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第一章 第ー節「戦争の朝」後編

-1924年9月12日 午前7時30分-

 英国 ロンドン ホワイトホール 中心部


 ロンドンの朝は、薄い霧とともに訪れた。

 テムズ川には白い靄が漂い、川面を行き交う船舶の汽笛が低く響いている。

 ウェストミンスター宮殿の時計塔が朝の時刻を告げる。

 ホワイトホールでは、政府の建物へ向かう官吏たちが足早に歩いていた。

 街角では新聞売りが声を張り上げている。


「バルカンで戦争勃発! オーストリアとセルビア、ついに交戦!」


 新聞の見出しには、戦争の文字が大きく踊っていた。

 通行人たちは新聞を買い求め、互いに意見を交わしていた。

「またバルカン半島で戦争か」

「10年前も大騒ぎになったが、結局戦争にはならなかったじゃないか」

「今度は本当に始まったらしい」

 若い会社員が言った。

「しかし、英国には関係ないでしょう」

 隣にいた年配の男は、静かに首を振った。

「そう簡単にはいかんよ」

「どういうことです?」

「ロシアがセルビアを支援すれば、ドイツも動くかもしれん。そうなれば、フランスも黙ってはいないだろう」

 若者は返事をしなかった。


 遠くで教会の鐘が鳴った。

 ロンドンの街は、まだ普段と変わらぬ日常を保っていた。

 しかし、その平穏がいつまで続くのか。

 誰にも分からなかった。




-同日 午前8時15分-

英国 ロンドン 首相官邸



 首相官邸の執務室では、ラムゼイ・マクドナルド首相が机上の書類を見つめていた。

 窓の外からは、ロンドンの朝の喧騒が聞こえてくる。

 しかし、室内には重苦しい沈黙が漂っていた。

 机の上には外務省、陸軍省、海軍本部から届いた報告書が並んでいた。

 昨夜から、首相はほとんど休息を取っていなかった。


  オーストリア=ハンガリーとセルビアの開戦。

 それは、彼が最も避けようとしていた事態の一つであった。


 外交交渉は続けられていた。

 各国政府は、最後まで戦争を回避する余地を探っていた。

 しかし、両国の対立は、ついに武力衝突へと発展してしまった。


 首相は一枚の報告書を手に取った。

 そこには、ロシア政府の動向とドイツ帝国の対応が記されていた。


「……10年前と同じ過ちを、結局繰り返すことになったのか」

 小さく呟いた。

 そのとき、扉が叩かれた。


「首相、外務省から追加報告です」

「入ってくれ」

 秘書官が書類を差し出した。

 首相は内容を読み、眉間に皺を寄せた。

「ドイツは、オーストリアへの支持を維持しているのか」

「はい。ただし、現時点ではドイツ政府が参戦を決定したという情報はありません」

「ロシアは?」

「セルビアへの支持を表明していますが、正式な軍事介入は行っていません」

 首相は書類を置いた。

「まだ、外交で解決する余地はあるということか」

「そのように考えられます」

 首相はしばらく黙っていた。


 やがて、ゆっくりと椅子の背にもたれた。

「各国政府に、戦争の拡大を防ぐよう働きかけなければならない」

 秘書官が頷いた。

「外務省には、関係各国との連絡を継続するよう伝えてくれ」

「承知しました」 


 首相は窓の外を見た。

 ロンドンの街は、いつもと変わらぬ朝を迎えていた。

 商人は店を開き、労働者は工場へ向かい、子供たちは学校へ歩いていく。

 その平穏な光景が、ひどく脆いものに思えた。


「戦争というものは、一度始まれば簡単には止められない」

 首相は静かに言った。

「だからこそ、今のうちに止めなければならないのだ」




-同日 午前10時30分-

英国 ポーツマス海軍基地



 ポーツマス軍港では、朝から慌ただしい動きが続いていた。

 港内には大小さまざまな軍艦が停泊し、岸壁では補給作業が進められていた。

 石炭運搬船が軍艦の舷側に接近し、起重機が木箱や資材を吊り上げている。

 水兵たちは甲板を駆け回り、下士官の号令があちこちから響いていた。

 その一角に、巨大な巡洋戦艦が停泊していた。


 英国海軍巡洋戦艦「フッド」。

 全長260メートルを超える巨大な船体は、ほかの艦艇を圧倒する威容を誇っていた。

 9月10日午前7時。

 北海演習を中止してポーツマスへ帰投した艦隊は、その後、補給と整備を進めていた。

 そして今朝、海軍本部から警戒態勢の強化が指示されたのである。


 英国は、まだ戦争に参加していない。

 しかし、欧州情勢が急速に悪化している以上、海軍が平時の態勢を維持するわけにはいかなかった。


 艦内では、主要な士官たちが艦長公室に集められていた。

 艦長アーサー・ウェストン大佐は、集まった士官たちを見渡した。


「諸君」

 室内が静まり返った。

「すでに承知していると思うが、オーストリア=ハンガリーとセルビアが交戦状態に入った」

 ウェストンは机上の書類に視線を落とした。

「英国は現時点では中立を維持している。しかし、戦争が拡大する可能性は否定できない」


 砲術士官ウィリアム・ハミルトン大尉は、真剣な表情でその言葉を聞いていた。

 隣には航海士官エドワード・ベネット大尉が立っている。


「本艦は海軍本部の指示に従い、警戒態勢を強化する。各部署は必要な整備と補給を進め、いつでも出港できる状態を維持せよ」

「はっ!」

 士官たちが一斉に答えた。

 ウェストンは続けた。

「今回の戦争が短期間で終わるかも知らない。しかし、ロシアが介入し、ドイツが動けば、状況は一変する」


 艦長は窓の外へ目を向けた。

「その場合、我々も戦争に巻き込まれる可能性がある」

 ハミルトンは静かに頷いた。

「諸君、今は冷静に任務を遂行せよ」

 ウェストンは士官たちを見渡した。

「戦争が始まってから準備をしていたのでは遅い」


 その言葉には、長年海軍に身を置いてきた者だけが持つ重みがあった。

「以上だ。各自、持ち場へ戻りたまえ」

 士官たちは敬礼し、順次退室した。


 ハミルトンとベネットも部屋を後にした。

 甲板へ出ると、冷たい海風が二人の顔を打った。

 港内では、巨大な戦艦群が静かに浮かんでいる。


「とうとう始まったな」

 ベネットが呟いた。

「ああ」

「しかし、まだ英国は戦争に参加していない」

「そうだな」

「このままバルカンだけで終わると思うか?」

 ハミルトンは少し考えた。

「分からない」

「君らしくない答えだな」

「10年前も、欧州は戦争寸前まで進んだ。しかし、あのときは外交で回避できた」

 ハミルトンは港の外へ目を向けた。

「今度もそうなることを願いたい」

 ベネットは黙っていた。

「だが、もしドイツとフランスが戦争になれば、我々も無関係ではいられないだろう」


 遠くで軍艦の汽笛が鳴った。

 二人はしばらく、黙って海を見つめていた。




-1924年9月12日 午後6時00分・日本標準時-

大日本帝国 東京市 海軍省


 欧州から遠く離れた日本では、すでに夕刻を迎えていた。

 東京の空は薄い茜色に染まり、霞が関の官庁街には一日の終わりを告げる鐘の音が響いていた。

 しかし、海軍省の会議室では、まだ多くの将校たちが集まっていた。

 机上には欧州から届いた電報の写しが並べられている。


 オーストリア=ハンガリーとセルビアの開戦。

 ロシアの動向。

 ドイツ帝国の対応。

 そして、英国との同盟関係。

 いずれも、簡単に結論を出せる問題ではなかった。


 会議に参加していた黒田慎一郎少佐は、机上の世界地図を見つめていた。

 海軍軍令部に所属する参謀将校である。


「英国政府は、戦争の拡大を防ぐため外交交渉を続けているようです」

 1人の将校が言った。

「しかし、ロシアが参戦すれば、ドイツも動く可能性がある」

「そうなれば、英国も無関係ではいられないでしょう」

 室内が静かになった。


 黒田は地図に視線を落とした。

 日本から欧州までは、途方もない距離がある。

 現時点では、日本が軍事的に関与する理由はない。

 しかし、戦争が欧州全体へ拡大すれば、英国との同盟関係が重要な問題となる可能性があった。


「黒田少佐」

 上官が声をかけた。

「君はどう考える?」

 黒田は姿勢を正した。

「現段階では、欧州情勢の推移を慎重に見極めるべきと考えます」

「理由は?」

「現在の戦争は、あくまでオーストリア=ハンガリーとセルビアの間で行われています。英国も参戦しておりません」


 黒田は続けた。

「しかし、ロシア、ドイツ、フランスが戦争に巻き込まれた場合、状況は大きく変わります」

 上官は頷いた。

「つまり、今後の外交情勢次第ということだな」

「はい」

 黒田は静かに答えた。

「戦争がバルカン半島だけで終わるならば、我が国への直接的な影響は限定的でしょう」

 彼は一呼吸置いた。


「しかし、欧州全体へ拡大した場合には、海軍としても対応を検討する必要があると考えます」

 室内の将校たちは、しばらく黙っていた。

 やがて一人が口を開いた。

「もっとも、オーストリア軍がセルビアを早期に撃破すれば、すべて終わるかもしれんな」

 黒田は静かに頷いた。

「そう願いたいものです」


 彼は地図を見つめた。

 その先には、遠い欧州の海が広がっている。


 いつの日か、日本海軍の艦艇がその海へ向かうことになるのだろうか。

 現時点では、誰にも分からなかった。

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