉は黙って頷いた。

 ホーエンベルクは再び懐中時計を見た。

「各砲長に伝えろ。射撃開始は午前6時。命令があるまで発砲を禁ずる」

「はっ!」


少佐は対岸の街を見つめた。

 まだ灯りの残る建物がいくつか見えた。

 その中には、兵士ではない人々もいるはずだった。

 子供を寝かしつける母親。

 夜勤を終えて帰宅する労働者。

 開戦以来、家財をまとめて避難の準備をしている老人。

 彼らの朝を、これから砲声が破る。

 ホーエンベルクは目を閉じた。

 軍人である以上、命令には従わなければならない。

 それが彼の義務だった。


 しかし、その義務が何をもたらすのか。

 彼は十分に理解していた。




-同日 午前5時20分-

セルビア王国 ベオグラード北西部 国境警備隊陣地


 サヴァ川南岸。

 河岸の低い丘と建物の陰には、セルビア王国陸軍の国境警備隊が配置されていた。

 土嚢と丸太で補強された塹壕が川に沿って延び、その背後には小銃兵の待避壕が掘られている。


 塹壕の一角では、一人の若い将校が双眼鏡を覗いていた。

 ミラン・ペトロヴィッチ中尉。 30歳。

 セルビア王国陸軍国境警備隊の小隊長である。

 先日発生した国境付近の銃撃事件の際に指揮を取っていた人物だった。


 彼は冷静だった。1912年から1913年にかけてのバルカン戦争では、歩兵部隊の一員として戦場を経験していた。

 その経験は、彼に戦争の現実を教えていた。

 戦場では勇敢な者から生き残るわけではない。

 運の悪い者が死に、慎重な者も死ぬ。

 そして、生き残った者は、死んだ者の名前を忘れないようにするしかなかった。


「中尉殿」

 背後から低い声がした。

 振り返ると、ドラガン・ヨヴァノヴィッチ軍曹が立っていた。 32歳。


 ペトロヴィッチより2歳年上の下士官である。

 彼もまたバルカン戦争の経験者で、部下たちから厚い信頼を集めていた。

 日に焼けた顔には、実年齢以上の落ち着きがあった。


「第一分隊、配置を完了しました」

「第二分隊は?」

「まもなくです。機関銃班も射界の確認を終えています」

「弾薬は?」

「小銃弾は十分あります。ただし、機関銃用の弾薬は長時間の戦闘となれば心許ありません」

 ペトロヴィッチは頷いた。

「無駄撃ちはさせるな」

「了解しました」

 ヨヴァノヴィッチは塹壕の縁から対岸を見つめた。


「……静かですな」

「ああ」

「10年前も、こんな朝がありました」

 ペトロヴィッチは軍曹を見た。

「バルカン戦争のときか?」

「ええ」

 ヨヴァノヴィッチは苦笑した。

「敵が来ると分かっているのに、何も起こらない。あの時間が一番嫌でした」

「戦闘が始まれば、そんなことを考える暇もなくなる」

「まったくです」


 二人はしばらく黙っていた。

 遠くから、列車の汽笛が聞こえた。

 対岸のゼムンでは、開戦以来、軍需物資を積んだ列車が次々と到着しているという。

 その数は、日に日に増えていた。


「中尉殿」

「何だ?」

「本当に、オーストリア軍は攻めてきますか?」

ペトロヴィッチは双眼鏡を覗いた。

「来る」

 短く答えた。

「なぜ、そう言い切れるのです?」

「昨日まで見えていた対岸の哨兵が、今朝は姿を消している」

 ヨヴァノヴィッチは目を細めた。

「……確かに」

「それに、砲兵陣地の周辺に人影が多い」

 ペトロヴィッチは双眼鏡を下ろした。

「準備を整えているんだ」


 ヨヴァノヴィッチは静かに頷いた。

「各分隊に伝えます」

「ああ」

 ペトロヴィッチは続けた。

「今日は何があっても陣地を離れるな。命令があるまで発砲するな」

「了解しました」


 軍曹が立ち去ると、ペトロヴィッチは再び川を見つめた。

 薄い霧が、少しずつ晴れ始めていた。

 対岸の建物が見える。

 その向こうには、オーストリア軍の陣地がある。


 彼は静かに呟いた。


「……来るなら、来い」




-同日 午前5時55分-

オーストリア=ハンガリー帝国軍 ゼムン方面砲兵陣地



 砲兵陣地に、伝令兵が駆け込んできた。

「ホーエンベルク少佐殿!」

「何だ?」

「司令部より命令です!」

 伝令兵は封筒を差し出した。

 ホーエンベルクは封を切り、中身を確認した。


 命令は簡潔だった。

 『午前6時をもって、セルビア軍の河岸防御陣地に対する砲撃を開始せよ』

 『砲撃終了後、歩兵部隊は渡河攻撃を実施せよ』


 ホーエンベルクは懐中時計を確認した。

 午前5時57分。


「各砲列、射撃準備!」

 命令が響いた。

 砲兵たちは一斉に動き始めた。

 砲弾が運ばれる。

 砲尾が開かれる。

 装填手が砲弾を押し込む。

 照準手が目盛りを確認する。

 砲長が最後の点検を終える。


「第一砲列、準備完了!」

「第二砲列、準備完了!」


 ホーエンベルクは懐中時計の針を見つめた。

 秒針が、ゆっくりと進んでいく。

 午前5時59分。

 彼は右手を上げた。

 砲兵たちは息を潜めた。


 そして。


 午前6時。

「第一砲列、射撃開始!」

 轟音が大地を揺るがした。

 砲口から炎が噴き出し、白い煙が広がる。

 砲弾はサヴァ川を越え、対岸へ向かって飛翔した。

 数秒後。

 ベオグラード側の河岸で爆発が起こった。

 土煙が立ち上る。

「着弾確認!」

 観測兵が叫んだ。

「目標より右!」

「修正、左へ!」

 ホーエンベルクは命じた。

「第二射、準備!」

 再び砲声が響いた。

 続いて、別の砲列も射撃を開始した。

 ゼムンの砲兵陣地は、瞬く間に轟音と煙に包まれた。

 数十門の火砲が、次々と砲弾を送り出していく。


 サヴァ川の静けさは、完全に失われた。




-同日 午前6時03分-

セルビア王国 ベオグラード北西部 国境警備隊陣地



「砲撃だ!」

 誰かが叫んだ。

 次の瞬間、塹壕の前方で爆発が起こった。

 土と石が空中へ吹き上がる。

「伏せろ!」

 ペトロヴィッチ中尉が叫んだ。

 兵士たちは一斉に身を低くした。

 続けて、二発目の砲弾が着弾した。

 今度は塹壕のすぐ近くだった。

 爆風が土嚢を吹き飛ばし、塹壕の一部が崩れた。

「負傷者!」

 兵士の叫び声が響いた。

 ヨヴァノヴィッチ軍曹が駆け寄った。

「中尉殿! 第二分隊の陣地に直撃です!」

「衛生兵を回せ!」

「はっ!」


 ペトロヴィッチは塹壕の縁から対岸を覗いた。

 ゼムン方面には、砲煙が幾筋も立ち上っていた。

 敵の砲兵が一斉に射撃を開始している。

「敵は本格的に攻めてくるぞ!」

 ペトロヴィッチは叫んだ。

「各分隊、戦闘配置を維持! 命令があるまで発砲するな!」

 兵士たちは小銃を握りしめた。

 砲弾が次々と着弾する。

 地面が震え、土が降り注ぐ。

 塹壕の中には、恐怖に顔を強張らせた若い兵士たちがいた。


 ペトロヴィッチは、その一人の肩を叩いた。

「落ち着け」

 兵士は震える声で答えた。

「は、はい……」

「敵はまだ川を渡っていない」

 ペトロヴィッチは静かに言った。

「我々の仕事は、ここを守ることだ」

 若い兵士は頷いた。


 そのとき、再び砲弾が着弾した。

 塹壕全体が揺れた。

 ペトロヴィッチは歯を食いしばった。

 これまで何度も戦闘を経験してきた。


 しかし、砲撃に慣れることなど決してなかった。

 戦争が始まった。

 その事実を、彼は全身で感じていた。




-同日 午前8時30分-

オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン 陸軍省



 ウィーンでは、セルビア戦線の攻撃開始が報告されていた。

 陸軍省の会議室には、軍上層部の将校たちが集まっていた。

 中央の地図には、サヴァ川とドリナ川の流域が記されている。


「ゼムン方面の砲兵部隊、予定どおり射撃を開始しました」

 参謀将校が報告した。

「セルビア軍の河岸陣地に対し、制圧射撃を実施中です」


 会議室の中央に立っていたのは、ヨーゼフ・フォン・アルテンブルク中将だった。57際。

 オーストリア=ハンガリー帝国陸軍のバルカン方面作戦担当将校である。

 長年にわたり参謀勤務を経験し、セルビア方面の作戦計画にも深く関わっていた。


 彼は地図を見つめた。

「渡河作戦は?」

「砲撃の効果を確認した後、順次開始する予定です」

「よろしい」

 アルテンブルクは頷いた。

「ただし、敵の抵抗を軽視するな」

 参謀将校たちは黙って聞いていた。


「セルビア軍は、バルカン戦争で実戦経験を積んでいる。簡単に崩れるとは考えるな」

 一人の将校が言った。

「閣下、我が軍の火力は敵を上回っています」

「火力だけでは勝てん」

 アルテンブルクは静かに答えた。

「歩兵、砲兵、工兵の連携が重要だ」

 彼は地図上のゼムンを指した。

「私は明日、前線を視察する」

 参謀将校たちは顔を見合わせた。

「閣下、自ら前線へ?」

「ああ」

 アルテンブルクは頷いた。

「報告書だけでは分からんこともある」

 彼は続けた。

「渡河作戦が停滞するようなら、現地で状況を確認する必要がある」


 一人の将校が口を開いた。

「しかし、前線は危険です」

 アルテンブルクは静かに笑った。

「戦場で危険でない場所など、どこにある?」

 誰も答えなかった。

 中将は再び地図を見つめた。

「この戦争は、早期に決着をつける」

 彼は静かに言った。


「ロシアが動き出す前に、セルビアを屈服させる必要がある」

 その言葉には、焦りが含まれていた。

 ロシア帝国は、すでにセルビアへの支持を表明している。

 もしロシア軍が軍事介入すれば、オーストリア=ハンガリー帝国は極めて困難な状況に置かれる。

 アルテンブルクは、その危険を理解していた。

 だからこそ、早期決戦を望んでいた。


 しかし、戦争は必ずしも計画どおりに進むものではなかった。



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