第一章 第一節「戦争の朝」中編
-同日 午前8時-
ドイツ帝国 ベルリン 参謀本部2階 大会議室
大会議室は、庁舎の中でも特に広い部屋であった。
高い天井には装飾が施され、壁には歴代のプロイセン軍人たちの肖像画が並んでいる。
中央には長大な会議机が置かれ、その上には欧州全域を描いた巨大な地図が広げられていた。
部屋の奥には黒板が設置され、各国の軍事状況が記されている。
窓際には複数の電話機が並び、伝令将校が新しい報告書を次々と運び込んでいた。
すでに十数名の高級将校が集まっていた。
その中心に座っていたのは、帝国参謀総長カール・フォン・シュタインベルク大将である。
62歳。長年にわたり帝国陸軍の中枢を歩み、皇帝ヴィルヘルム二世からも厚い信頼を寄せられている人物だった。
白髪交じりの髪を短く整え、胸には数々の勲章を付けている。その表情は厳格であり、部下たちからは冷静沈着な軍人として知られていた。
シュタインベルクの右手には、情報部長オットー・フォン・ライヒェナウ少将が座っていた。
59歳。 諸外国の軍事情報に精通し、各国の動員能力や軍備状況を分析してきた将校である。
その向かいには、海軍側の連絡将校であるエーリヒ・フォン・ブラント中佐が座っていた。
41歳。海軍の作戦と戦略に関する専門知識を持ち、陸軍参謀本部と海軍当局の連絡調整を担当している。
フリードリヒが入室すると、シュタインベルクは彼に視線を向けた。
「ヴァルテンベルク大尉か」
「はっ。出頭いたしました」
「そこへ座りたまえ」
示されたのは、会議机の末席であった。
フリードリヒは一礼して着席した。
参謀総長は壁の時計を確認した。
午前8時。
「諸君」
低く、よく通る声が室内に響いた。
「既に知っているとは思うが、オーストリア=ハンガリー帝国とセルビア王国は、ついに交戦状態へ入った」
室内が静まり返った。
「10年前、我々は外交によって欧州全体の戦争を回避した。しかし、バルカン半島の対立は解消されるどころか、さらに深刻化した」
シュタインベルクは机上の地図を指した。
「現在の戦争は、あくまでオーストリアとセルビアの間で行われている。しかし、この戦争が両国だけで終わる保証はない。」
将校たちは無言で頷いた。
「我が帝国は、オーストリア=ハンガリーとの同盟関係を維持しなければならん。一方で、無用な戦争拡大も避ける必要がある」
参謀総長はライヒェナウへ視線を向けた。
「まず、各国の状況について報告を求める」
「はっ」
情報部長が立ち上がった。
彼は手元の資料を開き、落ち着いた口調で説明を始めた。
「オーストリア=ハンガリー軍は、セルビア方面への部隊集結を進めています。主要鉄道路線では軍用列車の運行が増加しており、予備役兵の召集も開始された模様です」
少将は地図の南東部を指した。
「一方、セルビア軍も国境方面の防備を強化しています。首都ベオグラード周辺では、軍事施設の警戒態勢が引き上げられています」
「オーストリア軍の攻勢開始は?」
シュタインベルクが尋ねた。
「現時点では正確な時期を確認できておりません。ただし、近いうちに国境付近で本格的な戦闘が始まる可能性が高いと判断されます」
一人の将校が口を挟んだ。
「セルビア軍がオーストリア軍に対抗できるとは思えん」
「正規軍の規模ではオーストリア側が優勢です」
ライヒェナウは頷いた。
「しかし、セルビア軍はバルカン戦争で実戦経験を積んでいます。山岳地帯での防御戦や機動戦には一定の能力を有していると考えられます」
シュタインベルクは腕を組んだ。
「つまり、オーストリア軍が必ずしも短期間で勝利できるとは限らんということだな」
「はい」
「ロシアは?」
ライヒェナウは東部の地図へ視線を移した。
「ロシア政府は、セルビアへの支持を表明しています。ただし、現時点では正式な軍事介入は行っておりません」
「動員の兆候は?」
「国境方面で一部の部隊移動が確認されています。しかし、全面的な動員命令が発令されたという確実な情報はありません」
シュタインベルクは静かに頷いた。
「フランスは?」
「ロシアとの同盟関係を維持しつつ、外交的な対応を検討している模様です」
「英国については?」
「英国政府は、戦争の拡大を防ぐための外交的努力を続けています」
ライヒェナウは一呼吸置いた。
「ただし、各国とも軍事的な警戒態勢を強化しつつあります」
室内の空気が重くなった。
現在、戦争を行っているのはオーストリア=ハンガリーとセルビアだけである。
しかし、その背後には、欧州列強の複雑な同盟関係が存在していた。
ロシアがセルビアを支援すれば、ドイツはオーストリア=ハンガリーへの対応を迫られる。
さらに、ベルギーの中立問題や北海での軍事行動が発生すれば、英国も戦争に巻き込まれるかもしれない。
それは、ドイツ参謀本部が長年恐れてきた事態だった。
二正面戦争。
そして、欧州全体を巻き込む全面戦争である。
シュタインベルクは机上の資料を閉じた。
シュタインベルクは机上の資料を閉じた。
「諸君」
彼はゆっくりと口を開いた。
「ここからが、本日の会議の最も重要な議題だ」
参謀総長は一冊の報告書を手に取った。
表紙には、次の文字が記されていた。
『欧州列強間における全面戦争発生時の戦略的見通しについて』
フリードリヒは、その表紙を見た瞬間、わずかに目を見開いた。
自分が作成した報告書だった。
シュタインベルクは会議室を見渡した。
「この報告書は、作戦課のフリードリヒ・ヴァルテンベルク大尉が作成したものだ」
将校たちの視線が、一斉にフリードリヒへ向けられた。
「内容は、バルカン問題が欧州全体の戦争へ発展した場合の戦略的見通しについてまとめたものである」
シュタインベルクは報告書を開いた。
「率直に言えば、内容はかなり悲観的だ」
室内に小さなどよめきが起こった。
「しかし、現在の情勢を考えれば、無視できるものではない」
参謀総長はフリードリヒへ視線を向けた。
「ヴァルテンベルク大尉」
「はっ」
「前へ出たまえ」
フリードリヒは立ち上がった。
そして、会議室の中央へ歩み出た。
「君の報告書について、直接説明してもらいたい」
「承知いたしました」
フリードリヒは深く敬礼した。
会議室の空気が、さらに引き締まった。
彼は机上の地図へ視線を落とした。
バルカン半島で始まった戦争。
その戦火が、もし欧州全体へ広がったなら。
ドイツ帝国は、どのような運命をたどるのか。
フリードリヒは静かに口を開いた。
「それでは、報告いたします」
「本報告書は、参謀本部が以前より研究を重ねておりました戦略思想を踏まえた上で、現在のバルカン危機が欧州列強間の全面戦争へ発展した場合を想定し、我が帝国が直面する軍事的、経済的問題を分析したものです」
彼は地図の南東部を指した。
「現在、オーストリア=ハンガリー帝国とセルビア王国は交戦状態にあります」
続いて、ロシアを指した。
「問題は、この戦争にロシアが介入するかどうかです」
ライヒェナウ少将が頷いた。
「ロシアはセルビアを支援している」
「はい」
フリードリヒは続けた。
「ロシアがセルビアを軍事的に支援し、オーストリア=ハンガリーとの戦争に突入した場合、我が帝国は同盟国への対応を迫られます」
彼はドイツとフランスの国境を指した。
「さらに、ドイツとロシアが交戦状態に入れば、フランスがロシアとの同盟関係に基づいて参戦する可能性があります」
一人の将校が口を開いた。
「つまり、二正面戦争か」
「その通りです」
フリードリヒは頷いた。
「我が帝国にとって、最も避けるべき事態です」
シュタインベルクが口を開いた。
「では、君はその場合、どのような戦略を取るべきだと考える?」
フリードリヒは地図の西側を指した。
「基本的には、今は亡きシュリーフェン閣下の戦略作戦計画に基づき、西部戦線での短期決戦を目指すべきだと考えます」
その言葉に、数名の将校が頷いた。
シュリーフェン・プラン。
20年前に当時のドイツ帝国陸軍参謀総長シュリーフェンが建てた、ドイツの基本的戦争戦略。
2つの敵と同時に戦うのを避けるための短期決戦作戦だった。
「我が帝国がフランスとロシアを同時に相手にする場合、両戦線へ均等に兵力を配分すれば、決定的な優勢を得ることが困難になります」
フリードリヒは続けた。
「したがって、西部戦線に主力を集中し、フランス軍を早期に撃破する。その後、兵力を東部戦線へ転用することが最も合理的です」
シュタインベルクは静かに頷いた。
「旧来の西部攻勢計画と同じ考え方だな」
「はい」
フリードリヒは答えた。
「ただし、現在の欧州軍事情勢は、20年前の計画策定時とは大きく異なっています」
彼は机上の資料を開いた。
「各国の軍備は拡張され、機関銃や重砲の配備も進んでいます。さらに、航空機による偵察能力も向上しています」
フリードリヒは地図のベルギー方面を指した。
「我が軍がベルギー方面からフランス北部へ進撃する場合、敵軍の防御能力は以前より高くなっていると考えるべきです」
一人の将校が尋ねた。
「それでも、我が軍の攻撃力が上回るのではないか?」
「その可能性は十分にあります」
フリードリヒは頷いた。
「しかし、問題は攻撃側がどれほどの損害を受けるかです」
彼は続けた。
「機関銃と重砲による防御陣地に対し、歩兵が正面攻撃を行えば、大きな損害が発生する可能性があります」
ライヒェナウ少将が口を開いた。
「つまり、攻勢が停滞する可能性があると?」
「はい」
フリードリヒは静かに答えた。
「攻撃側が大きな損害を受け、防御側が陣地を強化する。その結果、双方が容易に突破できない状態に陥る可能性があります」
室内が静まり返った。
「その場合、戦争は機動戦から陣地戦へ移行する恐れがあります」
シュタインベルクは腕を組んだ。
「塹壕戦か」
「はい」
フリードリヒは頷いた。
「もし西部戦線が固定されれば、我が帝国はフランスとロシアを相手に長期間戦い続けることになります」
一人の将校が口を挟んだ。
「しかし、近代兵器の威力は凄まじい。長期間戦えば、双方とも耐えられなくなるのではないか?」
フリードリヒは静かに答えた。
「それが、必ずしも戦争の終結につながるとは限りません」
「どういうことだ?」
「多くの犠牲を払えば、各国政府は国民に対して成果を示さなければなりません。戦争を終わらせるための条件が、かえって厳しくなる可能性があります」
その言葉に、室内の空気が変わった。
軍事的な勝敗だけではない。
国家の威信。
国民感情。
外交上の要求。
戦争が長引く理由は、戦場の外にも存在していた。
シュタインベルクはしばらく考え込んだ。
「では、君は戦争が何年も続く可能性があると考えているのか?」
フリードリヒは一瞬、言葉を選んだ。
「はい、閣下」
室内が静まり返った。
「最悪の場合、数年間に及ぶ可能性も否定できません」
その言葉に、数名の将校が驚いた表情を見せた。
「数年間だと?」
「それは、あまりにも悲観的ではないか?」
フリードリヒは反論しなかった。
彼自身も、そのような未来を望んでいるわけではなかった。
しかし、報告書に記した結論を変えるつもりもなかった。そして、それを避ける方法はまだ分からなかった。
-同日 午前9時50分-
ドイツ帝国 ベルリン 参謀本部2階 大会議室
議論は、さらに続いていた。
ブラント中佐が口を開いた。
「大尉、海軍についてはどう考えている?」
フリードリヒは地図の北西を指した。
「英国が参戦した場合、我が帝国にとって最も重大な問題の一つは海上封鎖です」
ブラントは頷いた。
「その可能性は高い」
「英国海軍は、世界最大級の海軍力を保持しています。我が艦隊が正面から決戦を挑んだ場合、必ずしも勝利できるとは限りません」
一人の将校が眉をひそめた。
「我が海軍を過小評価しているのではないか?」
「いいえ」
フリードリヒは落ち着いて答えた。
「我が海軍、特に大洋艦隊は強力です。しかし、英国海軍の戦力は依然として我が国を上回っています」
ブラントが口を開いた。
「その通りだ。海軍側でも、英国艦隊との正面決戦には慎重な意見が多い」
フリードリヒは続けた。
「英国が北海の出口を監視し、我が国の海外貿易を制限した場合、国内経済に深刻な影響が生じる可能性があります」
彼は資料を開いた。
「ドイツ帝国の工業生産は、海外からの原材料輸入に大きく依存しています」
シュタインベルクが尋ねた。
「具体的には?」
「ゴム、銅、石油関連資源、その他の工業原料です。また、食糧や飼料の輸入にも影響が生じます」
フリードリヒは続けた。
「短期間で戦争が終結すれば、備蓄によって対応できるでしょう。しかし、戦争が一年、二年と続けば、工業生産や国民生活に深刻な影響が生じる可能性があります」
ライヒェナウ少将が口を開いた。
「つまり、戦争は軍隊だけの問題ではなくなるということか」
「はい」
フリードリヒは頷いた。
「国家全体の経済力と工業生産力が、戦争の行方を左右することになります」
彼は一呼吸置いた。
「私は、このような戦争を『総力戦』と呼ぶべきだと考えています」
その言葉に、シュタインベルクは静かに頷いた。
「総力戦か……」
フリードリヒは続けた。
「兵士だけではなく、工場で働く労働者、鉄道を運行する職員、農業に従事する国民、そのすべてが戦争遂行に関わることになります」
室内は静まり返っていた。
「そして、国家の経済力が限界に達したとき、軍隊がまだ戦闘能力を保持していたとしても、戦争を継続することが困難になる可能性があります」
ブラントは腕を組んだ。
「英国が海上封鎖を続ければ、その危険はさらに高まるな」
「はい」
フリードリヒは頷いた。
「そのため、我が帝国にとって最も望ましいのは、全面戦争そのものを回避することです」
その言葉に、数名の将校が顔を上げた。
フリードリヒは続けた。
「現在の戦争がオーストリア=ハンガリーとセルビアの間で終結するならば、我が帝国は二正面戦争を回避できます」
シュタインベルクは静かに頷いた。
「つまり、外交的解決が最も望ましいということだな」
「はい、閣下」
「しかし、我々は軍人だ。外交が失敗した場合にも備えねばならん」
「その通りです」
フリードリヒは背筋を伸ばした。
「だからこそ、最悪の事態を想定した準備が必要だと考えます」
-同日 午前10時35分-
ドイツ帝国 ベルリン 参謀本部2階 大会議室
会議は終盤に差しかかっていた。
シュタインベルクは机上の報告書を閉じた。
「ヴァルテンベルク大尉」
「はっ」
「君の見解は理解した」
参謀総長は静かに続けた。
「率直に言えば、私は君ほど悲観的ではない」
フリードリヒは黙っていた。
「我が帝国の軍事力は強大だ。仮に全面戦争となったとしても、短期間で決定的な勝利を得る可能性は十分にある」
「はい」
「しかし、君の指摘にも一理ある」
シュタインベルクは会議室を見渡した。
「我々は勝利を信じている。だが、参謀本部が楽観論だけで動くわけにはいかん」
将校たちは静かに頷いた。
「現段階で、我が帝国は戦争当事国ではない」
シュタインベルクは強調した。
「したがって、我々が最優先すべきは、オーストリア=ハンガリーとセルビアの戦争が、欧州全体へ拡大する可能性を正確に見極めることだ」
彼はライヒェナウへ視線を向けた。
「情報部は、ロシア及びフランスの動員状況を重点的に監視せよ」
「はっ」
「ブラント中佐」
「はっ」
「海軍側との連絡を密にし、英国海軍の動向についても情報を集めてもらいたい」
「承知しました」
シュタインベルクは最後にフリードリヒへ視線を向けた。
「フリードリヒ・ヴァルテンベルク大尉」
「はっ」
「君には、現在の情勢を踏まえ、報告書の内容をさらに詳細に検討してもらう」
フリードリヒは姿勢を正した。
「具体的には、どのような事項でしょうか」
「ロシアが参戦した場合、フランスが参戦した場合、そして英国まで参戦した場合。それぞれの状況に応じた戦略的見通しだ」
「承知いたしました」
「特に、戦争が長期化した場合の問題点を重点的に研究せよ」
フリードリヒは深く敬礼した。
「謹んで拝命いたします」
シュタインベルクは頷いた。
「よろしい」
参謀総長は立ち上がった。
「以上をもって、本日の会議を終了する」
将校たちが一斉に立ち上がった。
軍靴の音が揃い、敬礼が交わされる。
こうして、バルカン危機に対応するための緊急会議は終了した。
しかし、ドイツ帝国参謀本部が直面する問題は、まだ始まったばかりであった。
-同日 午前11時20分-
ドイツ帝国 ベルリン 参謀本部2階 作戦課執務室
フリードリヒは執務室へ戻ると、机上に報告書を置いた。
窓の外には、ベルリンの街が広がっている。
路面電車が走り、商人たちが行き交い、街角では新聞売りが声を張り上げていた。
市民たちは、まだ普段と変わらぬ日常を送っている。
しかし、遠いバルカン半島では、すでに戦争が始まっていた。
フリードリヒは椅子に腰を下ろし、報告書を開いた。
そして、新しい用紙を取り出した。
表題には、次の文字を書き込んだ。
『バルカン戦争拡大時における帝国の戦略的対応について』
彼はペンを走らせた。
ロシアの介入。
フランスの参戦。
英国の海上封鎖。
二正面戦争。
そして、長期化した場合の経済的負担。
そのすべてが、現実に起こり得る問題だった。
フリードリヒはしばらく考え込んだ。
今のところ、ドイツ帝国は戦争に参加していない。
外交交渉によって、戦争の拡大を防ぐ余地も残されている。
しかし、もし外交が失敗したら。
もしロシアがセルビアを支援するために軍事介入したら。
もしフランスがロシアとの同盟関係に従って参戦したら。
そして、もし英国まで戦争に加わったら。
ドイツ帝国は、かつて経験したことのない規模の戦争へ突入することになる。
フリードリヒは窓の外を見た。
ベルリンの街は、まだ平穏だった。
その平穏がいつまで続くのか。
彼には分からなかった。
ただ一つ確かなことは、欧州が重大な岐路に立っているということだった。
彼は静かに呟いた。
「どうか、バルカンだけで終わってくれ……」
その願いは、誰にも聞かれることなく執務室の中に消えていった。
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