第一章 第五節「海峡の帝国」前編
かつて、欧州南東部から西アジア、北アフリカに至る広大な領域を支配した大帝国があった。
オスマン帝国。
13世紀末にアナトリアの一角で興ったこの国家は、1453年に東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを征服し、その後数世紀にわたって地中海世界に君臨した。
しかし、19世紀に入ると帝国は次第に衰退していった。
民族独立運動、列強の干渉、度重なる戦争、そして慢性的な財政難。
特に1912年から翌年にかけてのバルカン戦争では、欧州における領土の大部分を失った。
それでも帝国は滅びなかった。
1924年現在、オスマン帝国はアナトリア、東トラキア、シリア、メソポタミア、アラビア半島西部などに広大な領土を保有し、スルタン・メフメト6世の統治下で存続していた。
国内では政治改革と軍の近代化が進められ、ドイツ帝国との軍事協力によって陸海軍の再建が図られていた。
だが、その歩みは決して順調ではなかった。
帝国の内部には民族問題が残り、地方では中央政府の権威が十分に及ばない地域もあった。
さらに北方には、長年にわたって対立を続けてきたロシア帝国が存在していた。
そして1924年9月。
バルカン半島で始まった新たな戦争は、この老いた帝国にも重大な選択を迫ろうとしていた。
-1924年9月19日 午前7時00分-
オスマン帝国 コンスタンティノープル ボスポラス海峡
朝靄の中から、幾本もの尖塔が姿を現していた。
コンスタンティノープル。
欧州とアジアの境界に位置するこの都市は、数百年にわたりオスマン帝国の首都として繁栄してきた。
ボスポラス海峡の水面には、朝日が反射している。
海峡を行き交う船舶の汽笛が、静かな朝の空気を震わせていた。
黒海から南下してきた貨物船。
地中海方面へ向かう商船。
沿岸の小さな港を結ぶ連絡汽船。
そして、灰色の船体を持つオスマン帝国海軍の軍艦。
それらが狭い海峡を行き交い、帝都の朝を形作っていた。
海峡の西岸には、宮殿やモスク、石造りの官庁建築が並んでいる。
ガラタ橋の周辺では、すでに多くの市民が行き交っていた。
魚を売る商人。
荷車を押す労働者。
新聞を抱えて走る少年。
西洋式の背広を着た官吏と、伝統的な衣服をまとった老人。
この街には、古い帝国の姿と新しい時代の風景が混在していた。
そのとき、モスクの尖塔から礼拝を呼びかける声が響いた。
海峡を渡る風に乗り、その声は街の隅々へ広がっていく。
しかし、その穏やかな朝にも、戦争の影は忍び寄っていた。
「号外だ! セルビア戦線の続報だ!」
新聞売りの少年が叫んだ。
「オーストリア軍、ベオグラード攻略に苦戦!」
通りを歩いていた男たちが足を止めた。
「何だって?」
「オーストリア軍が負けたのか?」
「いや、まだ戦闘は続いているらしい」
新聞を買った中年の商人が、見出しを読み上げた。
「オーストリア=ハンガリー帝国陸軍の中将1名、セルビア軍の砲撃によって戦死……」
周囲がざわめいた。
「中将が戦死したのか?」
「それほど激しい戦いなのか」
「ドイツはどうする?」
「ロシアがセルビアを助けるという話もあるぞ」
人々の会話は、次第に不安を帯びていった。
しかし、その一方で、戦争を遠い出来事として受け止める者もいた。
「我々には関係ないさ」
一人の商人が言った。
「セルビアとオーストリアの戦争だろう。オスマン帝国が戦う理由などない」
すると、近くにいた老人が顔を上げた。
「本当にそう思うかね?」
老人は古びた軍服の上着を着ていた。
胸には、かつての戦役で授与された勲章が付いている。
「わしはバルカン戦争に従軍した」
老人は静かに言った。
「戦争が始まる前は、誰もがすぐに終わると言っていた」
商人は黙った。
「だが、実際にはどうだった?」
老人は新聞を指した。
「戦争は、始めるより終わらせる方が難しい」
その言葉に、周囲の人々は何も答えられなかった。
遠くでは、再び汽笛が響いた。
海峡を一隻の貨物船が北上していく。
その先には、黒海があった。
そして黒海の向こうには、ロシア帝国が存在していた。
-同日 午前9時30分-
オスマン帝国 コンスタンティノープル 大宰相府 会議室
大宰相府の会議室には、朝から重苦しい空気が漂っていた。
高い天井には装飾が施され、壁には帝国の領土を示す大きな地図が掛けられている。
窓の外には、中庭の木々が見えた。
しかし、会議室に集まった政府高官たちには、その景色を眺める余裕などなかった。
「セルビア戦線の最新報告です」
一人の外務官僚が書類を差し出した。
机の奥に座っていた男が、それを受け取った。
アフメト・ジェラル・パシャ。55歳。
オスマン帝国の大宰相である。
穏健な政治家として知られ、帝国の財政再建と外交的安定を重視していた。
「オーストリア軍の攻勢は?」
「停滞しております。サヴァ川の渡河作戦は大きな損害を受け、再編成が進められている模様です」
ジェラル・パシャは書類を机に置いた。
「……予想以上に苦戦しているな」
別の官僚が口を開いた。
「閣下、ドイツ帝国はオーストリアへの支援を継続する方針です」
「軍事介入は?」
「現時点では確認されておりません」
ジェラルは頷いた。
「ロシアは?」
「セルビアへの支持を表明しております。ただし、総動員には踏み切っておりません」
「それが唯一の救いだな」
ジェラルは静かに言った。
会議室の一角にいた若い官僚が、慎重に口を開いた。
「閣下、もしドイツ帝国が参戦することになれば、我が帝国も態度を明確にする必要があるのではありませんか」
ジェラルは顔を上げた。
「どういう意味だ?」
「ドイツ帝国は、我が国の軍制改革を支援してきました。軍事的な関係も深く、将来的には共同歩調を取る必要があるかと」
「共同歩調、か」
ジェラルは腕を組んだ。
「それは外交上の協力を意味するのか。それとも戦争への参加を意味するのか」
若い官僚は答えに詰まった。
ジェラルは続けた。
「我が帝国は、まだバルカン戦争の傷を癒やしていない」
彼は壁の地図を指した。
「欧州の領土は大きく縮小した。財政は逼迫し、地方では民族問題が続いている」
そして、静かに言った。
「この状態で新たな戦争を始めれば、国家そのものが危うくなる」
会議室は静まり返った。
「しかし、閣下」
別の官僚が口を開いた。
「ロシア帝国がバルカンで勢力を拡大すれば、我が国の安全保障にも影響が及びます」
「分かっている」
ジェラルは頷いた。
「だからこそ、慎重でなければならん」
彼は机の上に置かれた外交文書を手に取った。
「ロシアと敵対することは容易だ。しかし、一度戦争になれば、黒海だけでは済まない」
ジェラルは続けた。
「コーカサス、メソポタミア、シリア、そして海峡。帝国のあらゆる場所が戦場になる可能性がある」
誰も反論しなかった。
そのとき、扉が開いた。
宮廷からの使者が入室した。
「大宰相閣下」
「何事だ?」
「スルタン陛下より、御前会議開催の命令がございます」
ジェラルは顔を上げた。
「日時は?」
「明日、午前10時。ドルマバフチェ宮殿にて」
「承知した」
使者が退室すると、ジェラルは深く息を吐いた。
そして、静かに言った。
「……いよいよ、陛下も決断を迫られるか」
-同日 午後3時15分-
オスマン帝国 コンスタンティノープル 陸軍参謀本部
陸軍参謀本部の会議室では、別の議論が行われていた。
机の上には、バルカン半島、黒海、コーカサス地方を示す地図が広げられている。
その前に立っていたのは、ハリル・ヌーリ・パシャだった。48歳。
オスマン帝国陸軍大将にして、参謀総長を務める人物である。
彼はドイツ式の軍制改革を支持し、近代的な陸軍の建設を進めてきた。
「ロシア帝国の動員状況は?」
ハリルが尋ねた。
「現時点で総動員の兆候はありません」
参謀将校が答えた。
「しかし、南西部の鉄道輸送量が増加しているとの情報があります」
「軍事輸送か?」
「確証はありません」
ハリルは地図を見つめた。
「……ロシアは慎重だな」
彼は静かに言った。
「セルビアを支援しながら、ドイツを刺激することは避けている」
参謀将校が頷いた。
「はい」
「だが、その状態がいつまで続くかは分からん」
ハリルはコーカサス地方を指した。
「第3軍の防衛計画を再確認せよ」
「はっ!」
「弾薬備蓄、鉄道輸送能力、兵員補充計画も調査する」
参謀将校が尋ねた。
「閣下、動員を開始するのでしょうか?」
「まだだ」
ハリルは首を振った。
「陛下の許可なく、総動員など行えん」
彼は続けた。
「しかし、準備は必要だ」
ハリルは地図を見つめたまま、静かに呟いた。
「……戦争は、いずれ我々のところへ来るかもしれん」
窓の外では、午後の陽光が建物の壁を照らしていた。
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