序章 第十節「大洋の城」後編
-1924年9月10日 午前8時35分-
ドイツ帝国 ベルリン 参謀本部
ベルリンの朝は、どんよりとした曇り空で始まった。
街路には昨夜の雨が残り、石畳の窪みにできた水たまりが、行き交う馬車や自動車の車輪に踏まれていた。
参謀本部の建物では、早朝から慌ただしい動きが続いていた。
正面玄関には軍用自動車が次々と到着し、将校や伝令が足早に建物へ入っていく。
廊下には軍靴の音が響き、各部屋からは電話のベルやタイプライターの音が聞こえてきた。
その一室で、若い陸軍大尉が机に向かっていた。
フリードリヒ大尉。
欧州情勢を分析する参謀本部の会議に出席した若手士官である。
彼の机上には、複数の報告書が積み重ねられていた。
セルビア情勢。
両国の国境付近での発泡事件。
ベオグラード国際列車爆破事件。
ウィーンでの外交高官暗殺事件。
そして、ドーバー海峡での巡洋艦爆沈事件。
いずれも、わずか数日の間に発生した事件であった。
フリードリヒは一枚の報告書を手に取った。
そこには、英国海軍が北海での大演習を中止し、艦隊を母港へ帰投させたと記されていた。
続いて、別の報告書に目を通す。
こちらには、ドイツ大洋艦隊が警戒態勢を強化し、必要に応じて出港できる準備を進めているとあった。
彼はしばらく、その二枚を見比べていた。
「……まずいな」
小さく呟いた。
英国海軍の演習中止。
ドイツ大洋艦隊の出港準備。
どちらも、それぞれの立場から見れば合理的な行動であった。
英国は不測の事態に備えるため、演習中の艦隊を帰投させた。
ドイツは英国の動向を警戒し、艦隊を出港可能な状態へ移行させている。
しかし、相手の立場から見ればどうだろうか。
英国が艦隊を帰投させたことを、ドイツが戦闘準備と判断する。
ドイツが艦隊の出港準備を始めたことを、英国が攻撃準備と判断する。
そうなれば、双方は互いの警戒態勢をさらに強化することになる。
フリードリヒは机上の北海海図を広げた。
英国東岸。
ヘルゴラント島。
ヴィルヘルムスハーフェン。
ドーバー海峡。
それぞれの位置を確認し、鉛筆で小さな印をつけていく。
海図上では、英国とドイツは驚くほど近かった。
陸上の国境とは異なり、海上には明確な境界線が存在しない。
艦隊が進めば、数時間から数十時間で互いの警戒海域へ接近することもできる。
それだけに、艦隊の行動は外交上の意味を持つ。
単なる訓練航海であっても、相手国がそれを攻撃準備と受け取る可能性があった。
「フリードリヒ大尉」
背後から声がした。
振り返ると、上官の参謀少佐が立っていた。
「まだ調べていたのか」
「はい、少佐殿」
「昨日からほとんど休んでいないそうだな」
「問題ありません」
「そうは見えんが」
少佐は苦笑した。
そして、机上の海図へ目を向けた。
「何か分かったか?」
「確証はありません。しかし、現在の各国の動きは非常に危険です」
「具体的には?」
「英国海軍と我が大洋艦隊です」
フリードリヒは北海の海図を指差した。
「英国海軍は大演習を中止し、主要艦艇を帰投させました。一方、我が海軍は出港準備を進めています」
「当然の措置ではないか」
「それぞれ単独ならば、です」
彼は英国東岸とドイツ沿岸を交互に指差した。
「問題は、相手がどう解釈するかです」
少佐は腕を組んだ。
「続けたまえ」
「英国は巡洋艦爆沈事件について、我が国の潜水艦の関与を疑っている可能性があります」
「だが、沈んだのはオーストリアの軍艦だろう」
「そのとおりです。しかし、英国近海で発生した事件です。英国政府はドーバー海峡の安全に重大な関心を持っています」
フリードリヒは続けた。
「この状況で大洋艦隊が北海へ出港すれば、英国はそれを攻撃準備と判断する可能性があります」
「我が艦隊が出港しただけでか?」
「はい」
彼は即答した。
「英国海軍もまた、我々を恐れているからです」
少佐は黙った。
「英国は海上交通路を守るため、ドイツ艦隊の行動に敏感です。我々が北海へ進出すれば、英国も艦隊を動かすでしょう」
「それは相互の牽制だ」
「平時であれば、そうです」
フリードリヒは声を低くした。
「しかし、今は違います」
彼は別の地図を広げた。
そこには、オーストリア=ハンガリー帝国とセルビア王国の国境が描かれていた。
「バルカン半島では、オーストリアとセルビアの間で戦争が始まりかねない情勢です」
続いて、北海の海図へ視線を戻す。
「その一方で、英国とドイツの間にも疑惑が生じています」
「つまり?」
「二つの危機が結びつく可能性があります」
少佐の表情が変わった。
「オーストリアとセルビアの戦争が、英国とドイツの戦争になるというのか?」
「その可能性を否定できません」
部屋には時計の音だけが響いた。
やがて少佐は口を開いた。
「大尉、君の分析を文書にまとめろ」
「はっ」
「今朝の海軍側との協議に提出する。時間はない。すぐに準備したまえ」
フリードリヒは敬礼した。
しかし、その表情は晴れなかった。
文書を提出するだけで、果たして間に合うのだろうか。
-1924年9月10日 午前10時10分-
ドイツ帝国 ベルリン・海軍中央当局会議室
会議室には、陸軍と海軍の高級将校が集まっていた。
高い天井には装飾が施され、壁にはドイツ帝国の軍艦を描いた絵画が掛けられていた。
窓際には厚いカーテンが下がり、中央の大きな会議卓には北海の海図が広げられている。
机上には複数の報告書が積み重ねられ、各席には鉛筆とメモ用紙が用意されていた。
フリードリヒは上官の後方に立ち、作成した情勢分析書を手にしていた。
会議の議題は、英国海軍の動向と大洋艦隊の警戒態勢についてであった。
「英国艦隊は現在、主要基地へ帰投しております」
海軍側の参謀が説明した。
「ポーツマスには、主力戦艦郡が到着したとの情報があります」
「「フッド」もか?」
陸軍側の将官が尋ねた。
「はい。巡洋戦艦「フッド」を含む主力艦艇が帰投しております。」
「演習は完全に中止されたのか?」
「そのようです。ただし、英国海軍本部は中止の詳細な理由を公表しておりません」
海軍参謀は北海の海図を指差した。
「我々は、英国艦隊が今後どのような行動を取るか、慎重に監視する必要があります」
「我が大洋艦隊は?」
「出港準備を進めております。必要であれば、短時間で北海へ展開可能です」
フリードリヒは顔を上げた。
出港準備。
その言葉が、彼の胸に重く響いた。
やがて上官が発言を求めた。
「陸軍参謀本部から、一つ懸念を申し上げたい」
会議室の視線が集まった。
「現在の国際情勢において、大洋艦隊の行動は慎重に判断すべきと考えます」
海軍将官の一人が眉をひそめた。
「具体的には?」
「担当士官に説明させます」
フリードリヒは一歩前に出た。
「陸軍参謀本部、フリードリヒ大尉であります」
彼は海図の前に立った。
「結論から申しまして、現在の情勢で大洋艦隊を動かすのは危険です」
会議室が静まり返った。
「英国海軍は巡洋艦爆沈事件を受け、すでに警戒態勢を強化しています。その状況で我が大洋艦隊が北海へ出港すれば、英国側はこれを攻撃準備と判断する可能性があります」
海軍将官が口を開いた。
「大尉、君は陸軍士官だな」
「はい」
「海軍の作戦に口を挟むつもりかね?」
「作戦そのものに異議を唱えているのではありません」
フリードリヒは落ち着いて答えた。
「時期が悪いと申し上げているのです」
「英国が我が国を疑っているからこそ、我々は力を示さねばならん」
「それこそが英国の警戒を強めるのです!」
思わず声が大きくなった。
上官が小さく咳払いした。
フリードリヒは姿勢を正した。
「失礼いたしました」
しかし、彼は続けた。
「英国もまた、我々と同じように自国を守ろうとしています。双方が防衛のために艦隊を動かせば、互いに相手の行動を攻撃準備と誤認する可能性があります」
「では、何もせず港に閉じこもれと言うのか?」
「いいえ。艦隊の準備を進めることには賛成です。しかし、実際の出港は外交状況を確認するまで控えるべきです」
海軍将官は腕を組んだ。
「英国が先に動いたらどうする?」
「その場合も、まず情報を確認すべきです」
「確認している間に攻撃されたら?」
フリードリヒは一瞬言葉を失った。
海軍将官は続けた。
「大尉。海軍には海軍の責任がある。我々は帝国の海岸を守らねばならん」
「承知しております。しかし――」
「君の意見は記録しておこう」
将官は言葉を遮った。
「だが、大洋艦隊の行動を決定するのは海軍だ」
それ以上、フリードリヒが発言する機会は与えられなかった。
会議はそのまま別の議題へ移った。
英国海軍の巡洋艦配備。
ドーバー海峡の通航状況。
北海沿岸の防備。
そして、大洋艦隊の出港準備。
フリードリヒは黙って自分の席へ戻った。
手元には、先ほどまで説明していた情勢分析書が残されていた。
その最後の頁には、彼自身が書いた一文があった。
――現段階における大洋艦隊の積極的行動は、英国側の誤認を招き、外交的危機を軍事的危機へ転化させる危険がある。
彼はその一文を見つめた。
それが、単なる杞憂で終わることを願うしかなかった。
-1924年9月10日 午前11時25分-
ドイツ帝国 ベルリン 参謀本部2階 大会議室
フリードリヒは参謀本部へ戻っていた。
机の上には、先ほどの会議で使用した北海海図が置かれている。
彼は椅子に腰を下ろし、深く息を吐いた。
警告は伝えた。
しかし、聞き入れられたとは思えなかった。
海軍側の判断にも理屈はあった。
英国が警戒態勢を強化している以上、ドイツ海軍も準備を進める必要がある。
だが、その準備が英国の警戒をさらに強める。
英国が艦隊を動かせば、ドイツも動く。
ドイツが動けば、英国も動く。
その連鎖の先に何が待っているのか。
彼には想像できた。
机の上に置かれた電話が鳴った。
「フリードリヒ大尉です」
『大尉、海軍中央当局から連絡があった』
上官の声だった。
『大洋艦隊の出港準備は継続されるそうだ』
「……そうですか」
『ただし、現時点で出撃命令は出ていない』
「承知しました」
受話器を置いたあと、フリードリヒはしばらく動かなかった。
やがて、北海海図に視線を落とした。
そこには英国とドイツの二つの大艦隊が存在していた。
どちらも戦争を望んでいるとは限らない。
しかし、どちらも相手を信用していなかった。
彼はふと、先月の参謀本部での会議を思い出した。
あのときも、欧州情勢は緊張していた。
オーストリアとセルビアの対立。
ロシアの動向。
フランスと英国の外交姿勢。
ドイツ帝国がどのような立場を取るべきかについて、参謀たちは議論を重ねていた。
だが、当時はまだ、外交によって危機を回避できると考える者が多かった。
フリードリヒ自身もそうだった。
しかし、わずか数日で状況は変わってしまった。
巡洋艦が沈み、国際列車が爆破され、外交高官が暗殺された。
それぞれの事件について、まだ十分な調査すら行われていない。
にもかかわらず、各国はすでに軍事的な対応を検討し始めていた。
「……どうか、何も起こらないでくれ」
彼は小さく呟いた。
その願いが届く相手は、どこにもいなかった。
-同日 午後1時40分-
ドイツ帝国 ヴィルヘルムスハーフェン軍港
軍港の空気は、前日とは明らかに違っていた。
岸壁には補給物資を積んだ貨車が次々と到着し、クレーンが忙しく動いている。
戦艦の甲板では水兵たちが弾薬搬送装置を点検し、機関室では機関員たちが出港準備を進めていた。
大洋艦隊旗艦「フリードリヒ・デア・グローセ」でも、朝から慌ただしい作業が続いていた。
「第三砲塔、旋回装置異常なし!」
「測距儀、調整完了!」
「主砲弾薬庫、点検終了!」
各部署から報告が届く。
ヴェーバー大尉は砲術指揮所で報告書を確認していた。
室内には海図や射撃諸元表が並び、壁際には通信装置が設置されている。
測距儀から送られてくる情報を処理する機器は、整備員たちによって念入りに点検されていた。
ヴェーバーは報告書に署名し、隣に立つブラントへ手渡した。
「第三砲塔の調整は終わった」
「そうか」
「第四砲塔も問題ないそうだ」
「これで主砲はすべて使用可能だな」
ブラントは報告書を確認した。
「昨日までは通常訓練だったはずだが、今日は随分と慌ただしい」
「ああ」
ヴェーバーは窓の外を見た。
岸壁では、補給艇が艦の舷側へ近づいていた。
その甲板には木箱や樽が積まれ、作業員たちが忙しく動いている。
「まるで戦争前夜だ」
ヴェーバーが呟くと、ブラントは苦笑した。
「大げさだな」
「そうか?」
「出港準備命令が出ただけだ。戦争になるとは限らん」
ヴェーバーは答えなかった。
昨日まで平穏だった艦内が、今日はまるで別の場所のように感じられた。
水兵たちは必要以上の冗談を言わなくなり、下士官たちは普段より厳しい口調で命令を出している。
艦内の誰もが、何かが起ころうとしていることを感じていた。
「ブラント」
「何だ?」
「英国艦隊は、もうポーツマスへ戻ったそうだな」
「ああ。今朝、通信科から聞いた」
「「フッド」もか?」
「そうらしい」
ヴェーバーは少し考えた。
「英国の士官たちは、今頃何を考えているんだろうな」
「何を考えている?」
「ああ。演習を中止して帰ってきた理由を、どこまで知らされているのかと思ってな」
ブラントは肩をすくめた。
「我々と大して変わらんだろう」
「そうかもしれない」
「それに、英国人が何を考えているかなど、我々には分からん」
ヴェーバーは小さく笑った。
「そのとおりだな」
しかし、その言葉は彼の心に残った。
英国人が何を考えているのか分からない。
英国人もまた、ドイツ人が何を考えているのか分からない。
その状態で、双方が巨大な艦隊を動かそうとしている。
-同日 午後3時05分-
ドイツ帝国 ヴィルヘルムスハーフェン軍港・大洋艦隊司令部
司令長官ハルデンベルクは、再び北海海図の前に立っていた。
前日からほとんど眠っていなかった。
机上には、ベルリンから届いた報告書が積み重ねられている。
英国海軍の動向。
ドーバー海峡の調査状況。
オーストリアとセルビアの外交交渉。
そして、陸軍参謀本部から提出された情勢分析書。
「ベルリンからの報告は?」
ハルデンベルクが尋ねた。
「陸軍参謀本部から、艦隊の出港を慎重に判断すべきとの意見が出ております」
参謀長が答えた。
「陸軍が?」
「はい。英国側の誤認を招く危険があるとのことです」
ハルデンベルクは報告書を手に取った。
数頁にわたる分析書であった。
そこには、英国海軍の帰投とドイツ大洋艦隊の出港準備が、相互の警戒心を高める危険について記されていた。
彼は黙って読み進めた。
やがて、最後の頁に目を留めた。
――現段階における大洋艦隊の積極的行動は、英国側の誤認を招き、外交的危機を軍事的危機へ転化させる危険がある。
ハルデンベルクは小さく頷いた。
「もっともな意見だ」
参謀長は少し驚いたように顔を上げた。
「では、出港準備を中止しますか?」
「いや」
司令長官は首を振った。
「準備は続ける」
「理由をお聞かせ願えますか」
ハルデンベルクは海図を指差した。
「英国艦隊が我々を攻撃するとは思わん。だが、英国もまた我々を信用していない」
「はい」
「だからこそ、こちらが無防備でいるわけにはいかん」
彼は英国東岸を指差した。
「英国が艦隊を動かしたとき、我々が何もできなければどうなる?」
「帝国沿岸の防衛に支障が生じます」
「そのとおりだ」
司令長官は静かに続けた。
「陸軍の警告は正しい。艦隊を動かすことは危険だ」
そして、少し間を置いた。
「しかし、動かせないこともまた危険なのだ」
参謀長は黙って頷いた。
ハルデンベルクは窓の外へ視線を向けた。
軍港には巨大な戦艦群が並んでいる。
その艦隊を率いることが、彼の任務であった。
彼は戦争を望んでいなかった。
英国海軍との戦争が、どれほど多くの犠牲を生むかを理解していた。
英国には世界最大の海軍力がある。
ドイツにも強大な艦隊がある。
もし両者が北海で衝突すれば、数千、あるいは数万の水兵が命を落とすかもしれない。
そして、その戦闘が欧州全体を巻き込む戦争へ発展する可能性もあった。
だが、だからといって艦隊を無防備な状態に置くこともできなかった。
国家の防衛を任された軍人として、彼には準備を進める責任があった。
「参謀長」
「はっ」
「各戦隊の準備状況を報告させろ」
「了解しました」
「ただし、出港命令はまだ出すな」
「はっ」
「外交交渉が続いている間は、こちらから英国を刺激する必要はない」
参謀長は敬礼した。
ハルデンベルクは再び海図へ目を落とした。
同じ北海海図を前にして、ベルリンの若い陸軍大尉と、ヴィルヘルムスハーフェンの海軍大将は、異なる判断を下していた。
どちらも帝国を守ろうとしていた。
どちらも戦争を望んでいなかった。
しかし、一方は艦隊を動かさないことが平和を守る道だと考え、もう一方は艦隊を動かせるようにしておくことが平和を守る道だと考えていた。
その違いが、やがて何を生むのか。
このとき、誰にも分からなかった。
-1924年9月10日 午後5時35分-
ドイツ帝国 ヴィルヘルムスハーフェン軍港・大洋艦隊旗艦「フリードリヒ・デア・グローセ」艦上
夕日が北海の水平線へ傾き始めていた。
軍港の水面は赤く染まり、停泊する戦艦群の巨大な艦影が長く伸びている。
岸壁では、最後の補給作業が進められていた。
クレーンがゆっくりと動き、木箱や資材が艦内へ運び込まれていく。
港内を行き交う小型艇の数も、普段より多かった。
各艦の艦橋には、夕方の当直士官が配置されている。通信室では、司令部からの命令を受信するため、無線通信士たちが待機していた。
ヴェーバー大尉は艦橋に立っていた。
眼前には、ドイツ帝国海軍の精鋭が並んでいる。
昨日の朝と同じ光景。
だが、彼にはまったく違うものに見えた。
バイエルン級戦艦。
ケーニヒ級戦艦。
デアフリンガー級巡洋戦艦。
そして、帝国が誇る新鋭戦艦群。
それらは、今も静かに停泊していた。
しかし、その艦内では数千人もの水兵たちが戦闘準備を進めている。
主砲塔の点検。
弾薬庫の確認。
通信設備の調整。
機関の始動準備。
すべてが、実際の戦争を想定した作業であった。
「美しいな」
隣に立つブラントが呟いた。
「ああ」
「これほどの艦隊があれば、英国も簡単には手を出せまい」
ヴェーバーは答えなかった。
しばらくして、静かに口を開いた。
「ブラント」
「何だ?」
「英国の士官たちも、同じことを考えているのだろうか」
「同じこと?」
「自分たちの艦隊があれば、ドイツも簡単には手を出せない、と」
ブラントは黙った。
やがて、苦笑した。
「そうかもしれんな」
二人は夕日に照らされた軍港を眺めた。
巨大な戦艦群。
数万の水兵。
何百門もの大砲。
それらすべてが、国家を守るために存在している。
しかし、その存在そのものが、相手国に恐怖を与えているのかもしれなかった。
「ヴェーバー」
「何だ?」
「もし戦争になったら、我々は英国艦隊と戦うことになるんだろうな」
ヴェーバーはゆっくりと頷いた。
「おそらくな」
「勝てると思うか?」
その問いに、ヴェーバーはすぐには答えなかった。
彼は砲術士官である。
自艦の主砲の性能を熟知している。
射撃指揮装置の精度も、装甲の厚さも、機関の能力も理解している。
しかし、実際の戦争で何が起きるかまでは分からなかった。
「勝つために訓練してきた」
ようやく、彼は答えた。
「だが?」
「戦争は訓練とは違う」
ブラントは黙った。
「演習なら、砲弾が命中したと判定されても誰も死なない」
「ああ」
「だが、本当の戦争では違う」
ヴェーバーは港の向こうを見つめた。
「砲弾が命中すれば、人が死ぬ」
ブラントはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「……そうだな」
二人の間に沈黙が流れた。
遠くで、軍港の汽笛が鳴った。
夕日は、ゆっくりと水平線へ沈み始めていた。
-同日 午後6時05分-
ドイツ帝国 ヴィルヘルムスハーフェン軍港・大洋艦隊司令部 司令長官室
司令長官ハルデンベルクは、机上に置かれた命令書を見つめていた。
その内容は簡潔であった。
『大洋艦隊各部隊は警戒態勢を強化し、必要に応じて速やかに出港できる状態を維持すること。戦闘準備を整えること。ただし、司令部の命令なく出港してはならない。』
彼はペンを取り、署名した。
その動作は、普段と何も変わらなかった。
しかし、命令書に署名する手は、わずかに重く感じられた。
この命令は、まだ出撃命令ではない。
英国への宣戦布告でもない。
あくまでも、不測の事態に備えるための警戒命令である。
だが、その命令が艦隊全体へ伝えられれば、数万人の水兵たちが戦闘準備を始めることになる。
ハルデンベルクは、その意味を理解していた。
「参謀長」
「はっ」
「各戦隊に通達せよ」
「了解しました」
参謀長が命令書を受け取る。
ハルデンベルクは窓の外を見た。
夕日が軍港を赤く染めていた。
巨大な戦艦群が、静かに停泊している。
「……戦争にならなければよいが」
その言葉は、誰にも聞こえなかった。
数分後。
旗艦の通信室から、各戦隊へ信号が送られた。
港内に停泊する戦艦群の通信設備が、次々とその命令を受信していく。
旗艦の艦橋では、信号兵が受信文を読み上げた。
「大洋艦隊司令部より、全艦宛て!」
ヴェーバー大尉が顔を上げる。
「内容は?」
信号兵は一瞬、言葉を詰まらせた。
そして、はっきりと読み上げた。
『大洋艦隊各部隊に告ぐ。総員、戦闘配置に備えよ』
艦橋が静まり返った。
誰もすぐには口を開かなかった。
やがて、艦長が静かに命じた。
「各部署に伝達。戦闘準備を開始せよ」
「はっ!」
伝令が走り出した。
艦内の電話が鳴り始める。
機関室では機関員たちが配置につき、砲塔内では水兵たちが最後の点検を開始した。
港内のほかの戦艦でも、同じ光景が繰り返されていた。
巨大な艦隊が、静かに戦争への準備を始めたのである。
ヴェーバー大尉は艦橋から港を見渡した。
昨日まで、あれほど誇らしく見えた戦艦群。
今もその姿は変わらない。
しかし、彼の胸には奇妙な不安が広がっていた。
戦争は、まだ始まっていない。
誰も宣戦布告をしていない。
英国とドイツの間には、正式な敵対関係すら存在していない。
それなのに、艦隊は戦争の準備を始めている。
「大尉」
ブラントが声をかけた。
「どうした?」
「いや……」
ヴェーバーはしばらく黙っていた。
そして、夕日に染まる北海の方角を見つめた。
「何でもない」
彼は小さく答えた。
そのとき、ヴィルヘルムスハーフェンの港には、まだ平和な夕日が差していた。
だが、その夕日が沈む頃、欧州はもはや昨日までの欧州ではなくなっていた。
序章 第十節「大洋の城」終




