第一章 第二節「北方の巨人」後編
-1924年9月13日 午前11時30分-
ロシア帝国 サンクトペテルブルク 陸軍参謀本部 作戦会議室
陸軍参謀本部の作戦会議室では、数名の高級将校が集まっていた。
中央の長机には、ロシア西部国境を描いた巨大な地図が広げられている。
地図の西側にはドイツ帝国。
南西にはオーストリア=ハンガリー帝国。
さらに南には、セルビア王国が位置していた。
オルロフ中将は、会議室の中央に立っていた。
「諸君」
彼は静かに口を開いた。
「皇帝陛下は、セルビア王国への支持を正式に表明される方針を決定された」
将校たちは頷いた。
「しかし、現段階では総動員を行わない」
一人の将校が尋ねた。
「では、我々は何もしないのでしょうか?」
「いや」
オルロフは首を振った。
「軍として必要な準備を進める」
彼は地図の南西部を指した。
「まず、オーストリア=ハンガリーとの国境方面だ」
将校たちは地図へ視線を向けた。
「ガリツィア方面には、オーストリア軍の重要な兵力が配置されている」
オルロフは続けた。
「我が軍がこの方面で圧力を加えれば、オーストリアはセルビアへの兵力集中を制限される可能性がある」
一人の将校が頷いた。
「つまり、セルビアへの間接的な支援ですな」
「そうだ」
オルロフは答えた。
「しかし、問題はドイツだ」
彼は地図の北西部を指した。
「我が軍がオーストリア方面へ兵力を集中させれば、ドイツはそれを同盟国への脅威と判断するかもしれない」
「ドイツ軍が動員を開始する可能性があると?」
「十分にある」
オルロフは頷いた。
「その場合、我々はドイツとの戦争にも備えなければならない」
室内が静まり返った。
ドイツ帝国。
欧州でも有数の軍事大国。
その陸軍は、精密な動員計画と優れた鉄道輸送能力を持つことで知られていた。
ロシア軍がドイツ軍と戦う場合、単純な兵力の数だけでは勝敗を判断できなかった。
オルロフは続けた。
「我が軍の最大の問題は、動員に必要な時間だ」
彼は机上の資料を開いた。
「ロシアは広大だ。各軍管区から兵士を集め、装備を支給し、鉄道で国境へ輸送するには時間がかかる」
一人の将校が尋ねた。
「現行計画では、どの程度の日数を要するのでしょうか?」
「主要部隊の集結には数週間を要する」
オルロフは答えた。
「しかも、鉄道の混雑や装備の不足が発生すれば、さらに遅れる可能性がある」
将校たちは黙って聞いていた。
「ドイツ軍は、我々より短期間で主要部隊を集中できる」
オルロフは続けた。
「そのため、我々が動員を開始する時期は極めて重要になる」
一人の将校が口を開いた。
「では、先に動員を開始すべきでは?」
オルロフは静かに首を振った。
「それが、最も危険な選択になる可能性もある」
「なぜです?」
「我々の動員を見たドイツが、先制的な軍事行動を決断するかもしれないからだ」
室内が静まり返った。
「動員は、単なる準備ではない」
オルロフは言った。
「相手国にとっては、戦争開始の前兆と受け取られる可能性がある」
彼は地図を見つめた。
「だからこそ、皇帝陛下と軍部は慎重に判断しなければならん」
その言葉には、長年軍務に携わってきた者の重みがあった。
-同日 午後0時45分-
ロシア帝国 サンクトペテルブルク 外務省
ヴォロンツォフ外務大臣は、執務室で一枚の声明文を読み返していた。
机の上には、政府が発表する予定の公式声明が置かれている。
そこには、セルビア王国への支持と、欧州各国に対する外交的解決の呼びかけが記されていた。
ヴォロンツォフは最後の一文に目を落とした。
『ロシア帝国政府は、セルビア王国の主権と独立を支持するとともに、関係各国に対し、紛争の平和的解決に向けた最大限の努力を求める。』
彼は静かに頷いた。
「これでよい」
秘書官が尋ねた。
「大臣、ベルリンへの通告も同時に行いますか?」
「そうしてくれ」
ヴォロンツォフは答えた。
「ドイツ政府には、我が国が戦争の拡大を望んでいないことを明確に伝える必要がある」
「承知しました」
「パリとロンドンにも、同じ内容を伝えてくれ」
秘書官は頷いた。
ヴォロンツォフは椅子の背にもたれた。
セルビアへの支持を表明する。
それは、ロシア帝国にとって政治的に必要な行動だった。
しかし、その声明がオーストリアやドイツにどのように受け取られるかは分からない。
ヴォロンツォフは窓の外を見た。
ネヴァ川の向こうには、灰色の雲が広がっていた。
-同日 午後2時30分-
ロシア帝国 サンクトペテルブルク 陸軍参謀本部
オルロフ中将の執務室には、次々と報告書が運び込まれていた。
各軍管区の兵力。
鉄道輸送能力。
弾薬備蓄。
馬匹の保有数。
そして、予備役兵の召集計画。
そのすべてが、今後の軍事行動を左右する重要な情報だった。
オルロフは一枚の報告書を読み終えると、机上に置いた。
「はい。主要路線の整備は進んでおりますが、一部の区間では輸送能力が不足しています」
「複線化は?」
「計画の一部が未完成です」
オルロフは眉をひそめた。
「戦争は、我々の工事が終わるまで待ってはくれん」
彼は別の資料を開いた。
「弾薬備蓄は?」
「主要軍管区では増強が進んでおります。しかし、長期間の戦闘を想定した場合、十分とは言えません」
オルロフは静かに頷いた。
「それも問題だ」
彼は窓の外を見た。
軍隊は、兵士の数だけでは戦えない。
銃があっても弾薬がなければ意味がない。
大砲があっても砲弾がなければ戦えない。
兵士がいても、食糧が届かなければ前進できない。
そして、それらを運ぶ鉄道が止まれば、軍隊全体が動けなくなる。
オルロフは、日露戦争の記憶を思い出していた。
遠い極東へ兵力を送るため、ロシア軍は膨大な時間と労力を費やした。
輸送の遅れ。
補給の不足。
指揮系統の混乱。
それらが戦局に与えた影響は、決して小さくなかった。
あの経験を、繰り返すわけにはいかなかった。
オルロフは参謀将校へ命じた。
「各軍管区へ通達を出せ」
「内容は?」
「動員計画の再確認だ」
彼は続けた。
「鉄道輸送計画、弾薬備蓄、予備役兵の召集手順、馬匹の徴発計画。そのすべてを点検させる」
「はっ」
「ただし、これは動員命令ではない」
オルロフは強調した。
「皇帝陛下の裁可なく、部隊を大規模に移動させてはならん」
「承知しました」
参謀将校は敬礼し、退出した。
オルロフは机上の地図を見つめた。
ロシア帝国は、まだ戦争をしていない。
しかし、戦争に備える準備は、すでに始まっていた。
-同日 午後4時15分-
ロシア帝国 サンクトペテルブルク 冬宮殿
午後の冬宮殿では、再び政府高官たちによる協議が行われていた。
議題は、ロシア帝国政府の公式声明と、今後の外交方針についてであった。
ヴォロンツォフ外務大臣は、皇帝ニコライ2世を前に報告を行っていた。
「陛下、本日、我が政府はセルビア王国への支持を正式に表明いたしました」
彼は続けた。
「同時に、オーストリア=ハンガリー政府へ軍事行動の拡大を控えるよう求めております」
皇帝は静かに頷いた。
「ベルリンの反応は?」
「現時点では、正式な回答は届いておりません」
「ドイツがオーストリアを全面的に支持した場合は?」
ヴォロンツォフは少し考えた。
「その場合、外交交渉はさらに困難になるでしょう」
室内が静まり返った。
「しかし、我々は最後まで外交的解決を模索すべきです」
ニコライ2世は机上の地図を見つめた。
「セルビアが敗北した場合、ロシアの威信はどうなる?」
ヴォロンツォフは静かに答えた。
「それは重大な問題です」
彼は続けた。
「しかし、セルビアを守るために欧州全体を戦争へ巻き込むことが、果たして我が帝国の利益になるのでしょうか」
皇帝はしばらく黙っていた。
やがて、静かに口を開いた。
「私は、戦争を望んでいない」
ヴォロンツォフは頷いた。
「承知しております、陛下」
「しかし、ロシアの威信を守らねばならん」
皇帝は続けた。
「我が帝国がセルビアを見捨てれば、バルカン半島における影響力は失われる」
ヴォロンツォフは静かに答えた。
「その通りでございます」
ニコライ2世は窓の外を見た。
ネヴァ川の向こうには、夕暮れの光が差し始めていた。
「軍には、万一の事態に備えるよう伝えよ」
ヴォロンツォフは姿勢を正した。
「陛下、それは総動員のご命令でしょうか?」
「いや」
皇帝は首を振った。
「まだ、その段階ではない」
彼は続けた。
「ただし、必要な準備は進めておくべきだ」
ヴォロンツォフは深く頭を下げた。
「御意にございます」
皇帝は静かに呟いた。
「……どうか、戦争にならずに済んでほしいものだ」
-同日 午後6時20分-
ロシア帝国 サンクトペテルブルク 陸軍参謀本部
夕暮れのサンクトペテルブルク。
街の空には低い雲が広がり、ネヴァ川の水面は鉛色に染まっていた。
陸軍参謀本部の建物では、まだ多くの将校たちが勤務を続けていた。
オルロフ中将は執務室の窓際に立ち、遠くの街並みを見つめていた。
その背後では、机上に置かれた電話機が時折鳴っている。
各軍管区からの報告。
鉄道輸送計画の確認。
弾薬備蓄の調査。
そのすべてが、静かに進められていた。
オルロフは机上の地図へ戻った。
ドイツ帝国。
オーストリア=ハンガリー帝国。
そして、セルビア王国。
地図上では、国境は細い線で描かれている。
しかし、その線の向こうには、何百万もの兵士と無数の都市が存在していた。
彼は静かに呟いた。
「戦争を避けるための準備が、戦争を招くこともある……」
その言葉は、誰にも聞かれなかった。
オルロフは椅子に腰を下ろし、机上の書類を手に取った。
そこには、各軍管区の動員準備状況が記されていた。
彼は赤鉛筆で、いくつかの項目に印を付けた。
鉄道輸送能力。
予備役兵の召集。
砲兵部隊の集結。
そして、国境方面の警戒態勢。
ロシア帝国軍は、まだ総動員を開始していない。
しかし、その準備は着実に進められていた。
オルロフは書類を閉じた。
そして、窓の外を見た。
遠くの街には、夕暮れの灯りがともり始めていた。
サンクトペテルブルクの市民たちは、いつもと変わらぬ日常を送っている。
その平穏が、いつまで続くのか。
彼には分からなかった。
ただ一つ確かなことは、ロシア帝国が重大な岐路に立っているということだった。
オーストリア=ハンガリーとセルビアの開戦から1日。
ロシア皇帝ニコライ二世は、セルビア王国への支持を正式に表明した。
しかし、宣戦布告は行わなかった。
総動員も開始されなかった。
皇帝と政府は外交的解決を模索し、陸軍は万一の事態に備えて準備を進めた。
サンクトペテルブルクでは、ヴォロンツォフ外務大臣が欧州各国との交渉を続けていた。
一方、オルロフ中将は、ロシア軍の動員計画と鉄道輸送能力を再確認していた。
二人は、それぞれ異なる立場から帝国の安全を守ろうとしていた。
ヴォロンツォフは、外交によって戦争を防ごうとしていた。
オルロフは、戦争が避けられなかった場合に備えていた。
そして、皇帝ニコライ二世は、ロシア帝国の威信と平和の維持という二つの問題の間で、難しい判断を迫られていた。
軍事的な準備は、相手国に脅威として受け取られる可能性がある。
外交的な圧力は、相手国の反発を招く可能性がある。
そして、一度動き始めた軍事機構は、簡単には止められない。
ロマノフ王朝の双頭の鷲が、再び欧州の空へ翼を広げようとしていたのである。
第一章 第二節「北方の巨人」終




