第一章 第二節「北方の巨人」前編
-1924年9月13日 午前6時40分-
ロシア帝国 サンクトペテルブルク ネフスキー大通り
ロシアの朝は、すでに冬の気配を帯び始めていた。
9月13日。
サンクトペテルブルクの空には厚い雲が垂れ込め、ネヴァ川から吹きつける冷たい風が街路樹の葉を揺らしていた。
ネフスキー大通りでは、早朝から路面電車が走り始めていた。
パン屋の前には数人の客が並び、新聞売りの少年が声を張り上げていた。
新聞の一面には、大きな文字が並んでいた。
『オーストリア=ハンガリー帝国、セルビア王国と交戦状態へ』
『ロシア政府、緊急協議』
『皇帝陛下、事態を重大視』
新聞を買い求めた人々は、紙面に目を落とした。
そこには、遠いバルカン半島で始まった戦争の詳細が記されていた。
オーストリア=ハンガリー帝国とセルビア王国の開戦。
ドナウ川沿岸での軍事的緊張。
そして、欧州各国の外交的対応。
その中でも、ロシア市民の関心を集めていたのは、セルビアの運命であった。
「オーストリアがセルビアを攻撃したそうだ」
新聞を読んでいた中年の男が言った。
「またバルカンか」
隣の老人が呟いた。
「10年前にも同じような騒ぎがあったな」
「今度は本当に戦争になった」
男は新聞を畳んだ。
「政府はどうするつもりだろう」
老人は少し考えた。
「セルビアを見捨てるわけにはいかんだろう」
セルビア。
その国名は、ロシア人にとって決して無縁のものではなかった。
同じスラヴ系民族を中心とする国家であり、東方正教会を信仰する人々が多い。
ロシア帝国は長年、バルカン半島のスラヴ系諸民族に対して強い関心を寄せてきた。
セルビアへの支援は、単なる外交政策ではなかった。
ロシア帝国の威信と、スラヴ民族の保護者としての立場に関わる問題でもあった。
「皇帝陛下は、セルビアを見捨てないだろう」
一人の若者が言った。
「当然だ。オーストリアの好き勝手にさせるわけにはいかん」
別の男が頷いた。
しかし、その隣にいた年配の労働者は、険しい表情を浮かべていた。
「戦争だけは御免だ」
「なぜだ?」
「日本との戦争を忘れたのか」
その言葉に、周囲の人々は黙り込んだ。
20年前。
ロシア帝国は、極東で日本と戦争を行った。
日露戦争。
その戦争では多くの兵士が命を落とし、帝国の軍事的威信は大きく傷ついた。
その後、ロシアでは政治的混乱が続き、帝政に対する不満も高まった。
しかし、皇帝ニコライ2世は帝位を維持した。
政府は改革を進め、軍隊の再建にも力を注いだ。
10年間にわたり欧州の全面戦争が回避されたことで、ロシア帝国は軍備を拡張し、鉄道網を整備する時間を得たのである。
それでも、帝国が抱える問題がすべて解決したわけではなかった。
農村では土地を巡る不満が残り、都市では労働者の待遇改善を求める声が上がっている。
議会と政府の関係も、決して安定しているとは言えなかった。
そして何より、帝国の広大な領土と膨大な人口を維持するには、莫大な費用が必要だった。
「オーストリアだけならともかく、ドイツまで出てきたらどうする?」
年配の労働者が言った。
若者は答えられなかった。
ドイツ帝国。
欧州でも有数の工業力と軍事力を持つ大国。
ロシアがオーストリア=ハンガリーと戦争になれば、その背後にいるドイツとの衝突も避けられなくなるかもしれない。
しかし、街を歩く人々の多くは、まだそのような未来を現実のものとして考えていなかった。
彼らにとって戦争は、遠いバルカン半島で起こった出来事だった。
だが、その日の朝、ロシア帝国の中枢では、すでに重大な決断が迫られていた。
-同日 午前8時15分-
ロシア帝国 サンクトペテルブルク 冬宮殿
ネヴァ川の南岸にそびえる冬宮殿。
ロシア皇帝の権威を象徴する壮麗な宮殿は、薄曇りの空の下に静かに佇んでいた。
淡い緑色と白色に彩られた外壁。
整然と並ぶ巨大な窓。
屋根の上には彫像が立ち並び、正面には広大な宮殿広場が広がっている。
その内部では、早朝から慌ただしい動きが続いていた。
磨き上げられた大理石の床。
高い天井から吊り下げられた巨大なシャンデリア。
壁を飾る金色の装飾と歴代皇帝の肖像画。
宮殿の壮麗さは、ロシア帝国の長い歴史を物語っていた。
しかし、その華やかな空間に集まった政府高官たちの表情は、決して明るくなかった。
皇帝ニコライ2世との協議を控えた控室には、外務大臣、陸軍大臣、海軍関係者、宮廷高官らが集まっていた。
その中に、一人の男がいた。
アレクサンドル・セルゲーエヴィチ・ヴォロンツォフ。46歳。
ロシア帝国外務大臣である。
貴族の家系に生まれ、若い頃から外交官として各国の大使館に勤務してきた。
ベルリン、ウィーン、パリ。
彼は欧州列強の外交関係を熟知していた。
とりわけ、ドイツ帝国の軍事力と、オーストリア=ハンガリーの複雑な民族問題について深い知識を持っていた。
ヴォロンツォフは、決して好戦的な人物ではなかった。
彼はロシア帝国の威信を守ることを重視していたが、そのために無用な戦争を起こすことには反対していた。
しかし、セルビアを見捨てることもできない。
その矛盾が、今まさに彼の前に立ちはだかっていた。
ヴォロンツォフは机上の外交電報を読み返した。
ウィーンからの報告。
ベオグラードからの報告。
ベルリンからの報告。
いずれも、事態が急速に悪化していることを示していた。
そのとき、侍従が姿を現した。
「諸閣下、皇帝陛下がお召しです」
高官たちは一斉に立ち上がった。
ヴォロンツォフは書類を閉じ、静かに息を整えた。
そして、皇帝の待つ部屋へ向かった。
-同日 午前8時30分-
ロシア帝国 冬宮殿 皇帝執務室
皇帝執務室は、宮殿の華麗な大広間とは異なり、落ち着いた雰囲気を持つ部屋であった。
壁にはロシア帝国の地図が掲げられ、書棚には政治、軍事、歴史に関する書籍が並んでいる。
大きな机の上には、各地から届いた電報と報告書が置かれていた。
その机の前に、一人の男が立っていた。
ロシア皇帝ニコライ2世。56歳。
ロマノフ王朝の皇帝として、長年にわたり広大な帝国を統治してきた人物である。
短く整えられた髭。
穏やかな表情。
そして、その奥に隠された疲労。
彼は、20年以上前の日露戦争と、その後に続いた国内の政治的混乱を経験していた。
さらに1914年のサラエヴォ危機では、欧州が全面戦争へ突入する寸前まで進んだ。
あのとき、各国は外交によって戦争を回避した。
しかし、10年後の今、バルカン半島は再び戦火に包まれていた。
ニコライ2世は、入室した高官たちを見渡した。
「諸君、座ってくれ」
低く、落ち着いた声だった。
高官たちが着席すると、皇帝は机上の電報を手に取った。
「オーストリアとセルビアは、ついに戦争を始めた」
誰も口を開かなかった。
「10年前、我々はこのような事態を回避できた」
皇帝は静かに続けた。
「しかし、今回はそれができなかった」
ニコライ二世はヴォロンツォフへ視線を向けた。
「外務大臣、セルビア政府からの要請について報告してくれ」
「御意にございます、陛下」
ヴォロンツォフは立ち上がった。
「セルビア政府は、我が帝国に対して外交的支援を求めております」
彼は机上の地図を指した。
「オーストリア=ハンガリー軍は、セルビア国境方面への兵力集結を進めています。ベオグラード周辺でも緊張が高まっております」
「セルビア軍の状況は?」
「動員を進めておりますが、国力ではオーストリア=ハンガリーが優勢です」
皇帝は静かに頷いた。
「セルビアは、我が国を頼っているのだな」
「はい、陛下」
ヴォロンツォフは答えた。
「我が帝国は長年、バルカン半島のスラヴ系諸民族を支援してまいりました」
彼は一呼吸置いた。
「しかし、軍事的な介入には慎重であるべきと考えます」
皇帝は顔を上げた。
「理由は?」
「ドイツ帝国です」
その言葉に、室内の空気が変わった。
「我が国がオーストリア=ハンガリーに対して軍事的圧力を加えた場合、ドイツが同盟国を支援する可能性があります」
皇帝は黙って聞いていた。
「さらに、ドイツと我が国が交戦状態に入れば、フランスも参戦する可能性がございます」
ヴォロンツォフは続けた。
「その場合、戦争はバルカン半島を越え、欧州全体へ拡大する恐れがあります」
ニコライ2世はしばらく考え込んだ。
やがて、静かに口を開いた。
「私は、ドイツとの戦争を望んでいない」
高官たちは無言で頷いた。
「皇帝ヴィルヘルムとは、長年にわたり複雑な関係にある。意見が一致しないことも多いが、互いの国が戦争になれば、その結果がどれほど悲惨なものになるかは理解しているはずだ」
ヴォロンツォフは頷いた。
「陛下のお考えは、まことにごもっともでございます」
「しかし」
皇帝は続けた。
「セルビアを見捨てるわけにもいかん」
その声には、強い決意が込められていた。
「我が帝国がセルビアを見捨てれば、バルカン半島におけるロシアの威信は失われる」
皇帝は机上の地図へ視線を落とした。
「オーストリアがセルビアを完全に屈服させれば、次はどの国が圧力を受けることになるのか」
誰も答えなかった。
ニコライ二世は静かに立ち上がった。
「セルビアへの支持を正式に表明する」
ヴォロンツォフは姿勢を正した。
「承知いたしました」
「ただし、現段階では軍事介入を行わない」
皇帝は続けた。
「ベルリン、ウィーン、パリ、ロンドンへ外交使節を通じて我が国の立場を伝えよ」
「御意にございます」
「そして、戦争の拡大を防ぐため、各国との交渉を継続するのだ」
ヴォロンツォフは深く頭を下げた。
「陛下の御意向、必ず各国へ伝えます」
皇帝は窓の外を見た。
サンクトペテルブルクの空には、重い雲が広がっていた。
「……どうか、これ以上血が流れないことを願う」
その言葉は、静かな執務室に響いた。
-同日 午前10時05分-
ロシア帝国 サンクトペテルブルク 陸軍参謀本部
陸軍参謀本部の建物では、早朝から慌ただしい動きが続いていた。
長い廊下には軍服姿の将校たちが行き交い、伝令兵が書類を抱えて階段を駆け上がっている。
執務室では電話のベルが鳴り続け、タイプライターの打鍵音が絶え間なく響いていた。
その一室で、一人の将校が巨大な地図を見つめていた。
ミハイル・アンドレーエヴィチ・オルロフ中将。53歳。
ロシア帝国陸軍参謀本部の作戦担当将校である。
20年前の日露戦争では参謀士官として従軍し、極東での軍事作戦を経験した。
その後、陸軍の改革と動員計画の整備に携わってきた。
彼は、ロシア軍の強さと弱さを熟知していた。
広大な国土。
膨大な人口。
豊富な人的資源。
それらはロシア帝国の強みであった。
しかし、同時に大きな弱点でもあった。
兵士を集めるだけでは、軍隊は戦えない。
装備を支給し、弾薬を運び、馬匹を集め、部隊を国境へ移動させなければならない。
そのためには、膨大な鉄道輸送能力が必要だった。
オルロフは机上の鉄道路線図を見つめた。
サンクトペテルブルク。
モスクワ。
キエフ。
ミンスク。
ワルシャワ。
そして、オーストリア=ハンガリーとの国境地帯。
地図には、主要な鉄道路線が赤い線で描かれていた。
20年前、10年前の頃と比較すれば、ロシア帝国の鉄道網は大きく発展していた。
しかし、ドイツ帝国の鉄道輸送能力には依然として及ばない。
特に、動員開始から主要部隊を国境へ集結させるまでには、相応の時間が必要だった。
そのとき、扉が叩かれた。
「中将閣下、宮廷から連絡が入りました」
若い参謀将校が入ってきた。
「内容は?」
「皇帝陛下は、セルビアへの支持を正式に表明される方針です」
オルロフは顔を上げた。
「軍事行動については?」
「現段階では、総動員を行わないとのことです」
オルロフはしばらく黙っていた。
やがて、静かに頷いた。
「賢明な判断だ」
若い参謀将校は少し驚いた表情を見せた。
「閣下は、軍事的な支援に反対なのですか?」
「そうではない」
オルロフは首を振った。
「戦争を始めることと、戦争に勝つことは別の問題だ」
彼は鉄道路線図を指した。
「我々が総動員を開始すれば、ドイツはそれを脅威と判断するだろう」
「しかし、オーストリアへの圧力にはなるのでは?」
「なるだろう」
オルロフは頷いた。
「だが、同時にドイツ軍の動員を誘発する可能性もある」
若い参謀将校は黙っていた。
「ドイツ軍は、我々より迅速に兵力を集中できる」
オルロフは続けた。
「もしドイツが先に動けば、我々は準備が整わないまま戦争を迎えることになる」
彼は窓の外を見た。
サンクトペテルブルクの空には、灰色の雲が広がっていた。
「だからこそ、戦争を避けるためにも準備が必要なのだ」
若い参謀将校は姿勢を正した。
「では、どのように対応いたしますか?」
オルロフは机上の書類を手に取った。
「まず、各軍管区の動員準備状況を確認する」
彼は続けた。
「鉄道輸送計画、弾薬備蓄、馬匹の徴発計画、予備役兵の召集手順。そのすべてを再点検せよ」
「はっ」
「ただし、皇帝陛下の裁可なく部隊を大規模に移動させてはならん」
「承知しました」
オルロフは静かに頷いた。
「我々は、まだ戦争をしていない」
彼は机上の地図を見つめた。
「そのことを忘れるな」
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