序章 第十節「大洋の城」前編
-1924年9月9日 午前5時40分-
ドイツ帝国 ヴィルヘルムスハーフェン軍港
北海から吹き込む風は、9月に入ってから急に冷たさを増していた。
夜明け前の軍港は、まだ深い青色の闇に包まれていた。
岸壁に並ぶ倉庫の屋根も、造船所の巨大なクレーンも、港内を横切る防波堤も、その輪郭をかろうじて見分けられる程度であった。
しかし、海面には、それらの建造物とは明らかに異なる巨大な影が幾つも浮かんでいた。
戦艦である。
1隻ではない。
2隻、3隻、あるいは10隻以上。
灰色の巨大な船体が、軍港の奥から沖合の錨地に至るまで、整然と並んでいた。
ドイツ帝国海軍大洋艦隊
かつて皇帝ヴィルヘルム二世が夢見た、世界最強の海軍国家への野望を具現化した艦隊であった。
やがて東の空が白み始めた。
薄い朝霧の向こうから、最初に姿を現したのは、四基の連装主砲塔を備えたバイエルン級戦艦であった。
艦首甲板には巨大な38センチ砲塔が2基、背負い式に配置されている。
艦橋の後方には太い煙突がそびえ、さらにその後方には後部主砲塔が並んでいた。
艦体は低く、幅広く、いかにも重厚であった。
その隣には、ケーニヒ級戦艦の姿があった。
バイエルン級よりも一回り小さいとはいえ、30.5センチ連装砲塔5基を備えたその姿は、十分に威圧的であった。
さらに沖合には、デアフリンガー級巡洋戦艦が
停泊していた。
戦艦よりも細長い船体。
低く構えた艦橋。
そして、艦首から艦尾まで均整の取れた美しい艦影。
速度と火力を兼ね備えたそれらの巡洋戦艦は、ドイツ海軍士官たちから特に高い評価を受けていた。
戦艦よりも細長い船体。
低く構えた艦橋。
そして、艦首から艦尾まで均整の取れた美しい艦影。
速度と火力を兼ね備えたそれらの巡洋戦艦は、ドイツ海軍士官たちから特に高い評価を受けていた。
しかし、軍港で最も目を引くのは、港の奥に停泊する一隻の新鋭戦艦であった。
プロイセン級戦艦1番艦
大洋艦隊旗艦「フリードリヒ・デア・グローセ」。
全長258メートル、満載排水量5万トンを超える巨体。
42センチ連装主砲4基8門。
厚い装甲帯と近代的な射撃指揮設備を備えた、帝国海軍最大級の戦艦である。
その船体は周囲の戦艦群より一段と大きく、艦橋は港内の倉庫群を見下ろすようにそびえていた。
艦尾に掲げられた帝国海軍旗が、朝風を受けてゆっくりとはためいている。
この艦は、ドイツ帝国が長年にわたって進めてきた海軍拡張計画の到達点の一つであった。
英国海軍の新鋭戦艦に対抗するため、より大きな主砲を搭載し、より厚い装甲を備え、より遠くの敵を正確に撃つことを目指して建造されたのである。
今年の8月に竣工したばかりの最新鋭艦。
試射を終えたばかりの巨大な主砲が実戦で敵艦へ向けて発射されたことはまだない。
しかし、それは港内に並ぶほかの戦艦も同じであった。
欧州では10年前から幾度となく戦争の危機が訪れていた。
バルカン半島では民族対立が続き、列強は同盟と外交交渉を繰り返してきた。
それでも、欧州全土を巻き込む全面戦争だけは回避され続けていた。
各国は軍備を増強しながら、同時に戦争を避けようとしていたのである。
英国は世界最大の海軍力を維持するために戦艦を建造した。
ドイツは英国に対抗するため、さらに大きな戦艦を建造した。
英国が新しい巡洋戦艦を進水させれば、ドイツもまた新しい巡洋戦艦を建造する。
その競争には、終わりが見えなかった。
港内の静寂を破って、短い汽笛が鳴った。
1隻の補給艇が岸壁を離れ、戦艦群の間をゆっくりと進んでいく。
艦上では水兵たちが朝の作業を始めていた。
甲板を磨く者。
係留索を点検する者。
砲塔の外面を拭き上げる者。
艦内の厨房では、すでに朝食の準備が進んでいた。
造船所の方角からは、金属を打つ乾いた音が聞こえてくる。
やがて工廠の汽笛が長く鳴り響いた。
午前6時。
ヴィルヘルムスハーフェン軍港の一日が始まった。
それは、昨日までと何も変わらない朝であるように思われた。
-1924年9月9日 午前6時15分-
ドイツ帝国 大洋艦隊旗艦「フリードリヒ・デア・グローセ」艦上
「おはようございます、大尉」
背後から声をかけられ、若い士官が振り返った。
「おはよう、ミュラー兵曹長」
フリードリヒ・フォン・ヴェーバー海軍大尉。
27歳。
この艦の砲術士官である。
背は高く、髪は短く整えられ、制服の襟元には一分の乱れもなかった。
海軍士官としてはまだ若かったが、砲術に関しては優秀な成績を収めており、上官からの信頼も厚かった。
彼は艦橋の近くの甲板に立ち、朝日に照らされ始めた軍港を眺めていた。
「第三砲塔の調整は終わったか?」
「はい。昨夜、旋回機構の点検を終えました」
「昨日は右旋回の速度が少し遅かったな」
「油圧装置の調整を行いました。今朝の試験では異常ありません」
「よろしい。午前の訓練で再確認しよう」
「了解しました」
兵曹長は敬礼すると、艦内へ戻っていった。
ヴェーバーは再び軍港を見渡した。
朝日に照らされた戦艦群は、まるで鋼鉄の城塞が海上に浮かんでいるようであった。
彼はこの光景を好んでいた。
海軍兵学校に入学した頃から、いつか大洋艦隊の戦艦に勤務することを夢見ていた。
そして今、帝国海軍最大級の戦艦に乗り、その主砲を扱う士官となっている。
そのことに誇りを感じない日はなかった。
だが、最近は少し違った感情も抱くようになっていた。
これほど巨大な艦隊は、いったい何のために存在しているのだろうか。
無論、答えは分かっている。
ドイツ帝国を守るためである。
しかし、英国海軍の士官たちも同じように考えているはずだった。
英国には英国の海軍があり、ドイツにはドイツの海軍がある。
互いに自国を守るために艦隊を増強し、互いの艦隊を恐れて、さらに新しい軍艦を建造する。
その競争がどこまで続くのか、彼には分からなかった。
「ヴェーバー大尉」
再び声がした。
振り返ると、同じ砲術科に所属するカール・ブラント大尉が立っていた。
「朝から難しい顔をしているな」
「そう見えるか?」
「ああ。まるで英国艦隊が今にも攻めてくるような顔だ」
ブラントは笑った。
「英国艦隊か……」
ヴェーバーは軍港の向こうへ視線を向けた。
「そういえば、英国海軍は北海で大演習を行っていたはずだな」
「先週からだ。かなり大規模な演習らしい」
「「フッド」も参加しているのか?」
「当然だろう。英国海軍があの艦を使わない理由がない」
英国巡洋戦艦「フッド」。
その名はドイツ海軍士官の間でも有名であった。
42センチ砲を備えた新鋭ドイツ戦艦と、32ノットを発揮する英国が誇る高速巡洋戦艦。
両者の性能比較は、士官食堂でもたびたび話題に上っていた。
「「フッド」の速力は30ノットを超えるそうだな」
「英国の公表値が正しければ、だが」
「我が艦は良くても26ノット程度が限界だな」
「装甲も相当に強化されていると聞く」
「しかし、我が艦の四十二センチ砲に耐えられるとは思えん」
ブラントは自信ありげに言った。
ヴェーバーは小さく笑った。
「相手も同じことを考えているだろうな」
「何を?」
「我々の戦艦が、「フッド」の15インチ砲に耐えられるかどうかを」
「なるほど」
ブラントは笑った。
「それなら、いつか演習で確かめてみたいものだ」
「英国と合同演習でもするのか?」
「それが無理なら、戦場で、ということになるな」
冗談めかした言葉だった。
しかし、ヴェーバーはすぐには笑わなかった。
「できれば、演習で済ませたいものだ」
彼がそう言うと、ブラントも表情を和らげた。
「……そうだな」
二人はしばらく港を眺めていた。
遠くでは、補給艇が戦艦の舷側に近づいている。
港内は相変わらず穏やかであった。
-同日 午前7時-
ドイツ帝国 大洋艦隊旗艦「フリードリヒ・デア・グローセ」士官食堂
士官食堂には、焼きたての黒パンとコーヒーの香りが漂っていた。
長い食卓には白い皿が並び、数人の士官が朝食をとっていた。
給仕の水兵が銀色のコーヒーポットを持ってテーブルの間を歩き、壁際の時計が規則正しく時を刻んでいる。
開け放たれた小窓からは、港内を行き交う小型艇の汽笛が聞こえてきた。
いつもと変わらない朝であった。
「そういえば、英国の演習が中止されたという話を聞いたか?」
ブラント大尉がパンをちぎりながら言った。
「中止?」
ヴェーバー大尉が顔を上げた。
「ああ。昨日、通信科の連中がそんな話をしていた」
「何か事故でもあったのか?」
「さあな。詳しいことは分からん」
ブラントは肩をすくめた。
「これに関係するのか?」
机の上の朝刊をとった。『軍艦沈没、国際列車脱線。相次ぐ悲劇』見出しにはそう書かれていた。
「軍艦?」
「オーストリアの巡洋艦らしい」
向かい側に座っていた若い士官が口を挟んだ。
「私は英国の巡洋艦だと聞きましたが」
「いや、オーストリアだそうだ」
「本当ですか?」
「だから噂だと言っているだろう、この新聞だって外国軍艦としか書いてない。あてにはならん。」
ブラントが苦笑した。
ヴェーバーは黙ってコーヒーを口に運んだ。
ここ数日、欧州の情勢が緊迫していることは、誰もが知っていた。
オーストリアとセルビアの対立。
ウィーンでの政治的混乱。
そして、ドーバー海峡での軍艦沈没。
しかし、軍艦の乗組員たちが知っている情報は、新聞や人づてに聞いた断片的なものばかりであった。
軍港には新聞が届いていたが、掲載されている記事も必ずしも詳しいものではなかった。
事件の発生時刻も、原因も、犠牲者の数も、記事によって異なっていた。
「そういえば、セルビアでも何かあったそうですね」
先ほどの若い士官が言った。
「何かとは?」
「列車が爆破されたとか」
「爆破?」
「はい。ベオグラードの近くだそうです。外交官が乗っていたという話もあります」
「どこの外交官だ?」
「そこまでは……」
若い士官は困ったように笑った。
「港の食堂で聞いただけですから。それに新聞では、ただの脱線事故だと書いてます」
ブラントが呆れたように首を振った。
「軍港の食堂ほど当てにならん情報源もあるまい」
食卓に小さな笑いが起こった。
「先週はロシア軍が国境を越えたという噂まであったぞ」
「それは本当なのか?」
「知らん。誰も確かめていない」
再び笑い声が上がった。
だが、ヴェーバーだけは笑わなかった。
彼は窓の外に目を向けた。
港内には、灰色の巨大な戦艦群が静かに停泊している。
これほどの艦隊が存在しているにもかかわらず、乗組員たちは欧州で何が起きているのか、ほとんど知らない。
新聞に書かれた数行の記事。
港の食堂で交わされる噂話。
通信科の水兵が何気なく漏らした一言。
それらが、彼らにとっての欧州情勢のすべてであった。
「ヴェーバー、どうした?」
ブラントが尋ねた。
「いや……」
ヴェーバーはコーヒーカップを置いた。
「もし本当に英国の演習が中止されたのなら、少し気になると思ってな」
「何がだ?」
「英国海軍が、演習を途中で切り上げるほどの事件が起きたということだ」
ブラントは少し考えた。
「まあ、そうだな」
「だが、我々には何も知らされていない」
「上の連中は知っているのかもしれん」
「だろうな」
ヴェーバーは小さく頷いた。
そのとき、士官食堂の扉が開いた。
「ヴェーバー大尉、ブラント大尉」
伝令士官が立っていた。
「艦長がお呼びです。至急、艦長室へ」
二人は顔を見合わせた。
「何事だ?」
「詳しいことは伺っておりません」
伝令士官は姿勢を正した。
「ただ、艦隊司令部から連絡が入ったとのことです」
ヴェーバーは椅子から立ち上がった。
ブラントもそれに続く。
食堂を出る直前、ヴェーバーはもう一度、窓の外を振り返った。
港内の戦艦群は、相変わらず静かに停泊していた。いつも通りの朝の景色。
しかし、その静けさがいつまで続くのか。
彼には、なぜか分からなかった。
-1924年9月9日 午前7時15分-
ドイツ帝国 ヴィルヘルムスハーフェン軍港・大洋艦隊司令部3階 艦隊司令部第1会議室
士官食堂で乗組員たちが噂話を交わしていた頃、軍港内の艦隊司令部では、すでに緊急会議の準備が進められていた。
長い会議卓の中央には北海の海図が広げられている。
ドーバー海峡、ヘルゴラント島、英国東岸、そしてヴィルヘルムスハーフェン。
海図上には各国海軍の推定位置を示す小さな標識が置かれていた。
大洋艦隊司令長官アルブレヒト・フォン・ハルデンベルク海軍大将は、窓際に立っていた。
一般の乗組員たちが新聞や噂からしか事件を知らない一方で、司令部にはすでに複数の正式報告が届いていた。
9月7日のドーバー海峡巡洋艦爆沈事件。
9月8日のベオグラード国際列車爆破事件。
そして、ウィーンで発生した外交高官暗殺事件。
どれも単独であれば、外交問題として処理できたかもしれない。
しかし、それらがわずか数日の間に続けて発生したことが、事態を複雑にしていた。
「司令長官閣下」
参謀長が入室した。
「ベルリンから新しい報告が届きました」
ハルデンベルクは振り返った。
「読んでくれ」
参謀長は電報用紙を取り出した。
「英国政府は、ドーバー海峡での巡洋艦爆沈事件について調査を継続しております。一方、我が国の潜水艦が付近に存在した可能性について、英国海軍内部で疑念が生じているとのことです」
ハルデンベルクの表情が険しくなった。
「……やはり、そうなったか」
彼は海図へ視線を戻した。
乗組員たちの知らないところで、ドイツ大洋艦隊はすでに欧州の政治的危機の中心へ近づきつつあった。
「潜水艦からの報告は?」
「9月8日午前1時頃、海軍司令部に届いております」
「内容をもう一度」
参謀長は別の電報用紙を取り出した。
「9月7日午前10時40分頃、ドーバー海峡において大規模な爆発を確認。爆発した艦はオーストリア=ハンガリー海軍巡洋艦「ザンクト・ゲオルク」と推定。爆発原因不明。現場付近に英国艦艇が存在する可能性を考慮し、潜水艦は海域を離脱」
ハルデンベルクは黙った。
「艦長は、我が潜水艦が疑われる可能性を考慮したようです」
「それは理解できる」
司令長官は静かに答えた。
「しかし、離脱したこと自体が疑惑を招く可能性もある」
「はい」
「英国は潜水艦の存在を確認しているのか?」
「現時点では不明です」
「つまり、我々は英国が何を知っているのかさえ分からんということか」
参謀長は頷いた。
ハルデンベルクは窓の外を見た。
港内には、巨大な戦艦群が並んでいる。
その艦隊を率いることが、彼の任務であった。
しかし、今彼が恐れているのは、英国海軍の砲弾ではなかった。
誤解である。
英国がドイツを疑い、ドイツが英国を疑う。
そして、互いの行動を敵意と受け取る。
その連鎖が始まれば、誰にも止められなくなるかもしれない。
その時、どちらが相手よりも先に動く事が出来るか。相手よりも先に艦隊を出して、相手を押さえる。戦略の基本だった。
「各戦隊に通達せよ」
「はっ」
「通常の訓練出港は当面延期する。燃料、弾薬、通信設備の点検を進め、必要ならば短時間で出港できる態勢を整えさせろ」
「出撃命令ではないのですね?」
「違う」
ハルデンベルクは明確に答えた。
「今、艦隊を動かせば英国を刺激する」
少し間を置いて、彼は続けた。
「だが、万が一にも事が起きた時に動かせない艦隊では帝国を守れん」
参謀長は敬礼した。
こうして、大洋艦隊は静かに警戒態勢へ移行し始めた。
その命令は、まだ多くの乗組員には詳しく知らされていなかった。
軍港には、相変わらず平穏な朝の光が差していた。
しかし、司令部の窓の内側では、すでに戦争を想定した準備が始まっていた。
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