序章 第十一節「開戦前夜」前編
欧州を覆う暗雲は、もはや誰の目にも明らかであった。
9月7日、ドーバー海峡におけるオーストリア=ハンガリー帝国海軍巡洋艦「ザンクト・ゲオルク」の爆沈。
翌8日、ベオグラード近郊で発生した国際列車爆破事件。そして同日、ウィーンで起きた高官暗殺事件。
わずか2日間に発生した三つの事件は、10年にわたり辛うじて保たれてきた欧州の平和を、根底から揺るがしていた。
しかし、この時点で事件の全貌を把握していた政府は存在しなかった。
事故は謀略と疑われ、偶発的な暴力は国家の陰謀と結びつけられた。未確認の情報は幾度も書き写されるうちに確かな事実であるかのように扱われ、各国の軍人たちは最悪の事態を想定して動き始めていた。
それでも、戦争が不可避になったわけではなかった。
ロンドンでは外交官たちが仲裁の可能性を探り、ベルリンでは皇帝と政府首脳が同盟国への支援を協議していた。ウィーンでは、最後通牒を巡って政府と軍部の意見が激しく対立していた。
誰もが平和を口にしていた。
だが、その平和を守るために何を犠牲にするべきなのか。
その問いに、欧州の指導者たちは異なる答えを出そうとしていた。
―1924年9月10日 午後7時15分―
オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン 帝国外務省
ウィーンの街に、秋の夕闇が降り始めていた。
リングシュトラーセを走る路面電車の窓からは柔らかな電灯の光が漏れ、沿道のカフェには仕事帰りの市民たちが集まっていた。
石畳の上を馬車がゆっくりと進み、その脇を黒塗りの自動車が追い越していく。
街の中心に位置する国立歌劇場では、今夜も公演が予定されていた。正面玄関には礼装の紳士や華やかな衣装の婦人たちが集まり、係員が来場者を出迎えている。
表面上、帝都の日常は何も変わっていなかった。
しかし、街角の新聞売りが掲げる号外には、不穏な見出しが並んでいた。
『帝国政府、セルビアに厳重抗議』
『国際列車爆破事件、犠牲者さらに増加』
『高官暗殺事件、捜査続く』
市民たちは足を止め、新聞を買い求めていた。
ある者はセルビアへの報復を叫び、ある者は戦争になるはずがないと笑った。
10年前の危機を記憶する年配の男たちは、互いに顔を見合わせながら、何も言わず新聞を折り畳んだ。
その頃、帝国外務省の建物では、夜になっても多くの窓に明かりが灯っていた。
高い天井と厚い石壁に囲まれた廊下を、書類を抱えた職員たちが慌ただしく行き交う。
壁に掛けられた皇帝の肖像画の下を、軍服姿の将校が足早に通り過ぎていった。
外務省政治局に所属するアレクサンダー・フォン・ホーエンフェルトは、自室の机に向かっていた。30歳
机の上には、ベオグラードから届けられた報告書が幾重にも積み重なっていた。
そのうちの一枚を手に取り、ホーエンフェルトは眉をひそめた。
『国際列車爆破事件について、セルビア国内の民族主義組織が関与した可能性あり。ただし、政府機関との直接的関係を示す証拠は現在確認されず』
別の報告書には、まったく異なる記述があった。
『本事件はセルビア政府内の一部勢力による計画的破壊工作である可能性が高い』
彼は二枚の書類を机の上に並べた。
「……可能性、か」
小さく呟いた。
事件が発生してから、まだ2日しか経過していない。
列車の残骸は完全には撤去されておらず、一部の犠牲者は身元確認も終わっていなかった。
それにもかかわらず、軍部の一部ではすでにセルビア政府の関与を既成事実として扱っていた。
扉が叩かれた。
「入れ」
若い書記官が入室した。
「ホーエンフェルト殿。会議の準備が整いました」
「出席者は?」
「外務省幹部のほか、陸軍参謀本部よりラウエンシュタイン中将が出席されます」
その名を聞き、ホーエンフェルトは小さく息を吐いた。
ヴィクトル・フォン・ラウエンシュタイン中将。
58歳。帝国陸軍参謀本部作戦部長。
セルビアへの強硬措置を主張する軍人の一人であった。
「分かった。すぐに向かう」
書記官が退室すると、ホーエンフェルトは机の上の書類を揃えた。
最後に手に取ったのは、高官暗殺事件に関する報告書だった。
そこには暗殺犯の供述が記されていた。
犯人は民族主義的な思想を抱いていたものの、セルビア政府から直接命令を受けたことを示す証拠は見つかっていない。
だが、それを会議の席で説明したところで、どれほどの意味があるのだろうか。
ホーエンフェルトは書類を革製の鞄に収め、部を出た。
廊下の窓から見えるウィーンの街は、まだ平和そのものだった。
彼はその光景を一度だけ振り返った。
そして、会議室へ向かった。
―同日 午後7時40分―
オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン 帝国外務省 会議室
会議室には、すでに十数名の政府高官と軍人が集まっていた。
中央には長大な楕円形の会議机が置かれ、その上にはバルカン半島の地図、外交文書、各国大使館からの電報が広げられていた。
天井から吊るされたシャンデリアの光が、磨き上げられた木製の机を照らしている。
部屋の奥には、帝国の双頭の鷲を描いた紋章が掲げられていた。
ホーエンフェルトが着席して間もなく、ラウエンシュタイン中将が入室した。
濃灰色の軍服には幾つもの勲章が並び、整えられた口髭の下には険しい表情が浮かんでいた。
中将は挨拶もそこそこに席へ着き、目の前の地図を広げた。
「諸君」
会議を主宰する政府高官が口を開いた。
「本日の協議事項は、セルビア王国に対する帝国政府の対応についてである」
室内が静まり返った。
「我々は、この数日間に三つの重大事件を経験した。ドーバー海峡における巡洋艦の喪失、国際列車の爆破、そしてサラエヴォにおける帝国高官の暗殺である」
高官は一呼吸置いた。
「これらの事件が互いに関連しているか否かについては、なお調査を要する。しかし、帝国臣民の間では政府に断固たる対応を求める声が高まっている」
「調査を要する、ですと?」
ラウエンシュタインが低い声で割り込んだ。
「いつまで調査を続けるおつもりか」
彼は机の上の報告書を指で叩いた。
「我々の外交官が殺され、軍の関係者が命を落とし、帝国の権威が公然と侮辱されている。これ以上、何を待つ必要があるのです」
「中将、事件の犯人とセルビア政府の関係は、まだ確定しておりません」
ホーエンフェルトが答えた。
ラウエンシュタインの視線が彼に向いた。
「君は、セルビア政府に責任がないと考えているのか」
「責任の有無を判断するための証拠が不十分だと申し上げています」
「同じことではないか」
「違います」
ホーエンフェルトは静かに言った。
「帝国がセルビアへ軍事行動を起こすのであれば、その理由は国際社会に対して説明できるものでなければなりません」
中将の眉が動いた。
「我々が説明すべき相手は、まず殺された帝国臣民の遺族ではないのかね」
会議室に重苦しい沈黙が流れた。
ホーエンフェルトは言葉を選んだ。
「犠牲者のためにも、真相を明らかにする必要があります。誤った相手を罰することは、正義ではありません」
「理想論だな」
ラウエンシュタインは冷たく答えた。
「十年前、我々は戦争を避けた。外交によって危機を収め、欧州の平和を守ったつもりになっていた」
彼は机上の地図を見下ろした。
「その結果がこれだ。民族主義者たちは勢力を拡大し、帝国の威信は傷つけられ続けている」
「では、10年前に戦争を避けたことが、誤りだったと?」
「少なくとも、問題を解決したわけではなかった」
中将の声には、確信があった。
「今度こそ、根本から解決すべきだ」
会議の空気が変わった。
ホーエンフェルトは、軍部がすでに外交交渉の結果よりも、その後の軍事行動を重視していることを悟った。
やがて議論は、セルビアに提出する最後通牒の内容へ移った。
要求案には、反帝国的な民族主義団体の取り締まり、事件関係者の逮捕、帝国政府への公式謝罪などが並んでいた。
そして最後の項目には、セルビア国内における帝国側調査官の活動を認めることが記されていた。
「これは受け入れられません」
ホーエンフェルトが言った。
「なぜだ」
「外国の官憲がセルビア国内で独自に捜査を行うことは、同国の主権に直接関わります」
「犯人を引き渡さないのであれば、我々が捜査するしかあるまい」
「共同調査団という形式ならば、交渉の余地があります」
「そのような曖昧な方法では意味がない」
ラウエンシュタインは首を振った。
「我々が必要としているのは、セルビアが帝国の要求に従うという明確な保証だ」
ホーエンフェルトは、机上の通牒案を見つめた。
そこには、外交交渉を成立させるための条件というよりも、相手国が拒否することを想定した要求が並んでいた。
「回答期限は?」
彼が尋ねると、政府高官が答えた。
「明日、9月11日午後10時とする案が出ている」
「短すぎます」
「事態は一刻を争う」
「少なくとも48時間は必要です。セルビア政府が各項目を検討する時間を与えるべきです」
ラウエンシュタインが腕を組んだ。
「時間を与えれば、その間にロシアが介入する」
「期限を短くすれば、かえってロシアの介入を招きかねません」
二人の視線が交差した。
会議室の時計が、午後8時を告げた。
その音は、奇妙なほど大きく響いた。
議論はなお続いた。
だが、軍部の主張を支持する声は次第に増えていった。
最後通牒の骨子は、ほぼ原案どおりに承認された。
ただし、正式な発出には皇帝政府の最終承認を要することとなり、外交文書の調整が続けられることになった。
会議が一段落すると、ホーエンフェルトは椅子の背に身体を預けた。
窓の外では、遠くの教会の鐘が鳴っていた。
彼には、その音が何かの終わりを告げているように聞こえた。
―1924年9月10日 午後8時30分―
ドイツ帝国 ベルリン 参謀本部庁舎
ベルリンにも夜が訪れていた。
街路を走る自動車の前照灯が石畳を照らし、路面電車が金属音を響かせながら交差点を通過していく。
ウンター・デン・リンデンの街路樹は、秋の訪れを感じさせる風に揺れていた。
帝都の中心に位置する参謀本部庁舎では、夜になっても執務が続けられていた。
廊下には軍靴の音が絶えず響き、電話交換室では交換手たちが休む間もなく回線を接続していた。
作戦課の一室では、フリードリヒ・カール・フォン・ヴァルテンベルク陸軍大尉が、大きな地図を前に立っていた。
8月26日の参謀本部会議以来、彼はバルカン情勢に関する報告書の作成に追われていた。
壁には欧州全域を描いた軍用地図が掲げられていた。
赤い線は鉄道路線を示し、青い印は主要な軍事拠点を表している。
その中でも、ロシア帝国西部の鉄道網には多くの書き込みが加えられていた。
「フリードリヒ大尉」
背後から声がした。
振り返ると、同僚の参謀将校が書類を持って立っていた。
「東部方面の最新報告だ」
「ありがとう」
フリードリヒは書類を受け取った。
ロシア西部の軍管区では、部隊の休暇取り消しや鉄道輸送の準備が確認されていた。
しかし、全面動員を示す正式な命令は確認されていない。
「ロシア軍は動くと思うか」
同僚が尋ねた。
「セルビアが攻撃されれば、動かざるを得ないだろう」
「それなら、我々も準備を進める必要がある」
「準備と動員は違う」
フリードリヒは書類を机に置いた。
「我々が動員を始めれば、ロシアもそれを脅威と受け取る。ロシアが動けば、今度は我々がさらに動かざるを得なくなる」
「それが軍の仕事ではないか」
「そうだ」
彼は静かに答えた。
「だが、軍の仕事が外交を不可能にすることもある」
同僚は苦笑した。
「君は外交官に向いているのかもしれんな」
「そうかもしれない」
フリードリヒもわずかに笑った。
しかし、その表情はすぐに消えた。
彼の目は地図の西側へ向けられていた。
ロシア。
フランス。
ベルギー。
そして、その向こうに広がる英国。
ドイツ帝国がロシアとの戦争に突入すれば、フランスがどのように行動するかは明らかだった。
さらに英国が介入すれば、ドイツは陸上と海上の双方で強大な敵を相手にしなければならない。
それは8月の会議でも繰り返し指摘されていた問題だった。
その時、扉が開いた。
「フリードリヒ大尉。参謀総長がお呼びだ」
伝令将校が告げた。
フリードリヒは帽子を手に取った。
「すぐに参ります」
彼は地図をもう一度見た。
そこに描かれた国境線は、昨日までと何一つ変わっていなかった。
だが、その線を越えて軍隊が進む日が、すぐそこまで迫っているように感じられた。
―同日 午後8時45分―
ドイツ帝国 ベルリン 参謀本部総長執務室
参謀総長カール・フォン・シュタインベルク大将の執務室には、数名の高級将校が集まっていた。
室内には濃い煙草の匂いが漂っていた。
大きな執務机の背後には皇帝ヴィルヘルム二世の肖像画が掲げられ、その下には軍用地図が立て掛けられていた。
情報部長オットー・フォン・ライヒェナウ少将が、報告書を読み上げていた。
「ウィーンからの情報によれば、オーストリア政府はセルビアへの最後通牒を最終調整中です」
「内容は?」
シュタインベルクが尋ねた。
「民族主義団体の取り締まり、事件関係者の引き渡し、帝国側調査官による捜査協力などが含まれる模様です」
「セルビアは受け入れると思うか」
「一部は受け入れるでしょう。しかし、すべてを承認する可能性は低いと考えます」
シュタインベルクは黙って頷いた。
「つまり、戦争になる可能性が高いということだな」
「はい」
室内に沈黙が流れた。
フリードリヒは部屋の端に立ち、会議の内容を記録していた。
参謀総長は机の上の地図を指した。
「問題はセルビアではない」
その指が北東へ移動した。
「ロシアだ」
ライヒェナウ少将が頷いた。
「ロシア政府はセルビアへの支援を表明しています。ただし、現段階では全面動員の命令は確認されていません」
「だが、準備は進めている」
「その可能性は高いでしょう」
シュタインベルクは椅子から立ち上がった。
「ロシアが動員を始めれば、我々は対応せざるを得ない」
「閣下」
フリードリヒが口を開いた。
参謀総長が彼を見た。
「何だ、大尉」
「ロシア側の軍事準備が、必ずしも攻撃を意図したものとは限りません」
「説明してみろ」
「ロシアはセルビアを支援する立場にあります。オーストリアの軍事行動を抑止するため、示威的な準備を進めている可能性があります」
「つまり、戦争を望んでいないと?」
「少なくとも、現段階では断定できません」
シュタインベルクはしばらく彼を見つめた。
「君の指摘は理解できる」
大将は静かに言った。
「だが、我々は敵の意図ではなく、能力に備えなければならない」
彼はロシア西部の鉄道網を指した。
「ロシアが全面動員を始めてから対応したのでは遅い。戦争になった場合、我々は時間との戦いを強いられる」
フリードリヒは答えなかった。
参謀総長の言葉は、軍事的には正しかった。
だが、その正しさが戦争を避けるための選択肢を狭めているようにも思えた。
「現時点で全面動員を命じるつもりはない」
シュタインベルクは続けた。
「しかし、必要な準備は進める。鉄道輸送計画を再確認し、各軍管区に対して予備的な警戒措置を指示する」
「承知しました」
ライヒェナウ少将が答えた。
「海軍の状況は?」
「大洋艦隊はヴィルヘルムスハーフェンにおいて警戒態勢を維持しています。旗艦『フリードリヒ・デア・グローセ』を中心に、主力艦艇では出撃準備が進められています」
「英国海軍は?」
「北海での演習を中止した部隊が、昨日から本日にかけて各基地へ帰投しています。巡洋戦艦『フッド』を含む艦隊は、本日午前七時にポーツマスへ入港したとの報告があります」
ヴァルテンベルクは顔を上げた。
英国艦隊の演習中止。
ドーバー海峡での巡洋艦爆沈。
そして、ドイツ大洋艦隊の出撃準備。
これらは本来、別々の理由によって生じた出来事だった。
しかし、相手国から見ればどう映るだろうか。
英国はドイツ艦隊の動きを脅威と受け取るかもしれない。
ドイツは英国艦隊の警戒を包囲の準備と判断するかもしれない。
互いが防御のために行動しながら、その行動が相手の不安を増大させる。
彼はその危険性を理解していた。
「大尉」
参謀総長の声で、思考が途切れた。
「君には東部方面の輸送計画の再確認を命じる」
「はっ」
「ただし、正式な動員命令ではない。各部隊には、その点を徹底させろ」
「承知しました」
フリードリヒは敬礼した。
会議が終わり、将校たちが退室していく。
最後に残った彼へ、シュタインベルクが声を掛けた。
「大尉」
「はっ」
「君は戦争になると思うか」
予想外の質問だった。
ヴァルテンベルクは少し考えた。
「分かりません」
彼は正直に答えた。
「ですが、戦争になると考えて行動する者が増えれば、いずれ本当に戦争になると思います」
参謀総長は何も言わなかった。
しばらくして、低い声で答えた。
「……そうならぬことを願う」
ヴァルテンベルクは再び敬礼し、部屋を出た。
廊下には、まだ多くの将校たちが行き交っていた。
壁の時計は午後9時を過ぎていた。
彼らの仕事が終わる気配はなかった。
―同日 午後9時20分―
ドイツ帝国 ヴィルヘルムスハーフェン 大洋艦隊旗艦「フリードリヒ・デア・グローセ」
北海から吹き込む冷たい風が、軍港の水面を波立たせていた。
ヴィルヘルムスハーフェンの港内には、巨大な戦艦群が黒々とした艦影を連ねていた。
港の照明に照らされ、灰色の装甲板が鈍い光を放っている。
旗艦「フリードリヒ・デア・グローセ」の艦橋には、まだ明かりが灯っていた。
その周囲にはバイエルン級やケーニヒ級の戦艦、さらにデアフリンガー級の巡洋戦艦などが停泊していた。
岸壁では補給作業が続いていた。
石炭を積んだ貨車が次々と運び込まれ、起重機が物資を艦内へ移していく。
弾薬庫では砲弾の点検が行われ、機関科の兵員たちは蒸気系統の状態を確認していた。
前日の朝、大洋艦隊の乗組員たちが耳にした一連の事件は、まだ断片的な噂にすぎなかった。
しかし、その後に届いた正式な命令によって、艦内の空気は一変していた。
砲術士官フリードリヒ・フォン・ヴェーバー海軍大尉は、主砲塔の点検を終え、上甲板へ出てきた。
夜風が頬を打った。
彼は軍帽を押さえながら、岸壁の様子を眺めた。
「まだ作業が続いているのか」
背後から声がした。
振り返ると、カール・ブラント海軍大尉が立っていた。
「ああ。今夜中に補給を終えるそうだ」
ヴェーバーは答えた。
「随分と急いでいるな」
「命令だからな」
ブラントは港内を見渡した。
「しかし、これだけの艦隊を動かすとなれば、ただ事ではない」
「まだ出撃命令が下ったわけではない」
「分かっている」
ブラントは苦笑した。
「だが、出撃しない艦隊に、ここまで準備をさせる必要があるのか?」
ヴェーバーは答えなかった。
彼も同じ疑問を抱いていた。
旗艦には大洋艦隊司令長官アルブレヒト・フォン・ハルデンベルク海軍大将が座乗していた。
司令部からは各艦に対し、即応態勢を整えるよう命令が出されている。
しかし、具体的な作戦目的は下級士官には知らされていなかった。
「英国艦隊が演習を中止したそうだな」
ブラントが言った。
「ああ」
「ドーバー海峡の事件が原因らしい」
「そう聞いている」
「我々が関与したと思われているのだろうか」
ヴェーバーは眉をひそめた。
「そのような証拠はない」
「証拠がなくとも、疑う者はいる」
ブラントは海面を見つめた。
「英国は我々の艦隊を警戒している。こちらも英国を警戒している。それだけで十分に危険だ」
ヴェーバーは遠くに停泊する巡洋戦艦を眺めた。
巨大な主砲塔。
厚い装甲。
鋼鉄の艦体。
それらは帝国の工業力と海軍力を象徴する存在だった。
しかし、どれほど強大な艦隊であっても、戦争そのものを制御できるわけではない。
「ブラント」
「何だ」
「もし戦争になれば、我々の相手は英国海軍になると思うか」
ブラントはしばらく考えた。
「分からん」
彼は静かに答えた。
「だが、英国が参戦すれば、そうなるだろうな」
ヴェーバーは頷いた。
その時、艦内から伝令の水兵が現れた。
「ヴェーバー大尉、ブラント大尉。艦長より士官室への集合命令です」
「分かった」
二人は甲板を後にした。
背後では、補給用の起重機が低い唸り声を上げていた。
軍港の夜は、まだ終わりそうになかった。
―1924年9月10日 午後9時45分―
英国 ロンドン ダウニング街十番地 首相官邸
ロンドンの夜は、細かな雨に包まれていた。
ガス灯と電灯の光が濡れた舗道に反射し、黒塗りの自動車が水しぶきを上げながら通り過ぎていく。
ダウニング街十番地。
英国首相官邸では、夜遅くまで閣僚たちの協議が続いていた。
首相のマクドナルドは、執務室の机に向かい、ウィーンとベルリンから届けられた外交報告を読んでいた。
机上には紅茶の入ったカップが置かれていたが、すでに冷めていた。
外務省からの報告によれば、オーストリア=ハンガリー政府はセルビアへの最後通牒を準備しているという。
その内容は、英国外交官たちにも完全には知らされていなかった。
「首相」
向かいに座る外務担当閣僚が口を開いた。
「ウィーン政府は、我々の仲裁提案に対して明確な回答を示していません」
「ベルリンは?」
「ドイツ政府は同盟国への支持を表明しています。ただし、現時点では戦争を望んでいるとは断定できません」
マクドナルドは書類を置いた。
「問題は、彼らが戦争を望んでいるかどうかではない」
彼は静かに言った。
「戦争を望まないまま、戦争を始めてしまうことだ」
室内に沈黙が流れた。
海軍大臣が口を開いた。
「海軍本部からの報告では、ドイツ大洋艦隊がヴィルヘルムスハーフェンで出撃準備を進めています」
「出港したのか?」
「いいえ。主力艦隊は現在も港内にあります」
「ならば、こちらも慎重に行動すべきだ」
マクドナルドは答えた。
「英国艦隊の行動が、ドイツ側に誤解を与えることは避けたい」
「しかし、首相」
海軍大臣は姿勢を正した。
「我々が何もしなければ、ドイツ側は英国が介入しないと判断する可能性があります」
「つまり、動いても危険で、動かなくても危険だということか」
「そのとおりです」
マクドナルドは深く息を吐いた。
数日前、ドーバー海峡でオーストリア=ハンガリー海軍の巡洋艦が爆沈した。
英国政府はその報告を受け、北海で実施されていた大規模演習の中止を海軍本部に要求した。
海軍側は当初、演習の継続を主張したものの、最終的には中止が決定された。
その結果、巡洋戦艦「フッド」を中心とする艦隊は、本日午前七時にポーツマスへ帰投していた。
しかし、艦隊が帰港したからといって、危機が去ったわけではない。
むしろ、事態は悪化していた。
「ビーティー提督からは?」
マクドナルドが尋ねた。
「海軍本部は警戒態勢の維持を勧告しています。ただし、現時点で大規模な艦隊展開を行う必要はないとの見解です」
「妥当だろう」
首相は頷いた。
「海軍には警戒を続けさせる。しかし、挑発的な行動は避けるよう徹底してほしい」
「承知しました」
外務担当閣僚が続けた。
「外交面では、ウィーンとベオグラードの双方に自制を求めるべきでしょう」
「それだけでは足りない」
マクドナルドは机上の地図を見た。
「ベルリンとサンクトペテルブルクにも働きかける必要がある」
地図には欧州各国の国境線が描かれていた。
英国から遠く離れたバルカン半島の小国。
その紛争が、ドイツとロシアを巻き込めばどうなるか。
さらにフランスが参戦すれば、英国も無関係ではいられなくなる。
マクドナルドは、首相として、その可能性を誰よりも恐れていた。
「外務省から各国政府へ電報を送ってほしい」
彼は言った。
「英国政府は平和的解決を強く希望する。すべての関係国に対し、軍事行動を控え、外交交渉を継続するよう求める、と」
外務担当閣僚が頷いた。
「直ちに手配します」
マクドナルドは椅子から立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。
雨に濡れたダウニング街は静かだった。
遠くで自動車のエンジン音が響いている。
彼は窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。
10年前、欧州は大戦争の危機を辛うじて回避した。
あの時、各国政府は最後の瞬間に妥協を選んだ。
今度も同じことができるはずだった。
少なくとも、彼はそう信じたかった。
―同日 午後10時10分―
英国 ポーツマス海軍基地 沖合 巡洋戦艦「フッド」艦上
ポーツマス軍港は、静かな夜を迎えていた。
港内には大小の軍艦が停泊し、艦橋や上甲板に設けられた照明が暗い海面に反射していた。
帰港した巡洋戦艦「フッド」は、第21番錨地に投錨していた。
その隣の第22番錨地には、以前から港内に停泊していた姉妹艦「アンソン」の巨大な艦影が見えた。
「アンソン」は今回の北海演習には参加していない。
そのため、演習から帰投した「フッド」の乗組員たちにとって、隣の戦艦は出港前と変わらぬ場所にある馴染み深い存在だった。
しかし、艦内の雰囲気は出港前とは大きく異なっていた。
上陸を許可された一部の水兵たちは、久しぶりの陸上生活を楽しんでいた。
一方、艦内に残った者たちは、いつ再出港命令が下るか分からない状況に置かれていた。
士官室では、エドワード・アーサー・ハミルトン海軍大尉が椅子に腰掛け、新聞を読んでいた。
「フッド」の砲術士官である。
向かいには、航海科士官のトーマス・ウィリアム・ベネットが座っていた。
ベネットは紅茶を一口飲むと、新聞に目を向けた。
「またバルカンの記事か」
「ああ」
ハミルトンは新聞を折り畳んだ。
「今朝の新聞より、さらに状況が悪くなっている」
「オーストリアがセルビアへ最後通牒を出すらしいな」
「そう書いてある」
「戦争になると思うか?」
ハミルトンは少し考えた。
「分からない」
彼は答えた。
「だが、10年前も同じようなことがあった」
「その時は戦争にならなかった」
「そうだ」
ハミルトンは頷いた。
「だから、今回も何とかなると思いたい」
ベネットは窓の外を見た。
暗い海面の向こうに、「アンソン」の艦影が浮かんでいた。
「しかし、今回は少し違う気がする」
「どうしてだ?」
「演習が突然中止された。帰港しても警戒態勢は解除されない。艦長も司令部も、何かを待っているように見える」
ハミルトンは黙って聞いていた。
彼も同じことを感じていた。
演習中、艦隊には突然の中止命令が下された。
その理由は詳しく知らされず、乗組員たちは不安を抱えたままポーツマスの帰投命令が来た。
帰り道にようやくドーバー海峡での巡洋艦爆沈事件を知った。
さらにベオグラードでの列車爆破、ウィーンでの暗殺事件。
わずか数日間で、欧州情勢は急激に悪化していた。
「ドイツ艦隊も動いているらしい」
ベネットが言った。
「まさか、出撃したのか?」
「いや、まだ港内だそうだ」
「ならば、戦争の準備と決まったわけではない」
「そうだな」
ベネットは頷いた。
しばらく二人は黙っていた。
遠くで艦内放送の声が聞こえた。
当直士官への連絡だった。
「ハミルトン」
ベネットが口を開いた。
「もし戦争になったら、我々はどうなると思う?」
ハミルトンは窓の外を見た。
港内には英国海軍の軍艦群が整然と停泊していた。
数週間前、休暇を終えてロンドンから戻ってきた時、彼はこの光景を見て安心したものだった。
これほど強大な艦隊があれば、英国が敗れることなどない。
そう考えていた。
だが、今は違っていた。
巨大な戦艦も、巡洋戦艦も、そこに乗る人間たちも、戦争が始まれば無傷ではいられない。
「……分からない」
彼は静かに答えた。
「だが、できることなら、この艦で戦争を経験したくはないな」
ベネットは小さく笑った。
「まったくだ」
二人は再び紅茶に口をつけた。
その時、士官室の扉が開いた。
「ハミルトン大尉、ベネット大尉」
若い士官が入ってきた。
「艦長より伝達です。明朝6時、各科長による準備状況の報告を実施するとのことです」
「出港か?」
ハミルトンが尋ねた。
「現時点ではありません」
「分かった」
士官が退室すると、ベネットはため息をついた。
「どうやら、明日も忙しくなりそうだ」
「そうだな」
ハミルトンは新聞を机に置いた。
その一面には、太い活字でこう書かれていた。
『欧州危機、重大局面へ』
彼はその見出しをしばらく見つめた。
そして、静かに新聞を閉じた。
―1924年9月10日 午後11時5分―
オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン 帝国外務省
夜は深まっていた。
外務省の廊下には、昼間のような喧騒はなかった。
しかし、政治局の執務室にはまだ明かりが灯っていた。
ホーエンフェルトは机に向かい、最後通牒の最終草案を読んでいた。
文書は幾度も修正され、ところどころに赤い鉛筆の書き込みが残されていた。
彼が特に問題視していた捜査協力に関する条項は、ほぼ原案のまま残されていた。
その内容は、セルビア政府にとって容易に受け入れられるものではなかった。
扉が叩かれた。
「どうぞ」
入ってきたのは、先ほどの会議に出席していた政府高官だった。
「ホーエンフェルト君」
「はい」
「最終草案が承認された」
ホーエンフェルトは顔を上げた。
「皇帝政府の承認も?」
「必要な手続きは整った。明朝、ベオグラードの公使館を通じて正式に通告する」
高官は机の上に一枚の文書を置いた。
「回答期限は九月十一日午後十時だ」
ホーエンフェルトは文書を見つめた。
「……変更は認められなかったのですね」
「ああ」
「セルビア政府が期限の延長を求めた場合は?」
「現地公使が本国へ照会することになる。ただし、延長を認める方針は示されていない」
ホーエンフェルトは小さく頷いた。
「分かりました」
高官はしばらく彼を見つめていた。
「君がこの決定に不満を抱いていることは理解している」
「不満というより、不安です」
「不安?」
「はい」
ホーエンフェルトは文書に目を落とした。
「我々はセルビアに要求を突きつけます。しかし、その要求が拒否された後、何が起こるのかについては、誰も明確な答えを持っていません」
「軍部は限定的な軍事行動を想定している」
「ロシアが介入した場合は?」
高官は答えなかった。
「ドイツが参戦し、フランスが動き、英国まで巻き込まれた場合は?」
「そこまで事態が拡大するとは限らない」
「ですが、拡大しない保証もありません」
長い沈黙が流れた。
やがて高官は、静かに口を開いた。
「君の言うことは正しいかもしれない」
彼は窓の外を見た。
「だが、帝国政府にも守らなければならないものがある」
「帝国の威信、ですか」
「それだけではない」
高官は振り返った。
「この帝国そのものだ」
ホーエンフェルトは何も言えなかった。
多民族国家であるオーストリア=ハンガリー帝国。
その内部には、長年にわたる民族的、政治的な対立が存在していた。
政府にとって、セルビアの民族主義運動は単なる隣国の問題ではなかった。
帝国の存続そのものに関わる脅威と受け止められていたのである。
「明朝までに、ベオグラード公使館への訓令を整えてくれ」
「承知しました」
高官が退室すると、ホーエンフェルトは一人になった。
机の上には最後通牒の文書が置かれていた。
彼はそれを手に取った。
紙は薄く、軽かった。
しかし、その内容はあまりにも重かった。
ホーエンフェルトは窓辺へ歩み寄った。
ウィーンの街には、まだ多くの明かりが灯っていた。
遠くのカフェからは人々の笑い声が聞こえ、路面電車がゆっくりと通り過ぎていった。
誰もが明日も同じ日常が続くと信じている。
彼も、そう信じたかった。
「……まだ間に合うはずだ」
小さく呟いた。
―同日 午後11時40分―
オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン 中央電信局
中央電信局の建物では、夜間勤務の職員たちが電信機に向かっていた。
室内には、モールス信号を刻む乾いた音が絶え間なく響いていた。
机の上には電報用紙が積み重なり、職員たちは各地から届く通信を分類していた。
その中へ、一人の外務省職員が入ってきた。
手には封印された公用文書が握られていた。
「ベオグラード宛て、至急電報です」
当直責任者が文書を受け取った。
「外務省からですか」
「はい。最優先でお願いします」
責任者は封印と宛先を確認した。
文書は暗号化されていた。
その内容を、電信局の職員たちが知ることはない。
ただ、通常の外交電報とは異なる緊急指定が付されていることだけは分かった。
通信士は電鍵に指を置いた。
やがて、規則正しい金属音が室内に響き始めた。
短点。
長点。
短点。
長点。
目に見えない電気信号が、国境を越えて南東へ向かっていく。
ベオグラードの帝国公使館へ送られるその電報には、翌朝セルビア政府へ提出する最後通牒の正式な訓令が記されていた。
回答期限は九月十一日午後十時。
要求を受け入れなければ、帝国政府は重大な措置を取る。
その文面は、外交文書としては決して長いものではなかった。
だが、その一語一句が、欧州の運命を左右することになる。
通信士は淡々と電鍵を打ち続けた。
彼にとって、それは数ある公用電報の一つにすぎなかった。
やがて送信が終わった。
「送信完了」
当直責任者が記録簿に時刻を記入した。
午後11時47分。
職員は文書を受け取り、静かに部屋を出ていった。
電信局では、すぐに次の通信が始まった。
何事もなかったかのように。
―1924年9月11日 午前0時15分―
オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン 帝国外務省政治局
日付が変わっていた。
ホーエンフェルトは、まだ執務室に残っていた。
机の上には、送信を終えた最後通牒の控えが置かれていた。
彼は椅子に深く腰掛け、天井を見上げた。
長い一日だった。
朝から続いた会議。
軍部との対立。
幾度にもわたる文書の修正。
そして、最後通牒の発出。
すべてが、あまりにも早く進んでいた。
彼は机の引き出しを開け、一枚の古い写真を取り出した。
そこには、サラエヴォの街並みが写っていた。
石造りの建物。
狭い通り。
遠くに見える山々。
幼い頃、何度も歩いた街だった。
彼は写真を見つめた。
あの街では、ドイツ語も、クロアチア語も、セルビア語も聞こえてきた。
宗教も民族も異なる人々が、同じ市場で買い物をし、同じ通りを歩いていた。
もちろん、対立がなかったわけではない。
しかし、そこには確かに人々の暮らしがあった。
その暮らしが、政治家や軍人たちの決定によって失われるかもしれない。
ホーエンフェルトは写真を机に戻した。
窓の外では、ウィーンの街が静まり返っていた。
遠くの教会から、鐘の音が聞こえた。
彼は立ち上がり、外套を手に取った。
明日、セルビア政府は最後通牒を受け取る。
その回答によって、帝国の運命が決まるかもしれない。
だが、彼にはまだ一つだけ希望が残されていた。
セルビアが要求の大部分を受け入れ、残された問題について交渉を求めてくる可能性。
英国が仲裁に乗り出し、ドイツがウィーンへ自制を促す可能性。
ロシアが軍事介入を思いとどまる可能性。
どれも決して大きな可能性ではなかった。
それでも、ゼロではなかった。
「まだ終わってはいない」
ホーエンフェルトは自分に言い聞かせた。
そして、執務室の明かりを消した。
暗闇の中で、机の上の最後通牒だけが、窓から差し込む月明かりに照らされていた。
その頃、ベルリンでは参謀将校たちが鉄道輸送計画を見直していた。
ヴィルヘルムスハーフェンでは、大洋艦隊の乗組員たちが出撃命令に備えていた。
ポーツマスでは、英国海軍の士官たちが不安を抱えながら眠りについていた。
そしてベオグラードでは、まだ誰も知らない一通の電報が、帝国公使館へ届こうとしていた。
欧州の各国は、それぞれの理由で平和を守ろうとしていた。
しかし、そのために取られた行動は、互いの疑念を深め、対立を激しくしていた。
10年前、欧州は戦争を回避した。
あの時、人々は外交の勝利を祝福した。
そして、二度と同じ危機が訪れることはないと信じた。
だが、歴史は再び同じ問いを突きつけていた。
今度も、戦争を避けることができるのか。
その答えが示されるまで、残された時間はわずかだった。
1924年9月11日。
大正十三年九月十一日。
欧州に、運命の朝が訪れようとしていた。
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