第一章 第三節「揺らぐ同盟」前編
-1924年9月14日 午前6時35分-
ドイツ帝国 ベルリン ウンター・デン・リンデン
ベルリンの朝は、薄い霧に包まれていた。
9月14日。
日曜日の早朝にもかかわらず、帝都の中心部には普段より多くの人々が姿を見せていた。ウンター・デン・リンデンの街路樹はわずかに色づき始め、湿った石畳の上を馬車と自動車が行き交っている。
通りの一角では、新聞売りの少年が大きな声を張り上げていた。
「ロシア、セルビア支持を表明!」
「皇帝ニコライ二世、オーストリアへ警告!」
新聞を買い求めた市民たちは、見出しに目を落とした。
オーストリア=ハンガリー帝国とセルビア王国の開戦から、すでに数日が経過していた。
しかし、戦争はまだバルカン半島にとどまっている。
ドイツ帝国は参戦していない。
ロシア帝国もまた、セルビアへの支持を表明したものの、宣戦布告には踏み切っていなかった。
それでも、欧州の空気は確実に変わり始めていた。
「ロシアが動き出したそうだ」
新聞を読んでいた男が呟いた。
「本当に戦争になるのか?」
隣の男が尋ねた。
「さあな。だが、ロシアがセルビアを助けるなら、我々もオーストリアを助けることになるんじゃないか」
その言葉に、周囲の人々は黙り込んだ。
ドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国は、長年にわたる同盟関係にあった。
両国の軍事的、外交的な結びつきは強く、バルカン半島での戦争がドイツに無関係であるとは誰も考えていなかった。
しかし、ロシア帝国との戦争となれば話は別だった。
広大な国土と膨大な人口を持つロシア。
そして、その背後にはフランス共和国が存在する。
ドイツがロシアと戦争になれば、フランスも参戦する可能性が高い。
それは、帝国が長年恐れてきた二正面戦争を意味していた。
新聞を読み終えた男は、静かに呟いた。
「……また、10年前のようなことになるのか」
1914年。
サラエヴォ危機を契機として、欧州は全面戦争の危機に陥った。
しかし、各国の外交努力によって、最悪の事態は回避された。
あれから10年。
再びバルカン半島で戦争が始まった。
そして今度は、すでに二つの国家が交戦状態に入っている。
ベルリンの市民たちは、まだ日常生活を続けていた。
しかし、その平穏の裏側で、ドイツ帝国の軍事機構は静かに緊張を高めていた。
-同日 午前7時20分-
ドイツ帝国 ベルリン 帝国参謀本部 3階作戦課執務室
帝国参謀本部の建物では、日曜日にもかかわらず多くの将校たちが勤務を続けていた。
長い廊下には軍靴の音が響き、伝令兵が書類を抱えて各部署を行き交っている。
作戦課の執務室では、フリードリヒ・ヴァルテンベルク大尉が机上の資料を読み返していた。
机の上には、ロシア帝国の軍事力に関する報告書が積み重ねられていた。
ロシア陸軍の兵力。
西部国境方面の軍管区。
推定されている鉄道輸送能力。
そして、動員に必要な日数の試算。
フリードリヒは、資料の一枚に目を落とした。
『ロシア帝国政府、セルビア王国への支持を正式表明』
さらに、その下には別の報告が記されていた。
『ロシア陸軍、西部方面の動員計画を再確認中との情報あり』
彼は眉をひそめた。
ロシア軍が動員計画を確認すること自体は、特別なことではない。
軍隊は平時から動員計画を整備している。
しかし、問題はその時期だった。
オーストリアとセルビアが戦争を始めた直後。
そして、ロシアがセルビアへの支持を表明した翌日。
この状況での軍事的準備は、ドイツ側にとって無視できない意味を持っていた。
「……まだ、本格的な動員ではない」
フリードリヒは小さく呟いた。
ロシア軍が実際に予備役兵を召集したという確実な情報はない。
大規模な部隊移動も確認されていない。
しかし、準備が進められている可能性は高かった。
彼は机上の別の書類を手に取った。
『欧州列強間における全面戦争発生時の戦略的見通しについて』
自らが作成した報告書である。
その中で彼は、バルカン問題が欧州全体の戦争へ発展する可能性を指摘していた。
ロシアがセルビアを支援する。
ドイツがオーストリアを支援する。
フランスがロシアを支援する。
そして、英国が戦争へ介入する。
その連鎖が始まれば、ドイツ帝国は極めて困難な戦略的状況に置かれる。
彼は報告書の一節を読み返した。
『近代国家間の全面戦争は、単なる軍隊同士の戦闘にとどまらず、国家の経済力、工業生産力、国民生活をも巻き込む総力戦へと発展する可能性が高い。』
フリードリヒは静かに息を吐いた。
この報告書を作成したとき、彼はまだ全面戦争を遠い可能性の一つとして考えていた。
しかし、その可能性が急速に現実へ近づいているように感じられた。
そのとき、執務室の扉が叩かれた。
「ヴァルテンベルク大尉」
伝令兵が入ってきた。
「参謀総長閣下より、緊急会議への出席命令です」
「時刻は?」
「午前8時、2階大会議室です」
「了解した」
フリードリヒは書類をまとめた。
そして、自らの報告書を手に取った。
再び、この報告書が必要になるかもしれない。
そう考えながら、彼は執務室を後にした。
-同日 午前8時00分-
ドイツ帝国 ベルリン 帝国参謀本部 2階大会議室
大会議室には、すでに多くの高級将校たちが集まっていた。
中央の長机には、欧州全域を描いた巨大な地図が広げられている。
その地図には、各国の国境線と主要な鉄道路線、軍管区の位置が細かく記されていた。
会議室の正面には、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世の肖像画が掲げられている。
午前8時。緊急会議開始。
帝国参謀総長のシュタインベルク大将が口を開いた。
「諸君、ロシア帝国がセルビアへの支持を正式に表明した」
会議室が静まり返った。
「現時点で、ロシアは宣戦布告を行っていない」
彼は続けた。
「しかし、我々はこの動きを重大なものとして受け止めなければならん」
シュタインベルクはライヒェナウ少将へ視線を向けた。
「情報課長、報告を」
「はっ」
ライヒェナウは立ち上がった。
「現在、ロシア帝国政府はセルビアへの外交的支援を表明しております」
彼は地図の東側を指した。
「また、ロシア陸軍が西部国境方面の動員計画を再確認しているとの情報が入っております」
一人の将校が尋ねた。
「総動員の兆候は?」
「現段階では確認されておりません」
ライヒェナウは答えた。
「予備役兵の大規模召集、鉄道輸送の全面的な軍事優先化、国境方面への大規模部隊移動などは、まだ確認されておりません」
「では、単なる外交的威嚇ではないのか?」
別の将校が言った。
「その可能性はあります」
ライヒェナウは頷いた。
「しかし、軍事的準備が進められている可能性も否定できません」
シュタインベルクは静かに頷いた。
「問題は、ロシアがどこまで行動するつもりなのかということだ」
彼は地図を見つめた。
「ロシアがセルビアを支援するため、オーストリアへ軍事的圧力を加える可能性はある」
一人の将校が口を開いた。
「その場合、我が帝国は同盟国を支援しなければなりません」
「その通りだ」
シュタインベルクは答えた。
「その通りだ」
シュタインベルクは答えた。
「しかし、我々が動けば、ロシアもさらに動く」
彼は一呼吸置いた。
「そして、その先にはフランスがいる」
会議室の空気が重くなった。
フランス共和国。
ドイツ帝国にとって、西方の最大の潜在的敵国である。
ロシアとフランスの軍事的協力関係は、ドイツの戦略にとって重大な問題だった。
もし両国が同時に参戦すれば、ドイツは東西二つの戦線で戦わなければならない。
それは、帝国参謀本部が長年にわたり想定してきた最悪の状況だった。
-同日 午前8時45分-
ドイツ帝国 帝国参謀本部 2階大会議室
会議は続いていた。
シュタインベルク大将は、フリードリヒへ視線を向けた。
「ヴァルテンベルク大尉」
「はっ」
フリードリヒは立ち上がった。
「君の報告書について、改めて意見を聞きたい」
シュタインベルクは机上の書類を指した。
「ロシアが軍事的圧力を強めた場合、我が帝国はどのような状況に置かれると考える?」
フリードリヒは一呼吸置いた。
「閣下、現段階ではロシアの行動を慎重に見極めるべきと考えます」
一人の将校が眉をひそめた。
「慎重に、だと?」
「はい」
フリードリヒは答えた。
「ロシア軍が動員計画を確認していることは事実かもしれません。しかし、それが直ちに戦争準備を意味するとは限りません」
「だが、ロシアが先に動員を開始すれば、我々は不利になる」
「その可能性はあります」
フリードリヒは頷いた。
「しかし、我が帝国が先に動員を開始すれば、ロシアはそれを攻撃の前兆と判断するかもしれません」
会議室が静まり返った。
「さらに、フランスがロシアを支援するため動員を開始する可能性もあります」
シュタインベルクは黙って聞いていた。
「そうなれば、我が帝国は二正面戦争を避けられなくなる恐れがあります」
一人の将校が口を開いた。
「では、何もしないというのか?」
「いいえ」
フリードリヒは首を振った。
「情報収集と軍事的準備は必要です」
彼は続けた。
「しかし、準備と実際の動員は区別すべきです」
シュタインベルクは静かに頷いた。
「続けたまえ」
「閣下、我が帝国の動員計画は極めて精密に整備されています」
フリードリヒは地図を指した。
「しかし、その精密さゆえに、一度動員が開始されれば、途中で計画を変更することは容易ではありません」
将校たちは黙って聞いていた。
「特に、フランスとロシアを同時に相手とする場合、西部戦線で短期間に決着をつける必要があります」
彼は一呼吸置いた。
「しかし、フランス軍が強固な防御陣地を構築し、我が軍の進撃が停止した場合、戦争は長期化する可能性があります」
シュタインベルクは腕を組んだ。
「君は、我が軍がフランスを短期間で撃破できないと考えるのか?」
「不可能とは申しません」
フリードリヒは答えた。
「しかし、成功が保証されているわけではありません」
彼は続けた。
「近代戦では、機関銃、重砲、鉄条網、野戦築城によって防御側が有利になる場合があります。これは、毎年作戦部が実施している机図演習でも起きている現象です。」
会議室の空気が重くなった。
「その場合、我が軍は西部で決定的な勝利を得られず、東部ではロシア軍の圧力を受け続けることになります」
フリードリヒは静かに言った。
「それが、私の最も懸念する事態です」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、シュタインベルク大将が口を開いた。
「……分かった」
彼は地図を見つめた。
「我々は、まだ戦争をしていない」
そして、会議室に集まった将校たちを見渡した。
「だからこそ、今の段階で判断を誤るわけにはいかん」
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