第一章 第二節「北方の巨人」中編
-1924年9月13日 午前9時20分-
ロシア帝国 沿海州 ウラジオストク軍港
日本海から吹き込む潮風が、軍港の水面を静かに揺らしていた。
ロシア帝国の極東に位置するウラジオストクは、穏やかな秋晴れに包まれていた。
港を取り囲む丘陵には、夏の名残を残した緑が広がり、その斜面には軍の施設や住宅が点在している。金角湾の奥には商船や小型汽船が停泊し、岸壁では荷役作業に従事する労働者たちの姿が見られた。
遠くでは汽笛が鳴り、海鳥が青空を横切っていく。
その平穏な港の一角に、巨大な鋼鉄の軍艦が停泊していた。
ロシア帝国海軍戦艦「ペトロパブロフスク」
ガングート級戦艦の二番艦として建造され、1914年に竣工した弩級戦艦である。
全長約181メートル。
常備排水量約2万3000トン。
最大速力約23ノット。
主兵装は30・5センチ三連装砲塔四基、計12門。
4基の主砲塔は艦の中心線上に前後へ分散配置され、その長い砲身が灰色の空へ向けられていた。
煙突は2本。
艦橋は比較的小さく、低い船体と長大な甲板が特徴的だった。
英国やドイツの新鋭戦艦と比較すれば、防御力や艦内配置に古さが見え始めていたものの、12門の主砲が放つ斉射の威力は、依然として侮れないものがあった。
この10年間、ロシア帝国は極東艦隊の再建にも力を注いでいた。
日露戦争によって壊滅的な打撃を受けた太平洋方面の海軍力を回復させることは、帝国海軍にとって長年の課題であった。
そして、極東方面の戦力強化の一環として、戦艦「ペトロパブロフスク」がウラジオストクへ配備されていたのである。
その艦内では、いつもと変わらぬ朝の作業が続いていた。
甲板では水兵たちが清掃を行い、砲塔の周囲では整備員が機械装置の点検を進めている。
士官たちは艦橋と各部署を行き来し、下士官の号令が甲板に響いていた。
その一角で、二人の若い水兵が甲板を磨いていた。
「おい、イワン」
一人の水兵が、隣でブラシを動かしている同僚に声をかけた。
「何だ、アレクセイ」
「昨日の新聞、読んだか?」
「ああ。オーストリアとセルビアが戦争を始めたって話だろ」
イワンは手を止めずに答えた。
二人は、まだ二十代前半の若い水兵だった。
イワン・ミハイロヴィチ・ソコロフ
2等水兵 21歳。
ロシア西部の農村出身で、徴兵によって海軍へ入った青年である。
アレクセイ・ニコラエヴィチ・ベリャーエフ
2等水兵 22歳。
サンクトペテルブルク近郊の工場労働者の家庭に生まれ、海軍への志願を経て極東へ配属された。
二人は同じ兵員区画で生活し、日頃からよく行動を共にしていた。
「ずいぶん遠いところで戦争が始まったもんだな」
アレクセイが言った。
「セルビアって、どの辺だったかな」
「黒海の向こうだろ」
「そんなに近かったか?」
「いや、もっと西かもしれん」
イワンは少し考えた。
「まあ、どっちにしても、ここからは何千キロも離れている」
アレクセイは笑った。
「それもそうだな」
彼はブラシを動かしながら、港の外へ目を向けた。
「それにしても、欧州ってのはどうしてああも戦争ばかり起こすんだろうな」
「さあな。偉い人たちには、俺たちには分からない事情があるんだろ」
「皇帝陛下も大変だな」
「そりゃそうだ。あれだけ広い国を治めているんだから」
二人は笑った。
彼らにとって、欧州の政治情勢は遠い世界の出来事だった。
ロシア帝国は広大である。
サンクトペテルブルクからウラジオストクまでは、シベリア鉄道を使っても長い旅になる。
まして、セルビアやオーストリアとなれば、さらに遠い。
新聞に書かれた国名は知っていても、その国の街並みや人々の暮らしを想像することは難しかった。
「でも、ロシアもセルビアを助けるんじゃないのか?」
アレクセイが尋ねた。
「新聞にはそう書いてあったな」
イワンは答えた。
「同じスラヴ人だから、見捨てられないんだとさ」
「そうなると、俺たちも戦争に行くのかね」
イワンは一瞬、ブラシを動かす手を止めた。
そして、港内に浮かぶ巨大な戦艦を見上げた。
「まさか」
彼は笑った。
「俺たちはウラジオストクにいるんだぞ」
「それがどうした?」
「戦争をしているのは欧州だ。ここは極東だぞ」
イワンはブラシを肩に担いだ。
「それに、俺たちの仕事は日本海の警備だろう?」
「まあ、そうだな」
「だったら心配することはないさ」
彼は得意げに続けた。
「俺たちは行くことないから安心だな!」
「違いない!」
二人の笑い声が、甲板に響いた。
近くで作業していた別の水兵も、会話に加わった。
「お前たち、何を笑っている?」
「欧州で戦争が始まったって話ですよ」
「それがどうした?」
「俺たちには関係ないだろうって」
年上の水兵は、少しだけ眉を上げた。
「そうとも限らんぞ」
イワンが笑った。
「まさか、この艦が欧州まで行くって言うんですか?」
「命令が出れば、軍艦はどこへでも行くさ」
「冗談でしょう」
「日露戦争のときは、バルト海の艦隊が極東まで来たんだぞ」
その言葉に、二人は顔を見合わせた。
バルチック艦隊。
20年前、ロシア帝国海軍は遠くバルト海から大艦隊を極東へ派遣した。
しかし、その艦隊は日本海で大敗を喫した。
若い水兵たちも、その話は訓練で何度も聞かされていた。
「でも、あれは日本との戦争だったでしょう」
アレクセイが言った。
「今度は欧州ですよ」
「だから何だ?」
年上の水兵は肩をすくめた。
「海はつながっている」
そう言い残すと、彼は持ち場へ戻っていった。
イワンはその背中を見送り、再び笑った。
「大げさだなあ」
「まったくだ」
アレクセイも頷いた。
「仮にロシアが戦争になったとしても、陸軍が戦うんだろう?」
「そうさ。オーストリアには海から攻め込めないしな」
二人は再び甲板を磨き始めた。
その頭上には、30・5センチ主砲の巨大な砲身が伸びていた。
砲身の表面には朝日が反射し、黒々とした砲口が遠くの空を向いている。
もし、この12門の主砲が実戦で火を噴くことになれば。
その轟音は、港全体を震わせることだろう。
しかし、二人の若い水兵は、そのような未来を想像していなかった。
彼らにとって戦争とは、新聞の中の出来事でしかなかったのである。
-同日 午前10時15分-
ロシア帝国 ウラジオストク軍港 戦艦「ペトロパブロフスク」艦橋
艦橋では、当直士官が港内の状況を確認していた。
海図台には日本海沿岸の海図が広げられ、航海日誌と通信記録が整然と並べられている。
艦橋の窓からは、金角湾の静かな水面が見渡せた。
そのとき、通信兵が一枚の電報用紙を持って入ってきた。
「失礼します。極東海軍司令部より電報です」
当直士官は用紙を受け取った。
内容は短いものだった。
『欧州情勢の悪化に伴い、各艦は警戒を怠らず、艦艇および兵装の整備状況を確認すること。ただし、現時点で特別な出動命令はない。』
当直士官は電報を読み終えると、静かに頷いた。
「了解した。艦長へ報告する」
「はっ」
通信兵が退出した。
当直士官は、窓の外に浮かぶ港内の艦艇を見つめた。
欧州で始まった戦争。
セルビアへの支援を表明したロシア帝国。
そして、極東に停泊する戦艦。
現時点では、それらを結びつけるものはほとんどなかった。
しかし、海軍の歴史を振り返れば、戦争が遠い海域へ拡大することは珍しくなかった。
ロシア帝国は、バルト海、黒海、北極海、そして太平洋に面している。
広大な帝国を守るため、海軍は各地に艦隊を配備していた。
もし欧州全体が戦争になれば、海軍も無関係ではいられない。
当直士官は、再び電報に目を落とした。
そして、静かに呟いた。
「……何事もなければよいが」
-同日 午後0時05分-
ロシア帝国 ウラジオストク軍港 戦艦「ペトロパブロフスク」兵員食堂
昼食の時間になると、兵員食堂には多くの水兵たちが集まっていた。
長い木製の食卓には金属製の食器が並び、温かいスープと黒パンが配られている。
艦内には食事の匂いが広がり、水兵たちの話し声が響いていた。
イワンとアレクセイも、同じ食卓に座っていた。
「今日のスープは、昨日よりましだな」
アレクセイが言った。
「そうか?」
イワンは匙を動かした。
「俺には同じ味に思えるけどな」
「お前は何を食べても同じだろう」
「腹に入れば一緒さ」
二人は笑った。
周囲では、故郷の話や休暇の予定、港町の酒場についての会話が飛び交っていた。
その中には、欧州の戦争について話す者もいた。
「セルビアは、オーストリアに勝てるのかね」
「難しいだろうな」
「だが、ロシアが支援するなら話は別だ」
「皇帝陛下が決めることさ」
そんな会話を聞きながら、イワンは黒パンをちぎった。
「なあ、アレクセイ」
「何だ?」
「もし戦争になったら、休暇はどうなるんだろうな」
「さあな。取り消されるんじゃないか?」
「それは困る」
イワンは真剣な表情になった。
「来月、ようやく上陸休暇が取れる予定なんだ」
「戦争より休暇の心配か?」
「当たり前だろう」
イワンは笑った。
「俺たちは戦争に行かないんだから、休暇の方が大事だ」
アレクセイは呆れたように首を振った。
「お前は本当に気楽な奴だな」
「心配しても仕方ないさ」
イワンは匙を置いた。
「欧州で何が起きようと、ここからじゃ何もできない」
その言葉に、アレクセイは静かに頷いた。
確かに、その通りだった。
ウラジオストクから欧州までは、あまりにも遠い。
この巨大な戦艦が、遠く離れたバルカン半島の戦争に関わるなど、想像もできなかった。
彼らは、翌日の訓練や次の休暇のことを考えていた。
それが、若い水兵たちにとっての現実だった。
-同日 午後5時40分-
ロシア帝国 ウラジオストク軍港 戦艦「ペトロパブロフスク」後部甲板
夕暮れの金角湾は、赤く染まり始めていた。
西の丘陵へ傾いた太陽が、港内の水面に長い光の帯を作っている。
岸壁では荷役作業が終わりに近づき、港町には夕食の支度をする家々の煙が立ち上っていた。
戦艦「ペトロパブロフスク」の後部甲板では、イワンとアレクセイが手すりにもたれ、港の景色を眺めていた。
「いい夕日だな」
アレクセイが言った。
「ああ」
イワンは頷いた。
「こうしていると、世界のどこかで戦争が始まったなんて信じられないな」
「本当だ」
二人はしばらく黙って海を見つめた。
港の外には、日本海が広がっている。
その向こうには朝鮮半島があり、さらに南には日本列島が横たわっている。
そして、遥か西方には欧州大陸が存在していた。
「なあ、イワン」
「何だ?」
「もし、本当に俺たちが欧州へ行くことになったらどうする?」
イワンは笑った。
「そんなこと、あるわけないだろ」
「もしもの話だよ」
「そうだな……」
イワンは少し考えた。
「そのときは、仕方ないさ」
「怖くないのか?」
「怖いに決まってる」
彼は正直に答えた。
「でも、俺たちは水兵だ。命令が出れば行くしかない」
アレクセイは静かに頷いた。
イワンは再び笑った。
「まあ、そんな命令は出ないだろうけどな」
「そうだな」
二人は夕暮れの海を見つめた。
その背後には、四基の巨大な主砲塔が並んでいた。
12門の30・5センチ砲。
ロシア帝国海軍の誇る強力な兵装。
しかし、その砲口が再び戦争のために火を噴く日が来るのかどうか。
誰にも分からなかった。
遠くで汽笛が鳴った。
港の灯台に明かりがともり、軍港は静かに夜を迎えようとしていた。
欧州で始まった戦争は、まだ遠い世界の出来事だった。
だが、その戦火がいつの日か極東の海にまで影響を及ぼす可能性を、若い水兵たちは考えていなかった。
彼らはただ、明日も今日と変わらぬ一日が訪れると信じていた。
そして、戦艦「ペトロパブロフスク」は、夕暮れのウラジオストク軍港に静かに浮かんでいた。
第一章 第二節 後編へ




