↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
31/41

第一章 第一節「戦争の朝」前編

-1924年9月12日 午前6時20分-

ドイツ帝国 ベルリン ウンター・デン・リンデン 市内中心地



 ベルリンの朝は、薄い霧とともに訪れた。

 9月12日。

 ドイツ帝国の首都は、いつもと変わらぬ一日を迎えようとしていた。


 ウンター・デン・リンデンの並木道には夜露が残り、街路樹の葉が冷たい風に揺れている。石畳の道路には昨夜の雨が作った小さな水たまりが点在し、その表面には街灯の光が鈍く反射していた。

 遠くから路面電車の車輪が軋む音が聞こえてくる。

 商店の主人たちは店先の掃除を始め、パン屋の煙突からは白い煙が立ち上っていた。出勤途中の官吏や商人たちは、新聞を片手に足早に通りを歩いている。


 しかし、この日のベルリンには、普段とは異なる空気が漂っていた。

 街角の新聞売りが、声を張り上げていた。


「号外! 号外! オーストリアとセルビア、ついに開戦!」

 その声に、通行人たちが足を止める。

「バルカン半島で戦争勃発! ウィーン政府、セルビアに宣戦布告!」

 新聞を買い求める人々が集まり、通りの一角には小さな人だかりができた。


 新聞の一面には、大きな活字が並んでいた。

『墺塞両国、ついに交戦状態へ』

『帝国政府、事態を重大視』

『欧州各国、外交的対応を急ぐ』

 

 10年前。

 欧州は一度、全面戦争の瀬戸際に立った。

 1914年のサラエヴォ危機。

 オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者が暗殺されたことを発端とする国際危機は、欧州各国を戦争寸前にまで追い込んだ。

 しかし、各国の外交努力によって、戦争は回避された。

 その後もバルカン半島では民族対立が続き、オーストリア=ハンガリーとセルビアの関係は悪化の一途をたどっていた。

 そして、1924年。

 10年前に回避された戦争が、ついに現実となったのである。


「とうとう始まったか」

 新聞を手にした中年の男が呟いた。

 隣にいた若い労働者が答えた。

「しかし、オーストリアとセルビアの戦争でしょう?」

「ああ。今のところはな」

「なら、ドイツには関係ないのでは?」

男は新聞を畳んだ。

「そう簡単にはいかん。オーストリアは我が国の同盟国だ」

 若者は少し考えた。

「では、ドイツも戦争に参加するのですか?」

「分からん」

 男は首を振った。

「皇帝陛下と政府がどう判断するかだろう」

 その横では、別の男たちが議論を交わしていた。

「セルビアなど、オーストリア軍が本気になれば数週間で降伏するさ」

「そうだろうな。大国と小国では戦力が違いすぎる」

「ハロウィンまでには、すべて終わっているだろう」

 彼らは笑った。


 その表情には、不安よりも楽観があった。

 オーストリア=ハンガリー帝国は、欧州有数の軍事大国である。

一方、セルビア王国は、バルカン半島の小国にすぎない。

 少なくとも、多くのベルリン市民はそう考えていた。

 しかし、彼らの議論には、一つの重大な問題が抜け落ちていた。


 ロシア帝国である。


 ロシアは長年にわたり、バルカン半島のスラヴ系諸民族に強い関心を寄せていた。

 セルビアへの支援も、その外交政策の一環であった。


 もしロシアがセルビアを支援するために軍事介入したら。

 そして、ドイツがオーストリア=ハンガリーを支援したら。

 戦争は、もはやバルカン半島だけの問題ではなくなる。


 だが、街を歩く人々の多くは、そこまで深く考えてはいなかった。

 彼らにとって戦争とは、遠い南東欧で起こった出来事だった。


ベルリンの商店は開き、路面電車は走り、工場ではいつも通り機械が動き始めていた。

 しかし、その平穏な日常の裏側で、ドイツ帝国の軍事指導部は、すでに最悪の事態を想定し始めていた。



-同日 午前7時05分-

ドイツ帝国 ベルリン 参謀本部庁舎



 ベルリン中心部に位置する帝国参謀本部庁舎では、夜明け前から慌ただしい動きが続いていた。

 重厚な石造りの建物。

 正面玄関には帝国の紋章が掲げられ、入口では衛兵が警戒にあたっている。

 玄関前には軍用自動車が次々と到着し、軍服姿の将校たちが足早に建物へ入っていった。


 建物の内部には、昨日までとは比較にならないほどの緊張感が漂っていた。

 1階では伝令兵が書類を受け渡し、電話交換室では交換手たちが絶え間なく回線を接続している。

 2階には大会議室があり、早朝から高級将校たちが集まり始めていた。

 3階には作戦課をはじめとする各科の執務室が並び、そのほとんどに明かりが灯っている。

 廊下には軍靴の音が響き、伝令兵が封筒を抱えて階段を駆け上がる。

電話のベル。

 タイプライターの打鍵音。

 扉の開閉音。

 そして、将校たちの低い話し声。

 帝国軍の頭脳とも言えるこの建物は、今まさに欧州の危機に対応するため動き始めていた。


 3階の作戦課執務室。

 その一角に、一人の若い将校がいた。

 フリードリヒ・カール・フォン・ヴァルテンベルク大尉。29歳。

 帝国陸軍出身であり、現在は参謀本部作戦課に勤務する若手参謀将校である。

 戦略研究に優れ、各国の軍事制度や戦争遂行能力について豊富な知識を持つ人物だった。


 彼は机上に広げられた欧州地図を見つめていた。

 地図には、ドイツ帝国を中心として、西にフランス、東にロシアが描かれている。

 その南東には、オーストリア=ハンガリー帝国とセルビア王国が位置していた。

 フリードリヒは地図の一角に目を向けた。

 ベオグラード。

 セルビア王国の首都。

 その北側にはドナウ川が流れ、対岸にはオーストリア=ハンガリーの領土が広がっている。


 両国の国境は、今や戦場となろうとしていた。

 フリードリヒは懐中時計を取り出した。


 午前7時12分。

 最近はほとんど眠っていなかった。

 しかし、疲労を感じている余裕はなかった。

 机の上には、先ほどようやくまとめ終わった1冊の報告書が置かれていた。


『欧州列強間における全面戦争発生時の戦略的見通しについて』  


 報告書では、バルカン問題が他国との外交問題に発展し、ドイツ帝国がフランス、ロシア、英国を相手に戦争を行った場合の軍事的、経済的な問題を分析していた。


 彼の結論は、決して楽観的なものではなかった。

 ドイツ軍が短期間でフランスを撃破できれば、帝国は有利な立場に立つ。

 しかし、それに失敗した場合、二正面戦争が長期化する危険がある。

 さらに英国海軍が海上封鎖を実施すれば、ドイツの海外貿易は大きく制限される。 

国内の工業生産、食糧供給、軍需物資の調達にも深刻な影響が生じる可能性があった。


 彼は報告書の最後に、こう記していた。


『近代国家間の全面戦争は、単なる軍隊同士の戦闘にとどまらず、国家の経済力、工業生産力、国民生活をも巻き込む総力戦へと発展する可能性が高い。』 


 しかし、参謀本部内の多くの将校は、仮に戦争が欧州全体へ拡大したとしても、短期間で終わると考えていた。

 100年前のナポレオン戦争は13年続いたが、50年前の普仏戦争は僅か1年で終わった。

 最も最近の国家間戦争であった日露戦争でも約1年。

 したかったで多くの者は「国家対国家の戦争は半年から1年程度で決着する」「国家規模によっては数ヶ月から数週間程度も十分に考えられる」そう考えていた。


 フリードリヒ自身も、戦争の長期化を望んでいるわけではなかった。

 むしろ、バルカン半島での戦争がそのまま終結することを願っていた。


しかし、参謀として、最悪の事態を考えないわけにはいかなかった。


 そのとき、執務室の扉が叩かれた。

「ヴァルテンベルク大尉!」

 若い伝令将校が入ってきた。

「何だ?」

「参謀総長閣下より、二階大会議室への出頭命令です」

 フリードリヒは顔を上げた。

「また会議か?」

「はい。午前8時より緊急会議が開かれます」

「分かった。すぐに向かう」

 伝令将校が退出すると、フリードリヒは机上の報告書を閉じた。


 軍服の襟を正し、必要な資料を革製の書類鞄へ収める。

 そして、執務室を後にした。



第一章 第一節 中編へ

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。