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序章 第十一節「開戦前夜」後編

―1924年9月11日 午後9時42分―

オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン 帝国外務省会議室


会議室の重厚な扉が開かれた。

アレクサンダー・フォン・ホーエンフェルトは、右手に電報を握りしめたまま室内へ足を踏み入れた。

長大な楕円形の机を囲んでいた政府高官と軍人たちの視線が、一斉に彼へ向けられる。

天井から吊るされたシャンデリアが室内を明るく照らしていたが、そこに集まる人々の表情は暗かった。


「ベオグラードから、正式な回答が届きました」

ホーエンフェルトの声が、静まり返った会議室に響いた。

会議を主宰していた政府高官が顔を上げた。

「内容は?」

「セルビア王国政府は、我が国の要求の大部分を受諾しました」

室内に小さなどよめきが起こった。

ホーエンフェルトは電報を広げた。


「反帝国的な宣伝活動の禁止、民族主義団体の取り締まり、事件関係者の逮捕、帝国政府への公式謝罪について、原則として受け入れると回答しています」


「すべてではないのだな」

低い声がした。

ヴィクトル・フォン・ラウエンシュタイン陸軍中将だった。

彼は腕を組んだまま、ホーエンフェルトを見つめていた。

「はい」

ホーエンフェルトは答えた。


「帝国側調査官によるセルビア国内での独自捜査については、同国の憲法と国内法に抵触するため受け入れられないとしています。ただし、国際的な共同調査については協議に応じる用意があるとのことです」


ラウエンシュタインの眉が動いた。

「つまり、最も重要な要求を拒否したということか」

「拒否ではありません。修正提案です」

「言葉を変えただけではないか」

「違います、中将」


ホーエンフェルトは一歩前へ進んだ。

「セルビア政府は、我々が求めた要求の大部分を受け入れています。これは外交的には極めて大きな譲歩です」


彼は机の上に電報を置いた。


「残された問題についても、交渉の余地があります。英国政府は仲裁を申し出ていますし、ドイツ皇帝陛下も外交的解決を望んでおられます」

「英国とドイツが何を望もうと、帝国の安全保障を決定するのは我々だ」

ラウエンシュタインは冷たく答えた。

「セルビア国内に存在する反帝国的な組織を、セルビア政府自身が取り締まると言っている。それを信用できるのかね」

「信用できるかどうかを確認するためにも、共同調査が必要なのです」


「その間に、次の暗殺が起こるかもしれん」

会議室に沈黙が流れた。


ホーエンフェルトは中将を見つめた。

「中将は、戦争以外の解決を考えておられないのですか」

その言葉に、数名の高官が顔を上げた。

ラウエンシュタインの表情が険しくなった。

「言葉に気をつけたまえ、ホーエンフェルト君」

「失礼いたしました」

ホーエンフェルトは頭を下げた。 


しかし、すぐに顔を上げた。

「ですが、申し上げなければなりません」

彼は静かに続けた。

「我々は今、戦争を避けられるかもしれない最後の機会を手にしているのです」


会議室の時計が、午後9時45分を示した。

最後通牒の回答期限まで、あと15分。


政府高官は机の上の電報を手に取った。

「……まずは、回答の全文を確認しよう」

ホーエンフェルトは頷いた。


彼にはまだ希望があった。

少なくとも、セルビアは回答を拒否していない。

それだけでも、交渉を続ける理由になるはずだった。


しかし、彼は気づいていなかった。


この会議室にいる人々の中には、すでに戦争を前提として物事を考え始めている者がいることを。



―1924年9月11日 午後10時5分―

オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン 帝国外務省



最後通牒の回答期限が過ぎた。


しかし、会議室では結論が出ていなかった。

セルビア政府の回答は期限内に提出されていた。


そのため、単純に最後通牒が無視されたという理由で軍事行動を開始することはできなかった。

問題は、回答内容を受け入れるか否かにあった。


ラウエンシュタイン中将は、机の上の文書を指で叩いた。

「帝国政府が求めたのは、要求の完全な履行である」

彼は言った。

「セルビアは、それを拒否した」

「大部分は受け入れています」

ホーエンフェルトが反論した。

「大部分では不十分だ」

「しかし、交渉の余地があります」

「我々はいつまで交渉を続けるつもりなのだ?」

中将の声が強くなった。


「10年前もそうだった。外交官たちは妥協を重ね、問題を先送りにした。その結果、帝国の権威は傷つけられ続けている」

「10年前に戦争を避けたことは、決して誤りではありません」

「では、その平和によって何が解決された?」


ホーエンフェルトは答えようとした。


しかし、その前に政府高官が口を開いた。

「両者とも、落ち着いてくれ」

会議室が静まり返った。

「現時点では、軍事行動を開始する決定は下されていない」

その言葉に、ホーエンフェルトはわずかに安堵した。

政府高官は続けた。

「セルビアの回答について、帝国政府として正式な評価を行う必要がある。英国とドイツからの外交的要請も無視できない」

「しかし、閣下」

ラウエンシュタインが口を開いた。

「軍事的な準備は進めなければなりません」

「準備は認める。ただし、国境を越える行動は許可しない」

「承知しました」

中将は短く答えた。

その表情には、不満が浮かんでいた。

ホーエンフェルトは、そのやり取りを聞きながら考えていた。


まだ戦争は始まっていない。

外交交渉も完全には終わっていない。

だが、軍部の準備はすでに進んでいる。


その事実が、彼には恐ろしく思えた。



―1924年9月11日 午後10時25分―

セルビア王国 ベオグラード 王国首相官邸




ベオグラードの街は、夜の静寂に包まれていた。

しかし、首相官邸では、まだ多くの部屋に明かりが灯っていた。


首相ニコラ・パシッチは、執務室でオーストリア側からの回答を待っていた。


机の上には、提出した最後通牒への回答文の控えが置かれていた。

その隣には、ロシア政府から届いた外交電報があった。


ロシアはセルビアへの支援を表明していた。

しかし、軍事介入を約束したわけではなかった。

パシッチはその違いを理解していた。


扉が叩かれた。

「入れ」

外相が入室した。

「首相閣下」

「ウィーンから何か連絡は?」

「まだありません」

パシッチは深く息を吐いた。

「そうか」

外相は椅子に腰掛けた。

「我々は、できる限りのことをしました」

「ああ」

「これ以上の譲歩は、国家の独立そのものを危険にさらします」

パシッチは頷いた。

「分かっている」


彼は窓の外を見た。

街の明かりが、遠くまで続いていた。


「私は、あの回答で戦争を避けられると思っている」


パシッチは静かに言った。

「英国もフランスも、我々が誠実に対応したことを理解するはずだ」

「はい」

「問題は、ウィーンがそれを認めるかどうかだ」

外相は答えなかった。


その時、電話が鳴った。

パシッチは受話器を取った。


「私だ」

しばらく相手の話を聞いていたが、やがて表情が険しくなった。


「……分かった。引き続き警戒を続けてくれ」

受話器を置いた。

「何かありましたか」

外相が尋ねた。

「国境部隊からだ」


パシッチは答えた。

「オーストリア軍の動きが、さらに活発になっているらしい」

「攻撃の兆候ですか」

「まだ分からん」

首相は椅子から立ち上がった。

「だが、こちらから挑発してはならない」

彼は電話をもう一度手に取った。

「参謀本部につないでくれ」

しばらくして回線が接続された。

「首相だ。国境部隊へ伝えてほしい」


彼は一語一語、確かめるように言った。


「いかなる場合も、こちらから発砲してはならない。相手が国境を越えない限り、軍事行動は控えること」


受話器の向こうから返答があった。

「そうだ。徹底してくれ」

パシッチは電話を切った。


外相が静かに言った。

「首相閣下。戦争を避けるためには、我々が冷静でなければなりません」

「ああ」

パシッチは頷いた。

「それが、今できる唯一のことだ」


しかし、その命令が国境のすべての兵士に正確に伝わるとは限らなかった。


そして、国境の向こう側でも、同じように不安を抱えた兵士たちが武器を手にしていた。




―1924年9月11日 午後10時50分―

オーストリア=ハンガリー帝国 セルビア国境付近 サヴァ川沿岸



国境付近のサヴァ川の水面には、薄い霧が漂っていた。

川の両岸には低い草地と林が広がり、その向こうには小さな農村が点在していた。

昼間には農民たちが畑仕事を行い、川沿いでは漁師たちが舟を出していた。


しかし、今夜は違っていた。


国境付近の村々では、すでに多くの住民が家の中に閉じこもっていた。

窓には厚い布が掛けられ、街灯のない道は暗闇に沈んでいた。


川の北岸。

オーストリア=ハンガリー帝国軍の国境警備部隊が、林の中に展開していた。


小隊長のヨーゼフ・シュタイナー中尉は、双眼鏡を手に対岸を見つめていた。29歳。

ボヘミア出身の彼は、数年前に陸軍士官学校を卒業し、国境警備部隊へ配属されていた。


彼にとって、セルビア国境での勤務は決して珍しいものではなかった。

密輸業者の取り締まり。

不法越境者の捜索。

河川交通の監視。

それが、普段の任務だった。


しかし、ここ数日間で状況は一変していた。

上級司令部からは、セルビア軍の動向を厳重に監視するよう命令が下されていた。


また、敵対的な行動が確認された場合には、直ちに報告するよう指示されていた。


シュタイナーは双眼鏡を下ろした。

「何か見えるか」

隣にいた下士官が尋ねた。

「いや」

彼は答えた。

「霧が濃い」

下士官は対岸を見た。

「セルビア軍も警戒を強めているようです」

「ああ」

「戦争になるのでしょうか」

シュタイナーは少し考えた。

「分からん」

彼は静かに答えた。

「だが、我々の仕事は国境を守ることだ」

「はい」

「命令がない限り、こちらから発砲してはならない」

「承知しています」


シュタイナーは再び双眼鏡を構えた。

対岸には、わずかな灯りが見えた。

セルビア側の監視所だろう。

その灯りは、霧の中でぼんやりと揺れていた。


彼は、そこにも自分と同じような若い将校がいるのだろうと考えた。

命令を待ち、国境を監視し、戦争にならないことを願っている将校が。


しかし、彼らが互いの考えを知ることはなかった。

 



―同日 午後11時12分―

セルビア王国 サヴァ川南岸 国境警備陣地


対岸のサヴァ川南岸では、セルビア王国軍の警備部隊が夜間哨戒を続けていた。


小隊長ミラン・ペトロヴィッチ中尉は、部下たちとともに川沿いの道を歩いていた。30歳。


ベオグラード近郊の農村出身である。

彼もまた数年前に陸軍士官学校を卒業し、国境警備部隊へ配属されていた。

今夜の任務は、川沿いの監視所を巡回し、部隊の警戒状況を確認することだった。


ペトロヴィッチは懐中時計を取り出した。

午後11時12分。

すでに夜は深かった。


「中尉殿」

部下の一人が声を掛けた。

「何だ」

「北岸に動きがあります」

ペトロヴィッチは足を止めた。


双眼鏡を構える。

霧の向こうに、かすかな人影が見えた。

オーストリア軍の哨戒部隊だろう。


「何人いる?」

「確認できるのは三、四名ほどです」

「こちらを監視しているだけだろう」

ペトロヴィッチは答えた。


「刺激するな」

「はい」


彼は部下たちに手で合図し、川沿いの道を進ませた。


その時、遠くで犬の鳴き声が聞こえた。

続いて、草むらの中で何かが動いた。


兵士の一人が反射的に銃を構えた。

「待て」


ペトロヴィッチが小声で制止した。

「撃つな」


しかし、その瞬間、川の向こうから鋭い声が響いた。


ドイツ語だった。


何を叫んでいるのか、霧と距離のためにはっきり聞き取れなかった。

セルビア兵たちは足を止めた。


「中尉殿、どうしますか」

「動くな」


ペトロヴィッチは答えた。

彼は北岸へ向かって声を張り上げた。


「こちらはセルビア王国軍だ! 国境を越える意思はない!」


しかし、返答はなかった。

霧の中で、再び人影が動いた。


その直後だった。


乾いた銃声が、夜の川面に響いた。


パンッ。


誰が最初に撃ったのか。


その場にいた誰にも、はっきりとは分からなかった。



銃声は一発だけだった。

しかし、その一発が、すべてを変えた。




―1924年9月11日 午後11時14分―

オーストリア=ハンガリー帝国 サヴァ川北岸 国境警備陣地



「発砲だ!」

下士官の叫び声が響いた。


シュタイナー中尉は反射的に身を伏せた。

霧の向こうから、銃声が聞こえたのだ。


「どこからだ!」

「対岸です!」


兵士たちが一斉に銃を構えた。

シュタイナーは双眼鏡を手に取った。

しかし、霧が濃く、対岸の様子はほとんど見えなかった。


「撃つな!」

彼は叫んだ。


「命令があるまで発砲するな!」

その時、再び銃声が響いた。


今度は数発だった。

近くの木の幹に何かが当たり、乾いた音がした。


「敵の射撃です!」

下士官が叫んだ。

兵士たちの間に動揺が広がった。

シュタイナーは状況を確認しようとした。


しかし、暗闇と霧の中では、どちらが先に撃ったのか判断できなかった。


その時、部下の一人が突然倒れた。


「負傷者!」

衛生兵が駆け寄った。


シュタイナーは歯を食いしばった。

「応射を許可する!」


命令が下された。


数名の兵士が対岸へ向けて発砲した。


銃声が夜の川面に響き渡った。


それに応じるように、対岸からも銃声が返ってきた。


シュタイナーは声を張り上げた。

「射撃を止めろ! 必要以上に撃つな!」


しかし、すでに混乱が広がっていた。


霧の中では敵の姿が見えず、兵士たちは銃声の方向へ向かって発砲していた。


数分後、ようやく銃声が途絶えた。


川面には、再び静寂が戻った。

シュタイナーは立ち上がった。


「負傷者は?」

「二名です!」

「死者は?」

「現在確認中です!」


彼は深く息を吐いた。


わずか数分間の銃撃戦。

しかし、その結果は重大だった。


「司令部へ報告しろ」

シュタイナーは命じた。


「セルビア側との間で銃撃戦が発生。負傷者あり。現在は交戦停止」

「承知しました!」


伝令兵が走り去った。

シュタイナーは対岸を見つめた。


霧の向こうには、何も見えなかった。

彼は小さく呟いた。


「……何ということだ」


それは、戦争を望まなかった一人の若者の言葉だった。




―1924年9月11日 午後11時35分―

セルビア王国 ベオグラード 王国参謀本部



参謀本部の電話室に、国境部隊からの緊急連絡が入った。

当直将校は受話器を取り、報告を聞いた。


「銃撃戦だと?」

彼の表情が変わった。

「場所は?」


電話の向こうから、サヴァ川沿岸の国境地点が伝えられた。


「負傷者は?」

当直将校は急いで記録を取った。

数名の負傷者。

交戦はすでに停止。

原因は不明。


彼は受話器を置くと、すぐに上官へ報告した。

数分後、参謀本部内に緊張が走った。


「オーストリア軍が発砲したのか?」

「現地部隊の報告では、その可能性が高いとのことです」

「確実なのか?」

「確認中です」

高級将校は眉をひそめた。

「首相官邸へ連絡しろ」

「はっ」

当直将校は電話を手に取った。


その頃、別の回線では国境部隊から追加報告が届いていた。

しかし、報告内容には食い違いがあった。


ある部隊は、オーストリア側が先に発砲したと報告していた。

別の部隊は、銃声の方向を確認できなかったと述べていた。

混乱した現場から送られる情報は、必ずしも正確ではなかった。


だが、その情報が首都へ届くまでに、内容は少しずつ変化していった。


『国境付近で銃撃戦が発生』


それはやがて、

『オーストリア軍がセルビア国境部隊を攻撃』


という報告へ変わり始めていた。


誰かが意図的に虚偽の報告を作成したわけではなかった。

ただ、誰もが最悪の事態を想定していた。

そして、その想定が報告書の言葉を変えていった。



―1924年9月11日 午後11時50分―

オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン 陸軍参謀本部



ウィーンの陸軍参謀本部では、夜間勤務の将校たちが各地からの報告を整理していた。


その時、国境警備部隊からの緊急電報が届いた。

当直将校は文書を受け取ると、急いで読み進めた。


『サヴァ川沿岸においてセルビア側部隊との銃撃戦発生。帝国軍負傷者あり。現在交戦停止』


彼は顔を上げた。


「すぐに参謀本部長へ報告しろ!」

数分後、報告はラウエンシュタイン中将のもとへ届けられた。


中将は文書を読み、険しい表情を浮かべた。


「……ついに始まったか」

彼は机の上に電報を置いた。


「現地の状況は?」

「詳細は確認中です」

「敵の規模は?」

「不明です」

「こちらの損害は?」

「負傷者二名との報告です」

ラウエンシュタインは黙って考えた。


そして、低い声で命じた。

「国境部隊の警戒をさらに強化せよ」

「はっ」

「ただし、こちらから国境を越えてはならない」

「承知しました」


将校が退室すると、中将は窓の外を見た。

夜のウィーンは静かだった。

しかし、彼の胸中ではすでに戦争の可能性が現実のものとなっていた。


セルビアは最後通牒の一部を拒否した。

そして、国境で銃撃戦が発生した。


この二つの出来事を結びつければ、軍事行動を正当化する理由になる。


だが、それが本当にセルビア政府の意思によるものなのか。

その点については、まだ何も分かっていなかった。


ラウエンシュタインは机の上の電話を手に取った。

「外務省につないでくれ」

受話器の向こうから返答があった。

「ラウエンシュタインだ。緊急の報告がある」

彼は静かに続けた。


「国境で、セルビア軍との交戦が発生した」




―1924年9月12日 午前0時20分―

オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン 帝国外務省


日付が変わっていた。

帝国外務省の会議室には、再び政府高官たちが集まっていた。

ホーエンフェルトは、国境での銃撃事件に関する報告書を読んでいた。


その内容は、まだ不完全だった。

交戦が発生したこと。

帝国軍に負傷者が出たこと。

そして、双方の部隊が現在は交戦を停止していること。

確実に分かっているのは、それだけだった。


しかし、会議室ではすでに軍事行動を求める声が強まっていた。


「これ以上、何を待つ必要があるのです!」

ラウエンシュタイン中将が声を上げた。

「セルビアは我々の要求を完全には受け入れず、今度は国境で帝国軍を攻撃した!」

「中将」

ホーエンフェルトが口を開いた。

「どちらが先に発砲したのか、まだ確認されていません」

「帝国軍に負傷者が出ている!」

「それは事実です。しかし、発砲の経緯は不明です」

「君は、まだセルビアを擁護するつもりか!」

「擁護ではありません!」

ホーエンフェルトの声が、思わず大きくなった。

会議室が静まり返った。


彼は一度深く息を吸った。

「……失礼いたしました」

そして、静かに続けた。

「私は、帝国が誤った判断を下すことを恐れているのです」

ラウエンシュタインは彼を睨んだ。

「誤った判断とは何だ」

「十分な証拠がないまま、戦争を始めることです」

その言葉に、数名の高官が顔を伏せた。


ホーエンフェルトは続けた。

「我々は、7日のドーバー海峡での巡洋艦爆沈事件についても、まだ原因を完全には把握していません」


机の上の書類を指した。

「8日の国際列車爆破事件も、高官暗殺事件も、捜査は終わっていない。そして今、国境で銃撃戦が発生した」


彼は会議室を見渡した。


「これらの事件が、すべてセルビア政府の命令によって起きたと断定できる証拠は、どこにあるのですか」


誰も答えなかった。

しばらく沈黙が続いた。


やがて、政府高官が口を開いた。

「ホーエンフェルト君」

「はい」

「君の主張は理解している」

高官は疲れた表情を浮かべていた。

「だが、帝国政府は国民に対して責任を負っている」

「承知しています」

「犠牲者の遺族も、軍部も、国民も、政府の対応を待っている」

彼は続けた。


「何もしないという選択肢は、もはや存在しないのかもしれない」

ホーエンフェルトは唇を噛んだ。


その時、会議室の扉が開いた。

書記官が入室した。

「閣下。ベルリンから緊急電報です」

政府高官が受け取った。

内容を読み進めると、表情がわずかに変わった。

「ドイツ皇帝陛下からだ」

室内の視線が集まった。

「セルビア政府の回答が要求の大部分を受け入れている以上、外交交渉を継続する余地があるとの見解だ」

ホーエンフェルトは顔を上げた。


「では……」

「しかし」

政府高官は続けた。


「同盟国としての支援を撤回するものではない、とも記されている」

ラウエンシュタインが静かに言った。

「つまり、ドイツは我々を見捨てないということだ」


ホーエンフェルトは、同じ文書からまったく異なる結論が導き出されたことに愕然とした。

彼には、それが外交的自制を求める電報に思えた。

しかし、軍部には同盟国からの支持表明に見えていた。

同じ言葉が、異なる意味を持ち始めていた。


―1924年9月12日 午前0時55分―

ドイツ帝国 ベルリン 参謀本部庁舎



ベルリンの参謀本部では、夜を徹した勤務が続いていた。


フリードリヒ大尉は、作戦課の机に向かい、各地から届く報告を整理していた。

その時、同僚の参謀将校が慌ただしく入室した。


「フリードリヒ・ヴァルテンベルク!」

「どうした」

「オーストリアとセルビアの国境で銃撃戦が発生した」


フリードリヒは顔を上げた。


「何だと?」

「サヴァ川沿岸だ。双方に負傷者が出たらしい」

「交戦は続いているのか」

「いや、すでに停止している」

「原因は?」

「不明だ」

同僚は答えた。

「だが、ウィーンでは軍事行動を求める声が強まっているらしい」


2人は地図へ目を向けた。

サヴァ川。

ベオグラード。

オーストリアとセルビアの国境。

そこは、欧州全体から見れば小さな地域にすぎなかった。


しかし、その場所で起きた銃撃戦が、ドイツとロシアを巻き込む可能性があった。


「参謀総長は?」

「すでに報告を受けている」

「ロシアの動向は?」

「南西部軍管区で警戒が強化されている。だが、全面動員はまだ確認されていない」


フリードリヒは深く息を吐いた。


「まだ間に合う」

「何がだ?」

「戦争を止めることだ」

同僚は黙っていた。


フリードリヒは机の上の地図を見つめた。

そこには、鉄道路線と軍事拠点が細かく書き込まれていた。

その線の一つ一つが、戦争になれば兵士と兵器を運ぶための道となる。


彼は、これまで何度もその計画を見直してきた。

だが、実際に使用される日が来るとは、考えたくなかった。


その時、廊下から伝令士官の声が響いた。

「フリードリヒ大尉!」

「何だ」

「参謀総長がお呼びです!」


彼は帽子を手に取った。

そして、急いで部屋を出た。


廊下の時計は、午前1時を示そうとしていた。




―1924年9月12日 午前1時15分―

オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン 帝国外務省会議室 



会議は、すでに数時間に及んでいた。

政府高官たちの顔には疲労が浮かび、机の上には飲みかけの珈琲が並んでいた。


しかし、誰も席を立とうとはしなかった。

今夜の決定が、帝国の運命を左右することを理解していたからである。


ラウエンシュタイン中将が、再び口を開いた。

「諸君」

彼はゆっくりと立ち上がった。

「我々は、すでに十分な時間を費やした」

会議室が静まり返った。


「セルビア政府は帝国の要求を完全には受け入れなかった。そして、国境では帝国軍が攻撃を受けた」

彼は机の上の地図を指した。

「これ以上の譲歩は、帝国の権威を失墜させる」


ホーエンフェルトは顔を上げた。

「中将。国境事件の原因はまだ――」

「原因は重要ではない!」

ラウエンシュタインの声が響いた。

「重要なのは、帝国軍が攻撃されたという事実だ!」


ホーエンフェルトは言葉を失った。

中将は続けた。

「我々は、国民と軍隊に対して責任を負っている。帝国の威信を守るため、断固たる措置を取らなければならない」


会議室には、重苦しい沈黙が流れた。

やがて、政府高官が口を開いた。


「……軍事行動の必要性については、理解した」

ホーエンフェルトの胸が締めつけられた。

「しかし、正式な開戦には皇帝政府の決定が必要だ」


高官は続けた。

「我々は、セルビア政府の回答を不十分と判断し、外交関係の断絶を勧告する」


ラウエンシュタインが頷いた。

「妥当な判断です」

「同時に、国境での事件を重大な敵対行為として扱う」

ホーエンフェルトは立ち上がった。

「閣下!」

政府高官が彼を見た。

「何だ」

「どうか、もう一度だけ考え直してください」

ホーエンフェルトの声は震えていた。

「セルビアは、我々の要求の大部分を受け入れています。英国もドイツも、外交交渉の継続を求めています」

彼は机に両手をついた。

「今ここで戦争を選べば、取り返しのつかないことになります」


誰も答えなかった。


「我々は、10年前に戦争を避けました。いや、避ける事が出来ました。」

ホーエンフェルトは続けた。


「あの時も、欧州は危機に直面していました。しかし、最後には外交によって平和を守ることができたのです」


ラウエンシュタインが静かに言った。

「10年前と今では、状況が違う」

「違いません!」

ホーエンフェルトは思わず声を上げた。

「戦争が始まれば、人が死ぬのです。国境の兵士も、街の市民も、何の罪もない子供たちも!」


会議室が静まり返った。


彼は自分の声が震えていることに気づいた。

しかし、言葉を止めることはできなかった。

「我々は、その責任を負う覚悟があるのですか」


長い沈黙が流れた。


やがて、政府高官が静かに答えた。

「……その責任を負うのが、政府の仕事だ」


ホーエンフェルトは、何も言えなくなった。

彼はゆっくりと椅子に腰を下ろした。


机の上には、セルビア政府の回答文が置かれていた。

その文書は、まだ和平の可能性を示しているように思えた。

しかし、会議室の空気はすでに変わっていた。

外交の言葉よりも、軍事の言葉が重みを持ち始めていた。




―1924年9月12日 午前1時35分―

オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン 皇帝政府



帝国政府の最終協議は、深夜まで続いていた。

皇帝カール1世には、政府と軍部の意見が報告されていた。


若き皇帝は、戦争の危険性を理解していた。

しかし、帝国内部の民族問題と軍部の強硬姿勢、そして相次ぐ事件によって、政府の選択肢は急速に狭められていた。

政府首脳たちは、セルビア政府の回答が不十分であるとの判断を示した。

さらに、サヴァ川沿岸で発生した銃撃事件が、帝国の安全保障に対する重大な脅威として報告された。


皇帝は、最後まで外交的解決の可能性について問いただした。

しかし、政府首脳たちは、もはやセルビア政府を信用することはできないと主張した。

長い協議の末、帝国政府はセルビアとの外交関係を断絶し、軍事行動を開始する方針を決定した。


正式な宣戦布告文書の作成が命じられた。


その決定は、直ちに外務省と陸軍参謀本部へ伝えられた。


午前1時45分。

帝国外務省の電信室では、通信士たちが慌ただしく動き始めた。

ベオグラード公使館への訓令。

ベルリンへの通報。

各国大使館への通知。

そして、各軍への連絡。

数本の電信線を通じて、帝国政府の決定が各地へ伝えられていった。



それは、10年間にわたり維持されてきた欧州の平和が、ついに破られたことを意味していた。



―1924年9月12日 午前2時10分―

セルビア王国 ベオグラード オーストリア=ハンガリー帝国公使館

 


公使館の建物には、まだ明かりが灯っていた。

ヴァルトナー伯爵は、ウィーンから届いた電報を読んでいた。


その内容は、彼が最も恐れていたものだった。


『セルビア政府の回答は帝国の要求を満たすものと認められず。帝国政府は外交関係を断絶し、軍事的措置を開始することを決定した』


ヴァルトナーは、しばらく文書を見つめていた。

そして、静かに机へ置いた。


「……終わったか」

彼は小さく呟いた。


長年にわたり外交官として各国を歴任してきた彼にとって、外交関係の断絶は決して珍しい出来事ではなかった。


しかし、今回は違っていた。

この決定が、単なる二国間の紛争では終わらない可能性を、彼は理解していた。


扉が叩かれた。

「閣下」

書記官が入室した。

「ウィーンからの訓令は?」

ヴァルトナーは文書を差し出した。

書記官は読み進めるうちに、顔色を変えた。


「……これは」

「ああ」

ヴァルトナーは頷いた。

「我々は、ベオグラードを離れることになる」

「いつでしょうか」

「可能な限り速やかにだ」

書記官は黙って頷いた。


ヴァルトナーは窓の外を見た。

ベオグラードの街は、まだ眠っていた。


その街が、数日後には戦場になるかもしれない。

彼は深く息を吐いた。


「セルビア政府へ、正式な通告を行う」

「承知しました」


書記官が退室すると、ヴァルトナーは椅子に腰掛けた。

机の上には、前夜受け取ったセルビア政府の回答文が置かれていた。


彼はその文書を手に取った。


大部分の要求は受け入れられていた。

残された問題についても、交渉の余地はあった。


それでも、戦争は始まろうとしていた。


ヴァルトナーは静かに目を閉じた。

外交官として、これほど無力さを感じたことはなかった。

  



―1924年9月12日 午前3時20分―

ドイツ帝国 ベルリン 参謀本部庁舎


ベルリンの夜は、まだ明けていなかった。

参謀本部では、オーストリアからの緊急電報を受け、再び高級将校たちが集められていた。


フリードリヒ大尉は、会議室の端に立っていた。

参謀総長シュタインベルク大将が、机の上の電報を読み上げた。


「オーストリア=ハンガリー帝国政府は、セルビア王国との外交関係を断絶し、軍事行動を開始する方針を決定した」


室内に沈黙が流れた。


「正式な宣戦布告は、すでに通告されたとのことだ」


フリードリヒは、思わず顔を上げた。


ついに始まった。

10年間にわたり回避されてきた戦争が、現実のものとなった。


情報部長が口を開いた。

「ロシアの動向は?」

「現時点では、全面動員の命令は確認されていません」

参謀将校が答えた。

「しかし、南西部軍管区では警戒態勢が強化されています」

「ロシアが動けば、我々も対応せざるを得ない」


フリードリヒは地図を見た。

ロシア。

フランス。

ベルギー。

英国。

その国名が、彼の頭の中で次々と浮かんだ。


オーストリアとセルビアの戦争が、ドイツとロシアの戦争へ拡大する。

そして、フランスが介入する。

英国が参戦すれば、北海も戦場となる。


それは、参謀本部が長年にわたり想定してきた最悪の事態だった。

しかし、実際にその可能性が現実となった今、フリードリヒは奇妙な恐怖を感じていた。


地図の上では、軍隊は矢印で表される。

だが、その矢印の先には、無数の人間がいる。

兵士。

将校。

民間人。

そして、彼らを待つ家族。


彼は、静かに拳を握った。


「フリードリヒ・ヴァルテンベルク大尉」

参謀総長が声を掛けた。

「はっ」

「東部方面の輸送計画を、直ちに再確認せよ」

「承知しました」

「ただし、正式な動員命令はまだ出ていない。各部隊には、その点を徹底させろ」

「はっ」

フリードリヒは敬礼した。


そして、会議室を後にした。

廊下には、夜明け前の冷たい空気が漂っていた。


彼は窓の外を見た。

ベルリンの街は、まだ静かだった。


しかし、彼には分かっていた。

この静けさが、いつまでも続くことはないだろうと。



―1924年9月12日 午前5時30分―

グレートブリテン及びアイルランド連合王国 ロンドン 外務省



早朝のロンドンの空には、薄い朝霧が漂っていた。

外務省の建物では、夜を徹した勤務が続いていた。


その時、ウィーンから緊急電報が届いた。

当直外交官は文書を受け取り、急いで読み進めた。


そして、顔色を変えた。


「……何ということだ」

彼はすぐに上官へ報告した。


数分後、外務省内に緊張が走った。



『オーストリア=ハンガリー帝国、セルビア王国へ宣戦布告』



その報告は、直ちに首相官邸へ伝えられた。

ダウニング街十番地では、首相マクドナルドが緊急の報告を受けていた。


彼は電報を読み終えると、しばらく黙っていた。


「……間に合わなかったか」

小さく呟いた。

外務担当閣僚が答えた。

「首相。まだ戦争が欧州全体へ拡大したわけではありません」

「分かっている」

マクドナルドは頷いた。

「だが、ここからが本当の危機だ」 


彼は地図を見た。

オーストリア。

セルビア。

ロシア。

ドイツ。

フランス。

そして英国。

それぞれの国が、複雑な同盟関係と利害によって結びついていた。


「ロシアへ連絡を取ってほしい」

マクドナルドは言った。

「軍事動員を急がないよう、改めて要請する」

「承知しました」

「ドイツにもだ」


彼は続けた。

「ドイツ政府に対し、戦争の拡大を防ぐよう求める」


外務担当閣僚が頷いた。

マクドナルドは椅子から立ち上がった。


窓の外では、ロンドンの街が目覚め始めていた。

新聞配達の少年が通りを走り、自動車がゆっくりと進んでいく。

市民たちは、まだ欧州で戦争が始まったことを知らなかった。

しかし、数時間後には新聞の号外が街を埋め尽くすだろう。


マクドナルドは、静かに呟いた。

「どうか、これ以上広がらないでくれ」


それは、一国の首相としての願いであると同時に、一人の人間としての祈りでもあった。




―1924年9月12日 午前6時45分―

ドイツ帝国 ヴィルヘルムスハーフェン 大洋艦隊旗艦「フリードリヒ・デア・グローセ」



朝日が昇り始めていた。

ヴィルヘルムスハーフェン軍港には、巨大な戦艦群が静かに停泊していた。


「フリードリヒ・デア・グローセ」の艦橋では、早朝の当直交代が行われていた。

ヴェーバー大尉は、上甲板で朝の空気を吸い込んでいた。


その時、ブラント大尉が近づいてきた。

「ヴェーバー」

「どうした」

「参謀本部から重大な知らせだ」

ヴェーバーは顔を上げた。

「何だ」

ブラントは一瞬、言葉をためらった。


「オーストリアが、セルビアへ宣戦布告した」


ヴェーバーは黙っていた。

しばらくして、静かに尋ねた。


「……本当か」

「ああ」

ブラントは頷いた。

「正式な報告だ」


ヴェーバーは港内を見渡した。

巨大な戦艦群。

巡洋戦艦。

巡洋艦。

駆逐艦。

補助艦艇。

それらは、数日前から出撃準備を整えていた。

しかし、今朝の光景は、昨日までとは違って見えた。


「我々も戦争になるのだろうか」

ヴェーバーが呟いた。

ブラントは答えなかった。

しばらく沈黙が続いた。


やがて、ブラントが静かに言った。

「分からん」

彼は遠くの海を見た。


「だが、もし英国が参戦すれば、我々はあの海で戦うことになる」

ヴェーバーは頷いた。


北海。


それは、ドイツ海軍と英国海軍が長年にわたり互いを意識してきた海だった。

しかし、実際にそこで戦う日が来るとは、誰も望んでいなかった。


2人は無言で港を眺めていた。

北海の朝日が巨大な戦艦群を照らしている。

その鋼鉄の艦体は、静かに光を放っていた。


まるで、これから訪れる嵐を待っているかのように。



―1924年9月12日 午前7時30分―

グレートブリテン及びアイルランド連合王国 ポーツマス海軍基地 巡洋戦艦「フッド」



ポーツマス軍港には、朝の光が差し込んでいた。


停泊中の艦艇の甲板では、朝の点検作業が始まっていた。

巡洋戦艦「フッド」の士官室では、ハミルトン大尉が新聞を読んでいた。

新聞には欧州情勢の記事が並んでいた。

その時、ベネットが慌ただしく入室した。


「ハミルトン!」

「どうした」

「戦争が始まった」


ハミルトンは顔を上げた。

「何だと?」

「オーストリアがセルビアへ宣戦布告した」


ハミルトンは、しばらく言葉を失った。

そして、ゆっくりと新聞を机に置いた。


「……そうか」

ベネットは椅子に腰掛けた。

「ついに始まってしまったな」

「ああ」


ハミルトンは窓の外を見た。

港内には、英国海軍の軍艦群が停泊していた。


隣には「アンソン」が静かに浮かんでいた。


数日前まで、彼はこの光景を見て安心していた。

これほど強大な艦隊があれば、英国が敗れることなどない。

そう考えていた。


しかし、今は違っていた。


戦争が始まれば、どれほど強大な艦隊であっても、無傷ではいられない。


「英国はどうするのだろうな」

ベネットが尋ねた。

「分からない」

ハミルトンは答えた。

「今のところ、我々は戦争をしているわけではない」

「だが、ドイツが参戦すれば……」

「ああ」

ハミルトンは頷いた。

「その時は、我々も無関係ではいられないだろう」


二人は黙っていた。


士官室の時計が、午前7時35分を示していた。


遠くで艦内放送が響いた。

『各科長は直ちに艦長室に集合せよ』

ハミルトンは立ち上がった。

「行こう」

ベネットも席を立った。

二人は士官室を後にした。


その背後では、朝日が港内の軍艦群を照らしていた。


英国海軍は、まだ戦争に参加していなかった。

しかし、その日が遠くないことを、誰もが感じ始めていた。




―1924年9月12日 午後5時15分―

大日本帝国 神奈川県 横須賀軍港 戦艦「長門」艦上



 横須賀の空は、夕暮れの色に染まり始めていた。

 西の空には薄い雲が広がり、傾き始めた太陽が東京湾の海面を黄金色に照らしていた。

 軍港には大小の艦艇が整然と停泊し、海軍工廠の煙突からは白い煙が立ち上っていた。

 遠くには、巡洋戦艦「天城」の巨大な船体が見えた。

10日前に進水したばかりで、岸壁で擬装工事が続いていた。


砲術士官の篠原直樹大尉も、主砲塔の点検を終えたところだった。

 彼は手にしていた点検表を閉じると、砲塔の内部から上甲板へ出た。


 秋の気配を感じさせる風が、頬を撫でた。

 篠原は軍帽を被り直し、港内を見渡した。

 数週間前、8月12日の夜。

 彼は同じ場所で、遠くの水平線を見つめながら欧州情勢について考えていた。


 あの時も欧州は緊張状態にあった。

 しかし、戦争になるとは思っていなかった。

 10年前にも欧州は戦争の危機を回避していた。

 今回も外交によって解決されるはずだった。

 そう信じていた。


 だが、ここ数日間の新聞は、不穏な記事で埋め尽くされていた。


 ドーバー海峡での巡洋艦爆沈事件。

 ベオグラードでの国際列車爆破事件。

 そして、ウィーンでの暗殺事件。

 遠い欧州で起きた出来事とはいえ、帝国海軍の士官である篠原にとって、決して無関係な問題ではなかった。


その時、背後から声がした。

「篠原大尉」

振り返ると、若い通信科の下士官が立っていた。

「何だ」

「艦長より、士官集合の命令です」

「集合?」

「はい。艦長公室へ直ちに出頭するようにとのことです」

篠原は眉をひそめた。

「何かあったのか」

通信科士官は一瞬、言葉をためらった。

「海軍省より、欧州情勢に関する緊急電報が届いたそうです」

「緊急電報……」

「詳しい内容は、艦長から直接説明されるとのことです」

篠原は姿勢を正した。

「分かった。すぐに向かう」

下士官は敬礼し、立ち去っていった。

篠原はもう一度、夕日に照らされた横須賀の海を見た。


何かが起こった。

それも、決して小さな出来事ではない。

胸の奥に、奇妙な不安が広がっていくのを感じた。


彼は軍帽を深く被り直すと、艦長公室へ向かった。




―1924年9月12日(大正十三年) 午後5時30分―

大日本帝国 横須賀軍港沖 戦艦「長門」艦長公室



戦艦「長門」の艦長公室には、すでに十数名の士官が集まっていた。

篠原直樹大尉もその一人であった。

士官たちが小声で言葉を交わしていると、公室の扉が開いた。


「艦長、入室されます!」

当直士官の声が響いた。

室内の士官たちが一斉に姿勢を正した。


入室してきたのは、戦艦「長門」艦長、有馬忠久海軍大佐であった。


有馬は手にした電報を執務机の上に置くと、集まった士官たちを静かに見渡した。


「諸君。本日、海軍省より欧州情勢に関する重大な報告が届いた」


有馬の落ち着いた声が、艦長公室に響いた。

士官たちの表情が引き締まる。

有馬は電報を手に取った。


「オーストリア=ハンガリー帝国政府は、セルビア王国に対し宣戦を布告した」


その瞬間、公室は静まり返った。

篠原は思わず顔を上げた。


有馬は一呼吸置いてから続けた。

「現時点では両国間の戦争にとどまっている。しかし、ロシア帝国とドイツ帝国の動向によっては、戦火が欧州全土へ広がる可能性がある」


一人の士官が質問した。

「艦長、英国政府の対応はいかがでしょうか」

「英国は現在のところ参戦していない。外交による事態の収拾を図っているとのことだ」


有馬は電報を机に戻した。

「我が国は英国と同盟関係にある。万一、英国が参戦した場合には、帝国海軍にも何らかの任務が与えられる可能性がある」

篠原は黙ってその言葉を聞いていた。

「ただし、現時点で本艦に出撃命令は下されていない」


有馬は士官たちを見渡した。

「各員は引き続き通常の任務を遂行せよ。各科長は装備と人員の状態を再確認し、不測の命令にも対応できるよう準備しておくこと」

「はっ!」

士官たちの返答が揃った。


有馬は最後に、少し声を落として言った。

「諸君。欧州で何が起ころうとも、我々は帝国海軍の軍人である。軽挙妄動を慎み、各自の職責を果たしてもらいたい」

そして、静かに命じた。

「以上。解散」


士官たちは一斉に敬礼した。

篠原も有馬に向かって敬礼すると、艦長公室を後にした。


篠原はただ、艦長の言葉を繰り返し思い出していた。


『我が国は英国と同盟関係にある』


遠い欧州の戦争。

それが、日本にとって無関係ではなくなる日が来るのかもしれない。


静かに上甲板へ向かった。




―1924年(大正十三年)9月12日 午後6時5分―

大日本帝国 横須賀軍港沖 戦艦「長門」後部甲板

 

 夕日は、すでに西の山々へ沈みかけていた

 東京湾の海面には赤い光が細長く伸び、停泊中の軍艦の艦影が黒々と浮かび上がっていた。

 遠くでは、商船がゆっくりと港口へ向かっていた。 


 篠原は甲板へ出ると、手すりの前で足を止めた。


秋の夕風が、軍服の襟元を揺らした。

彼は遠くの水平線を見つめた。


8月12日の夜。

彼は同じ場所で、欧州情勢について考えていた。 あの時、欧州は緊張状態にあった。

しかし、戦争になるとは思っていなかった。

10年前にも、欧州は大きな危機を迎えた。

それでも、各国政府は最後の瞬間に妥協を選び、戦争を避けた。


今回も、そうなるはずだった。

だが、現実は違っていた。


戦争が始まった。

まだ、オーストリアとセルビアの二国間だけの戦争だった。

しかし、それがいつまで二国間の紛争であり続けるのか、誰にも分からなかった。


篠原は、遠くの海を見た。

浦賀水道、その向こうには太平洋が広がっている。

さらにその先には、欧州の海がある。

北海。

地中海。

大西洋。


そこには、英国やドイツをはじめとする列強の軍艦が展開していた。

もし戦争が拡大すれば、それらの軍艦が実際に砲火を交えることになるのだろうか。


そして、日本もまた、その戦争に関わることになるのだろうか。


篠原は静かに息を吐いた。

今の彼には、その答えを知る術はなかった。 


その時、遠くから汽笛が聞こえた。

港を出る商船の汽笛だった。 

篠原は、その音を静かに聞いていた。 


横須賀の海は、今日も穏やかだった。

しかし、その穏やかさがいつまで続くのか。


彼には分からなかった。


10年前、世界は戦争を回避した。

外交官たちは妥協を重ね、政治家たちは平和を選んだ。

人々は、その決断を祝福した。

そして、戦争のない未来を信じた。


だが、10年後。

欧州は再び同じ危機に直面し、今度は戦争を避けることができなかった。


それは、誰か一人の決断によって始まった戦争ではなかった。


事故。

暗殺。

誤解。

恐怖。

そして、国家の威信。

それらが複雑に絡み合い、戦争を生み出していた。


篠原は軍帽を深く被り直した。

そして、再び水平線を見つめた。


彼はまだ知らなかった。


この戦争が、やがて欧州全土を巻き込み、世界の海を戦場へ変えていくことを。

そして、自らもまた、帝国海軍の一員として遠い欧州の海へ赴くことになることを。


 


大正十三年九月十二日。

10年間にわたり保たれてきた欧州の平和は、ついに破られた。


この戦争は、やがて欧州から全世界を巻き込んで行く。  



この戦争は後の時代ではこう呼ばれている。


- 第一次世界大戦 -




序章 -完-

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