第一章 第三節「揺らぐ同盟」後編
-1924年9月15日 午前7時10分-
ドイツ帝国 ベルリン 帝国参謀本部
9月15日。翌朝。
ベルリンの空には、厚い雲が広がっていた。
帝国参謀本部では、早朝から新たな報告が相次いでいた。
ロシア軍の動員準備。
オーストリア軍のセルビア戦線への兵力集中。
フランス軍の警戒態勢。
そして、英国政府の外交的対応。
いずれも、欧州情勢がさらに緊迫していることを示していた。
フリードリヒは作戦課の執務室で、夜間に届いた報告書を整理していた。
その中に、一枚の電報があった。
『ロシア帝国陸軍、西部方面の鉄道輸送計画を再確認中』
彼は眉をひそめた。
前日と同じ内容だった。
しかし、今回はより具体的な情報が含まれていた。
「……ロシアは、どこまで本気なのだ」
そのとき、伝令兵が入ってきた。
「大尉殿、参謀総長閣下がお呼びです」
フリードリヒは書類をまとめた。
そして、会議室へ向かった。
-同日 午前8時00分-
ドイツ帝国 ベルリン 帝国参謀本部 2階大会議室
会議室には、前日と同じ顔ぶれが集まっていた。
シュタインベルク大将。
ライヒェナウ少将。
ブラント中佐。
フリードリヒ大尉。
あとは、数名の士官や将校.
中央の地図には、ロシア西部国境方面の軍管区が赤鉛筆で記されていた。
シュタインベルクは口を開いた。
「諸君、ロシア軍の動きについて新たな情報が入った」
ライヒェナウが立ち上がった。
「ロシア陸軍は、西部方面の動員計画を再確認している模様です」
彼は続けた。
「ただし、現段階で大規模な部隊移動は確認されておりません」
一人の将校が口を開いた。
「しかし、これは総動員の準備ではないのか?」
「その可能性はあります」
ライヒェナウは答えた。
「ただし、現時点では断定できません」
別の将校が言った。
「我々も動員準備を進めるべきだ」
その言葉に、数名が頷いた。
「ロシア軍が先に動員を開始すれば、我が帝国は不利になる」
「しかし、我々が先に動けば、ロシアはそれを脅威と判断するだろう」
議論は次第に熱を帯びていった。
シュタインベルクは静かに手を上げた。
「諸君、落ち着きたまえ」
会議室が静まり返った。
「我々は、まだ戦争をしていない」
彼は続けた。
「ロシア軍が動員準備を進めているからといって、直ちに我々も総動員を開始する必要はない」
フリードリヒは静かに頷いた。
しかし、一人の将校が反論した。
「閣下、もしロシアが先に動員を完了した場合、我が帝国は危険にさらされます」
シュタインベルクは答えた。
「その可能性は理解している」
彼は地図を見つめた。
そして、フリードリヒへ視線を向けた。
「ヴァルテンベルク大尉」
「はっ」
「君はどう考える?」
フリードリヒは立ち上がった。
「閣下、現段階では情報収集を強化し、動員計画の再確認を進めるべきと考えます」
彼は続けた。
「しかし、総動員の決定は慎重に行う必要があります」
「理由は?」
「我が帝国が総動員を開始すれば、ロシアはそれを戦争準備と判断する可能性があります」
フリードリヒは地図を指した。
「さらに、フランスがロシアを支援するため動員を開始する可能性もあります」
彼は一呼吸置いた。
「その場合、我が帝国は二正面戦争を避けられなくなる恐れがあります」
会議室が静まり返った。
「つまり、我々の準備が、相手国の準備を促すということか」
シュタインベルクが言った。
「はい」
フリードリヒは答えた。
「そして、その連鎖が続けば、誰も戦争を望んでいなくとも、戦争が始まる可能性があります」
シュタインベルクは静かに頷いた。
「……なるほど」
-同日 午前10時30分-
ドイツ帝国 ベルリン 帝国参謀本部
会議は終盤に差し掛かっていた。
シュタインベルク大将は、机上の書類をまとめた。
「諸君、現段階で総動員は行わない」
将校たちは頷いた。
「ただし、各軍管区の動員計画を再確認し、鉄道輸送能力と兵站計画の点検を進める」
彼は続けた。
「情報課は、ロシア軍とフランス軍の動向を引き続き監視すること」
「はっ」
ライヒェナウ少将が答えた。
「海軍連絡部門は、英国海軍の動向を確認すること」
「承知しました」
ブラント中佐が頷いた。
シュタインベルクは最後にフリードリヒへ視線を向けた。
「ヴァルテンベルク大尉」
「はっ」
「作戦課には君を中心に、ロシア軍の動員が開始された場合の対応案をまとめてもらいたい」
「承知しました」
「ただし、軍事的対応だけではない」
シュタインベルクは続けた。
「外交交渉が継続している場合、どこまで軍事的準備を進められるかについても検討するのだ」
フリードリヒは深く頷いた。
「了解いたしました」
シュタインベルクは会議室を見渡した。
「諸君、我々は戦争に備えなければならん」
彼は一呼吸置いた。
「しかし、戦争を始めるために備えているわけではない」
その言葉に、会議室は静まり返った。
「我が帝国の安全を守るため、冷静な判断を続けるのだ」
将校たちは一斉に立ち上がった。
そして、敬礼した。
-同日 午後5時15分-
ドイツ帝国 ベルリン 帝国参謀本部 3階作戦課執務室
夕暮れのベルリン。
参謀本部の窓からは、帝都の街並みが見渡せた。
フリードリヒは執務室で、作戦課の新たな報告書を作成していた。
机上には、欧州全域の地図と各国の軍事情勢をまとめた資料が並べられている。
彼はペンを取り、一枚の紙に表題を書いた。
『ロシア帝国軍動員時におけるドイツ帝国の戦略的対応について』
そして、静かに文章を書き始めた。
『ロシア帝国軍が動員を開始した場合、我が帝国は同盟国オーストリア=ハンガリー帝国の安全保障と、自国の防衛を両立させる必要がある。』
彼は一度ペンを止めた。
窓の外では、ベルリンの街に夕暮れの灯りがともり始めていた。
人々は、いつもと変わらぬ日常を送っている。
商店は営業を続け、路面電車が走り、家族連れが通りを歩いている。
その平穏が、いつまで続くのか。
彼には分からなかった。
フリードリヒは再びペンを動かした。
『軍事的準備は必要不可欠である。しかし、その準備が相手国に攻撃の意思として受け取られた場合、戦争回避の可能性は著しく低下する。』
彼は静かに息を吐いた。
そして、最後に一文を書き加えた。
『したがって、我が帝国は軍事的な即応能力を維持すると同時に、外交的解決の可能性を最後まで追求すべきである。』
フリードリヒはペンを置いた。
机上の地図を見つめる。
ドイツ帝国。
ロシア帝国。
フランス共和国。
英国。
そして、オーストリア=ハンガリー帝国。
そのすべてが、複雑な外交関係と軍事同盟によって結びついていた。
一つの国が動けば、別の国が動く。
その連鎖が続けば、やがて欧州全体が戦争へ巻き込まれる可能性がある。
フリードリヒは静かに呟いた。
「……まだ、止められるはずだ」
しかし、その言葉に答える者はいなかった。
窓の外では、ベルリンの街に夜が訪れようとしていた。
1924年9月15日。
オーストリア=ハンガリー帝国とセルビア王国の戦争は、依然として続いていた。
ロシア帝国はセルビアへの支持を表明し、陸軍の動員準備を進めていた。
ドイツ帝国もまた、同盟国オーストリアへの支援を継続しながら、軍事的な準備を進めていた。
しかし、両国とも総動員には踏み切っていなかった。
それでも、軍事機構は少しずつ動き始めていた。
ロシアの準備を見たドイツが警戒を強める。
ドイツの警戒を見たロシアが、さらに準備を進める。
その連鎖は、誰も望まない戦争を引き起こす危険を秘めていた。
第一章 第三節 終




