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序章 第十節「大洋の城」中編

-1924年9月10日 午前6時35分-

 英国 ポーツマス軍港 沖合



 東の空が、次第に明るくなり始めていた。

 水平線には薄い雲が広がり、その隙間から差し込む朝日が、海面を淡い金色に染めている。

 夜間の航海を続けてきた英国海軍青艦隊は、ようやく母港ポーツマスの沖合へ到達しようとしていた。


 先頭を進むのは、巡洋戦艦「フッド」。

 その後方には、北海での大演習に参加した戦艦や巡洋戦艦が続き、さらに巡洋艦と駆逐艦が周囲を警戒していた。


 「フッド」の艦橋では、航海長が海図を確認していた。

「ポーツマス港外錨地まで、あと5マイル」

「了解」

 艦長は双眼鏡を下ろした。

「速力を10ノットへ落とせ」

「10ノット、了解!」

 機関室へ命令が伝えられた。

 速力がゆっくりと落ち始める。

 艦首が切り裂く波は次第に小さくなり、船体の振動もわずかに弱まった。


 遠くには、ポーツマス軍港の施設が見え始めていた。

 港口を守る防波堤。

 巨大な造船所のクレーン。

 岸壁に並ぶ倉庫群。

 そして、軍港の内外に停泊する多数の軍艦。

 北海での演習を終えた乗組員たちにとって、それらは見慣れた母港の風景であった。


「信号所から連絡です」

 信号兵が報告した。

「本艦の指定錨地、第21番。入港順序は予定どおりとのことです」

「了解した」

 艦長は頷いた。

「第21番錨地へ向かう。錨泊準備を命じろ」

 艦内電話を通じて、各部署へ命令が伝えられた。

 甲板では水兵たちが慌ただしく動き始めた。


 一週間の航海を終えた艦隊が、朝日の差し込むポーツマスへ帰投しようとしていた。



-同日 午前7時-

ポーツマス軍港 港外第21番錨地付近

 

 英国海軍巡洋戦艦フッドは、ポーツマス軍港の港外錨地へ侵入しようとしていた。

 朝日が海面を照らし、港内に停泊する軍艦群の灰色の船体を鮮やかに浮かび上がらせていた。


 軍港では、すでに朝の作業が始まっていた。

 岸壁では水兵たちが整列し、補給艇が軍艦の間を行き交っている。

 造船所のクレーンがゆっくりと動き、遠くからは工廠の汽笛が聞こえてきた。

 その光景は、いつもと変わらない平穏な朝のように見えた。


 しかし、「フッド」の乗組員たちは、北海での演習が突然中止された理由について、まだ十分な説明を受けていなかった。


 無線で知らされた一連の事件。

 ドーバー海峡での巡洋艦爆沈。

 ベオグラードでの国際列車爆破。

 ウィーンでの外交高官暗殺。


 そのいずれも断片的な情報で、原因や背景は明らかになっていなかった。

 乗組員たちは、母港へ帰り着いた安堵と、欧州情勢に対する不安を同時に抱いていた。


「右舷前方、軍艦を確認!」

 見張員が報告した。

「巡洋戦艦「アンソン」です!」

 艦長は双眼鏡を上げた。

 隣の港外第22番錨地には、巨大な巡洋戦艦が停泊していた。 


 巡洋戦艦「アンソン」。

 フッドの姉妹艦である。

 今回の北海大演習には参加せず、ポーツマス軍港に残留していた艦であった。

 そのため、フッドが帰投する以前から、第22番錨地に停泊していたのである。

 アンソンの甲板では、朝の作業に従事する水兵たちの姿が見えた。

 艦橋には当直士官が立ち、マストには英国海軍旗が翻っている。


 その巨大な船体は、フッドとよく似ていた。

 長大な艦首甲板。

 前後に配置された四基の連装主砲塔。

 高くそびえる艦橋と煙突。

 しかし、後から完成した「アンソン」には、射撃指揮設備や対空兵装などに一部改良が加えられていた。


「「アンソン」は、ずっと港にいたのか」

 艦橋の一角で、若い士官が呟いた。

「今回の演習には参加していないからな」

 別の士官が答えた。


「我々が北海で波に揉まれていた間、あちらは母港で整備と訓練をしていたわけだ」

「羨ましい話だ」

 小さな笑いが起こった。

 しかし、その笑いもすぐに消えた。

 艦長が命令を発したのである。


「第21番錨地への進入を続ける」

「了解!」

フッドはさらに速力を落とした。

「速力、3ノット!」

「両舷機関、微速前進!」

 艦首の波が小さくなり、巨大な船体はゆっくりと指定錨地へ進んでいった。

艦橋では航海長が位置を確認し、測深担当の水兵が水深を報告していた。

「海図上水深、25メートル」

「了解!」

「艦首配置、錨泊準備完了!」

 艦首から報告が届いた。

 巨大な主錨の周囲には水兵たちが配置され、錨鎖の制動装置が点検されている。

錨鎖庫へ続く通路では、担当の下士官が作業員の位置を確認していた。


「艦首、投錨用意!」

「投錨用意、よし!」

 艦長は海図と艦首方位を確認した。

「機関停止!」

「両舷機関、停止!」


 フッドの速力がさらに落ちた。

 巨大な船体は惰性でゆっくりと進んでいる。


「機関後進!最微速!」

「了解!後進最微速!」

 今度はゆっくりと下がり始める。

 錨で艦首を傷つけないためにバックで下がりなから錨を入れるのだ。


艦長は数秒間、海面を見つめた。

 そして命じた。

「左舷錨入れ!」

 命令が艦首へ伝わった。

「左舷錨入れ!」 


 直後、巨大な金属音が朝の海に響いた。

 錨が海面へ落下し、白い飛沫を上げる。

 続いて錨鎖が錨鎖管から勢いよく繰り出され始めた。


 重い鉄の鎖が金属製の装置を通過するたび、低く激しい音が響く。

 ガラガラガラガラ――。

 その音は艦首甲板を震わせ、朝の錨地に長く響き渡った。

「錨鎖、二節!50メートル」

「三節!75メートル」

「四節!100メートル」

 担当下士官が繰り出された錨鎖の長さを報告する。

フッドは風と潮流を受けながら、ゆっくりと後方へ流されていく。

 やがて錨鎖が張り始めた。


「錨鎖、制動!」

 錨鎖の動きが抑えられる。

 船体は一度わずかに揺れ、それからゆっくりと安定した。

 艦首から報告が届いた。

「予定錨鎖出し終わり!」

「了解!」

艦長は頷いた。

「錨泊位置を確認せよ」

 航海長が海図台へ向かった。

 周囲の灯火や陸上目標との位置関係が確認される。


 やがて報告が届いた。

「本艦、第21番錨地に投錨完了。艦位、異常ありません!」

「了解!入港時刻、7時12分。機関宜しい、舵をよろしい。作業員を別れさせよう」

「了解!」


こうして、フッドは北海での演習を終え、母港へ帰り着いた。

 隣の第22番錨地では、「アンソン」が静かに停泊していた。

 演習に参加した「フッド」。

 演習には参加せず、軍港に残留していた「アンソン」。


 二隻の姉妹艦は、朝日の下で並ぶこととなった。

 しかし、その平穏な光景とは裏腹に、欧州の情勢は刻一刻と悪化しつつあった。




-1924年9月10日 午前7時25分-

ポーツマス軍港   第21番錨地 巡洋戦艦「フッド」艦上



 「フッド」の右舷側には、「アンソン」が静かに停泊していた。

 両艦の間には十分な距離が確保されていたが、その巨大な船体は互いによく見えた。

 朝日に照らされた二隻の巡洋戦艦が並ぶ光景は、実に壮観であった。


「フッド」の前部甲板では、水兵たちが投錨後の作業を進めていた。

 その様子を、ベネット海軍士官は静かに眺めていた。


「ベネット!」

 背後から声がした。

 振り返ると、ハミルトンが歩いてきた。

「ようやく帰ってきたな」

「ああ。長い航海だった」

「それにしても、予定より早く帰ることになるとはな」

「まったくだ」


ハミルトンは隣の「アンソン」へ視線を向けた。

「見ろよ。「アンソン」がいるぞ」

「ああ。相変わらず立派な艦だ」

「我々が北海で演習をしている間、ずっとここにいたわけだな」


「そうらしい」

「羨ましい話だ。こちらは連日演習で大忙しだったというのに」

 ベネットは小さく笑った。

「向こうには向こうの仕事があるだろう」

「そうらしい」

「羨ましい話だ。こちらは連日演習で大忙しだったというのに」

 ベネットは小さく笑った。

「向こうには向こうの仕事があるだろう」


 二人は「アンソン」を眺めた。

 その艦影は「フッド」によく似ていた。

 しかし、艦橋の形状や測距儀の配置など、細部には違いがあった。


「まるで鏡に映った自分たちを見ているようだな」

 ハミルトンが言った。

「少し違う鏡だがな」

「どういう意味だ?」

「2番艦の「アンソン」の方が新しい」

「それを言うな。「フッド」が古く聞こえる」

二人は笑った。

 やがてハミルトンが、少し声を落とした。


「……向こうの連中は、今回の事件について何か知っているんだろうか」

「さあな」

 ベネットは首を振った。

「我々より早く新聞を読んでいるだろうが、詳しいことを知らされているとは限らない」

「そうだな」

「むしろ、こちらが演習を中止して帰ってきた理由を聞きたがっているかもしれない」

 ハミルトンは苦笑した。


ハミルトンは苦笑した。

「それもそうか」

 二人は再び港を眺めた。

 「フッド」は無事に帰投した。

 「リナウン」や「レパルス」、他の艦隊も続々と到着していた。


 しかし、事件の詳細は依然として分からない。

 そして、欧州がこの先どうなるのかも、誰にも分からなかった。


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