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序章 第九節「暁の国際列車」 後編

-1924年9月8日 午後5時35分-

オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン バルハウス広場 外務省



 帝国外務省の庁舎が建つバルハウス広場には、夕暮れが近づいていた。

広場を囲む建物は、淡い黄色や灰色の外壁を持ち、窓の周囲には石造りの装飾が施されていた。

庁舎の正面には大きな扉があり、その前には警備の兵士と警官が立っていた。


時折、自動車が到着し、軍服姿の将校や外交官が降りてくる。

彼らは短い挨拶を交わすと、急いで建物の中へ入っていった。


 庁舎内部の玄関広間には、重厚な石柱が並んでいた。

高い天井からは照明器具が吊るされ、壁には皇帝の肖像画が掲げられていた。

大理石の階段には赤い絨毯が敷かれ、その両側には真鍮製の手すりが取り付けられていた。

 階段を上がった先には、長い廊下が続いていた。

廊下の両側には各部局の執務室が並び、扉の横には部署名を示す小さな金属板が掲げられていた。

普段であれば、夕刻には職員の姿も少なくなる。


しかし、この日は違った。


廊下を急ぐ秘書官。

電話交換室から運ばれる連絡票。

暗号電報を収めた封筒。

会議室へ向かう軍人たち。

庁舎全体が、緊急事態の中にあった。


前日には、ドーバー海峡で巡洋艦「ザンクト・ゲオルク」が爆沈した。死傷者多数。

そして今朝、ベオグラード近郊で「ドナウ国際急行」が爆破された。

帝国の外交特使ヴァルトシュタイン伯爵は死亡。

同行していたドイツ陸軍のローゼンベルク大佐も命を落とした。


二つの事件の原因は、まだ完全には解明されていなかった。

しかし、政府内ではすでに強硬な対応を求める声が高まっていた。


-同日 午後6時-

 オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン バルハウス広場 外務省2階 大会議室



 外務省の大会議室は、庁舎の2階の奥にあった。

大きな木製の扉を開くと、奥行きのある部屋が広がっていた。

壁には濃い色の木製羽目板が張られ、その上には歴代の外務高官の肖像画が飾られていた。

天井には漆喰の装飾が施され、中央には大きな照明器具が吊るされていた。

窓には厚いカーテンが掛けられ、夕陽が細く差し込んでいた。

部屋の中央には、長い楕円形の会議机が置かれていた。

机の上には革張りの書類箱、インク壺、吸取紙、鉛筆、そして大量の報告書が並んでいた。


壁際には欧州地図が掛けられていた。

オーストリア=ハンガリー帝国。

ドイツ帝国。

ロシア帝国。

フランス共和国。

大英帝国。

そして、バルカン半島の小国群。

それらの国境線は、地図の上では細い線にすぎなかった。

しかし、その線をめぐって、欧州は10年前にも戦争の瀬戸際まで追い込まれていたのである。


会議室には、帝国外務省の高官、共通陸軍省の代表者、参謀本部関係者、皇帝側近の連絡官が集まっていた。


「諸君」

議長役の外務高官が口を開いた。

「本日は、極めて重大な事態について協議する」

室内が静まり返った。

「昨日、帝国海軍の巡洋艦「ザンクト・ゲオルク」が沈没した」

彼は一通の報告書を掲げた。


「そして本日、ベオグラード近郊で国際急行列車、「ドナウ国際急行号」が爆破され我が国の外交特使が死亡した」

誰も口を開かなかった。

「政府として、今後の対応を検討しなければならない」

軍部代表のカール・フォン・シュトラウス中将が、椅子から身を乗り出した。

「検討するまでもありません」

その声には、明らかな怒りが込められていた。


「帝国は攻撃を受けているのです」

外務高官の一人が尋ねた。

「何者からですか?」

「セルビア王国です」


シュトラウスは即答した。

「国境で発砲事件が起き、我が国の外交官を乗せた列車がセルビア国内で爆破された。さらに海軍巡洋艦が爆沈。これを偶然と考えるのですか?」


「巡洋艦の沈没は、ドーバー海峡で起きた事件です」

別の外交官が指摘した。

「セルビア王国との関連は確認されておりません」

「だから何だというのです!」

中将は机を叩いた。

「敵が我々を攻撃する時、必ず証拠を残すとでも?」


その時、静かな声が響いた。

「シュトラウス中将」

アレクサンダー・フォン・ホーエンフェルト伯爵だった。

彼はゆっくりと立ち上がった。

「怒りは理解できます」

中将が顔を向けた。

「ですが、怒りと証拠は別のものです」

ホーエンフェルト伯爵は、机に置かれた2通の報告書を手に取った。


「まず、巡洋艦の沈没についてです」

彼は1通目を掲げた。

「英国政府は現在、原因を調査しています。艦内事故の可能性も排除されていません。」

シュトラウス中将が反論した。

「だからといって、攻撃の可能性を否定できるわけではない」

「そのとおりです」

ホーエンフェルトは頷いた。

「しかし、攻撃だと断定することもできません」

彼は2通目の報告書を開いた。


「次に、ベオグラードの列車爆破事件です」

会議室の全員が耳を傾けた。

「セルビア警察は爆発物による犯行の可能性を捜査しています。しかし、犯人はまだ特定されていません」

「過激派の文書が発見されたではありませんか」

軍部の将校が言った。

「その文書が犯行に関係する証拠だと確認されたのですか?」

「それは……」

将校は言葉を詰まらせた。

「新聞が報じています」

「新聞は裁判所ではありません」

ホーエンフェルトは静かに言った。


「我々は国家の運命を決めようとしているのです。噂だけで軍を動かすわけにはいきません」

議長役の外務高官が頷いた。

「伯爵の意見には一理ある」


しかし、シュトラウス中将は納得しなかった。

「では、何もしないのですか?」

「何もしないとは言っておりません」

ホーエンフェルトは答えた。

「セルビア政府へ厳重に抗議し、共同捜査を要求するのです」

「共同捜査?」

「はい」

「我が国の外交官が殺されたというのに、セルビア政府と協力するのですか?」

「犯人を特定するためです」

ホーエンフェルトは続けた。

「必要であれば、第三国の立会人を加えてもよい。英国やフランスの外交官に協力を求めることも考えられます」

「そんなことをしている間に、犯人は逃亡するでしょう!」

「ならば、逃亡を防ぐための措置を要求すればよい」

ホーエンフェルトは中将を見据えた。

「軍を動かすことと、犯人を捕らえることは同じではありません」

シュトラウスは黙り込んだ。


伯爵はさらに続けた。

「10年前、我々は戦争を回避しました」

その言葉に、会議室の空気が変わった。

1914年。

サラエヴォ危機。

オーストリア皇太子暗殺。

そして、欧州全体を巻き込む寸前まで進んだ外交危機。 


あの時、各国は最後の段階で妥協した。


しかし、その記憶は、必ずしも人々に平和の大切さだけを教えたわけではなかった。

強硬派の中には、10年前にセルビア側へ譲歩したことこそが、現在の危機を招いたと考える者もいたのである。


「10年前、帝国は確かに譲歩した」

シュトラウスが言った。

「そして今、我々は再び侮辱されている」

ホーエンフェルトは首を振った。

「10年前、我々は欧州を戦争から救ったのです」

「その結果がこれですか!」

中将は声を荒らげた。

「軍艦が沈み、外交官が殺された!」

「だからこそ、冷静でなければならないのです!」

ホーエンフェルトの声も強くなった。

「今ここでセルビアへ軍を進めれば、ロシアが黙っていると思いますか?」

 誰も答えなかった。

「ロシアが動けば、ドイツも動く。ドイツが動けば、フランスも動くでしょう」

伯爵は会議室を見渡した。

「英国が最後まで中立を保つ保証もありません」

沈黙が続いた。


「諸君」

ホーエンフェルトは低い声で言った。

「我々は、たった一つの事件への報復を考えているのではありません」

彼は机の上の欧州地図を指した。

「欧州全体の運命を決めようとしているのです」

 会議は一度中断した。


-同日 午後7時20分-

オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン バルハウス広場 外務省1階 電話交換室


 会議が一時中断された頃、外務省の電話交換室にベルリンからの連絡が入った。

交換室には複数の電話機が並び、交換手たちが忙しく働いていた。

壁には接続先を示す札が掛けられ、机の上には通信記録が積み上げられていた。

電話線の接続が切り替えられるたびに、小さな金属音が響いた。


「ベルリンからです!」

交換手が声を上げた。

「外務科の担当部局へ接続を!」



-同日 午後7時30分-

オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン バルハウス広場 外務省2階 大会議室


 

 会議が再開された。

やがて、連絡を受けた外務高官が会議室へ戻ってきた。

「ベルリンからです」

議長が顔を上げた。

「何と言っている?」

「ローゼンベルク大佐の死亡について、ドイツ政府は強い遺憾の意を表明しています」

「当然だろう」

「また、セルビア王国政府に対し、徹底した捜査と責任ある説明を求める方針です」

シュトラウス中将が頷いた。

「ドイツも、ようやく事態の重大さを理解したようですな」


しかし、外務高官は続けた。

「ただし、現段階ではセルビア政府の直接関与を断定していません」

中将の表情が変わった。

「何?」

「ドイツ政府も、事実関係の確認が必要と考えているようです」

ホーエンフェルトは静かに息を吐いた。

「当然の判断です」

外務高官はさらに報告した。


「ドイツ帝国は、我が政府が今後どのような措置を取るのか、正式な説明を求めています」

議長は頷いた。

「明日、政府首脳へ報告する」

「承知しました」

ホーエンフェルトは席に戻った。

彼は少しだけ安堵していた。

少なくとも、ドイツ政府はまだ即時の軍事行動を求めていない。

このまま慎重な外交を続ければ、事態を収拾できる可能性はある。

そう考えていた。


しかし、彼は知らなかった。

この会議室の外で、自分に対する憎悪がすでに膨れ上がっていることを。



-同日 午後8時45分-

オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン 市内中心部


 ウィーン市内。

夕暮れの街角には、新聞の号外を読む市民たちが集まっていた。

路面電車が通り過ぎるたびに、車輪とレールの擦れる音が響いた。

 喫茶店の窓からは暖かな明かりが漏れ、店内では客たちが新聞を広げていた。

「国際急行列車「ドナウ国際急行号」爆破」

「国際急行爆発、負傷者多数」

「帝国特使、セルビアで死亡」

「ドイツ軍大佐も犠牲に」

「巡洋艦爆沈に続く新たな悲劇」

新聞の見出しは、いずれも刺激的だった。


ある新聞は、セルビア民族主義者の犯行を強く示唆していた。

別の新聞は、ウィーン政府の対応が弱腰であると批判していた。


「政府は何をしている!」

一人の男が叫んだ。

「我々の軍艦が沈み、列車が爆破され、外交官まで殺されたというのに!」

周囲の人々が頷いた。

「セルビアに報復すべきだ!」

「軍を動かせ!」


しかし、その群衆の中には、反対する者もいた。

「待て! まだ犯人は分かっていないだろう!」

「何を言っている!」

「戦争になれば、我々の息子たちが戦場へ行くんだぞ!」

一瞬、群衆が静まった。

だが、別の男が叫んだ。

「だからといって、帝国が侮辱され続けてよいのか!」

怒号が飛び交った。

警官たちは、騒ぎが大きくならないよう警戒していた。


その群衆から少し離れた場所に、一人の男が立っていた。


ヨーゼフ・クラマー。32歳。

かつて帝国軍に勤務していたが、数年前に除隊した男だった。

彼は、民族主義的な政治集会へ頻繁に参加していた。

帝国の威信が失われつつあると信じ、セルビアへの強硬策を求めていた。


クラマーは新聞を握りしめていた。

そこには、ホーエンフェルト伯爵の名前が記されていた。


「緊迫する情勢。外務省穏健派は軍事行動に反対」


「また、この男か……」

低い声だった。

「10年前も、こういう連中が帝国を弱くした」

彼は新聞を折りたたんだ。


「今度こそ、終わらせなければならん」

その言葉を聞いた者はいなかった。



-同日 午後8時25分-

 オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン バルハウス広場 外務省3階 第4執務室



ホーエンフェルト伯爵は、自分の執務室へ戻っていた。

部屋には大きな書斎机が置かれ、その背後には本棚が並んでいた。

本棚には外交史、国際法、条約集、各国の政治情勢に関する書物が収められていた。


机の上には、緑色の覆いが掛けられた電気スタンドが置かれ、その光が書類を照らしていた。

壁には欧州地図と皇帝の肖像画が飾られていた。

窓の外には、夕暮れのバルハウス広場が見えた。


伯爵は、ヴァルトシュタイン伯爵から数日前に受け取った手紙を読んでいた。

そこには、今回のセルビア訪問に対する決意が記されていた。


「今回の交渉が成功すれば、両国の間に新たな信頼を築くことができるでしょう」

ホーエンフェルトは、その一文を何度も読み返した。

「ヴァルトシュタイン……」

彼は小さく呟いた。

「君を死なせるために、送り出したわけではなかった」

秘書官が部屋へ入ってきた。

「伯爵、そろそろお帰りになられては」

「もうそんな時間か」

「はい」


ホーエンフェルトは時計を見た。

午後7時38分。

「明日の会議資料は?」

「準備しております」

「よろしい」

彼は書類を整理した。

「明日は、もう一度説得しなければならんな」

秘書官が尋ねた。

「軍部を、ですか?」

「軍部だけではない」

伯爵は答えた。

「政府全体をだ」

「難しいでしょう」

「分かっている」

ホーエンフェルトは立ち上がった。

「だが、難しいからといって諦めるわけにはいかん」

秘書官は深く頭を下げた。

「伯爵のお考えが、理解されることを願っております」

伯爵は微笑んだ。

「ありがとう」

彼は外套を手に取った。

「明日も忙しくなる。君も早く休みなさい」

「承知しました」

ホーエンフェルトは執務室を出た。


廊下には、まだ多くの職員が残っていた。

彼らは、欧州各地から届く電報の処理に追われていた。

伯爵はその姿を見ながら、静かに歩いた。


彼はまだ、外交によって戦争を避けられると信じていた。



-1924年9月8日 午後9時12分-

 オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン バルハウス広場 外務省前



夜の街には、ガス灯と電灯の明かりが混じり合っていた。

馬車や自動車が石畳の道を行き交い、歩道には仕事帰りの人々が歩いていた。

 

ホーエンフェルト伯爵は、外務省の庁舎を出た。

護衛の警官が一人、少し離れて同行していた。

伯爵は普段、過度な警護を好まなかった。

外交官が市民を恐れて歩くような国であってはならない。

それが彼の考えだった。


「伯爵、お車はこちらです」

護衛が言った。

「ありがとう」

伯爵は頷いた。


その時、道の反対側に一人の男が立っていた。

古びた外套。

深く被った帽子。

ヨーゼフ・クラマーだった。

彼は、伯爵が建物から出てくるのを見つめていた。

周囲の人々は、彼に特別な注意を払っていなかった。


午後9時16分。

伯爵は自動車へ向かって歩き始めた。

護衛が先に進み、車の扉を開けようとした。


その瞬間、クラマーが歩道を横切った。


「ホーエンフェルト伯爵!」


突然の声に、伯爵は振り返った。

「何かね?」

男は立ち止まった。


その顔には、異様な緊張が浮かんでいた。

「あなたは、祖国を裏切った!」

伯爵は眉をひそめた。

「何を言っている?」

「セルビアに譲歩し続けた!」

「君は……」

「その結果が、この惨劇だ!」

護衛が異変に気づいた。

「下がりなさい!」


しかし、遅かった。


午後9時17分。

乾いた銃声が、夜のウィーンに響いた。


パンッ!


伯爵の身体が大きく揺れた。


「売国者が!!」

続いて、二発目の銃声。


護衛が叫んだ。

「銃だ!」

伯爵はその場に崩れ落ちた。

周囲の市民たちが悲鳴を上げた。


クラマーは逃走を図った。

護衛は拳銃を抜き、男を追おうとしたが、まず伯爵の状態を確認する必要があった。

「伯爵!」

彼は倒れた伯爵へ駆け寄った。

「しっかりしてください!」

伯爵の外套には、血が広がっていた。

「誰か! 医師を呼んでくれ!」

周囲の人々が走り始めた。

近くの警官が笛を吹き、通りには騒ぎが広がった。


クラマーは人混みに紛れ、暗い路地へ逃げ込んだ。

しかし、彼が何者なのか、その場では誰も分からなかった。


ただ一つ確かなのは、帝国外務省の有力な外交高官が、首都の中心部で銃撃されたという事実だった。


-同日 午後9時24分-

 オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン バルハウス中央病院


ホーエンフェルト伯爵は、近くの医療施設へ運ばれていた。

白い壁の診察室には、消毒薬の匂いが漂っていた。

窓には白いカーテンが掛けられ、壁際には医療器具を収めた棚が並んでいた。

中央には診察台が置かれ、その周囲で医師と看護師が慌ただしく動いていた。

医師たちは懸命に処置を行った。


しかし、傷は深かった。

伯爵の意識は、時折途切れていた。

護衛の警官が、ベッドの傍らに立っていた。 


「伯爵」

伯爵は、かすかに目を開いた。

「……何が……」

「銃撃されました」

「そうか……」

伯爵は小さく息を吐いた。

「犯人は……」

「現在、警察が捜索しております」

「そうか……」

彼は目を閉じた。

しばらくして、再び口を開いた。

「外務省へ……」

護衛は顔を近づけた。

「はい」

「明日の……会議を……」

「伯爵、今はお休みください」

しかし、伯爵は首を振った。

「伝えてくれ……」

「何をでしょうか」

伯爵は苦しそうに息をした。


「まだ……決めては……ならん……」

護衛は言葉を失った。 


「何を、ですか?」

伯爵は答えようとした。

しかし、その声は次第に弱くなっていった。

「戦争は……」 


そこで言葉が途切れた。

医師が急いで処置を続けた。


だが、伯爵は二度と意識を取り戻さなかった。


1924年午後9時41分

アレクサンダー・フォン・ホーエンフェルト伯爵、死亡。


セルビアとの平和的解決を訴え続けた外交高官は、首都ウィーンで暗殺された。

その死は、翌日の政府協議に重大な影響を及ぼすことになる。


-同日 午後10時05分-

 オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン 外務省3階 第4執務室


ホーエンフェルト伯爵の死亡が伝えられると、庁舎内には衝撃が走った。

「伯爵が……?」

秘書官は信じられないという表情を浮かべた。

「死亡されたのですか?」

報告に来た警官は頷いた。

「はい」

「犯人は?」

「現在、捜索中です」

「何者なのですか?」

「まだ分かりません」


秘書官は机に手をついた。

数時間前、伯爵は明日の会議について語っていた。


軍部を説得する。

政府全体を説得する。

そう言って、外務省を出ていった。

それが最後の会話になった。


「そんな……」

秘書官は呟いた。

「伯爵は、ただ戦争を避けようとしていただけなのに……」


同じ頃、外務省の高官たちは緊急の連絡を取り合っていた。

「首都で外交高官が暗殺された」

「皇帝側近にも報告せよ」

「内務当局は何をしている?」

「犯人の捜索を続けています」

「セルビアとの関連は?」

「不明です」


しかし、誰かが言った。

「今朝の列車爆破と関係があるのではないか?」

別の高官が答えた。

「その可能性は否定できない」

「だが、証拠は?」

「まだない」

その言葉は、すでに何度も繰り返されていた。


証拠はない。

原因は不明。

犯人は特定されていない。


しかし、帝国の重要人物が次々と命を落としているという事実だけは、誰の目にも明らかだった。



-同日 午後10時05分-

 オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン 外務省2階 第2会議室


 帝都の街路は静まり返っていた。

路面電車の運行も少なくなり、通りを歩く人影もまばらになっていた。

しかし、外務省の庁舎には、まだ明かりが灯っていた。

窓の向こうでは、外交官たちが書類を整理していた。


机の上には、三つの事件に関する資料が並んでいた。



『ドーバー海峡巡洋艦爆沈事件』

『ベオグラード国際列車爆破事件』

『ウィーン外交高官暗殺事件』


一人の若い外交官が、書類を整理しながら呟いた。

「こんなことが、たった二日間で起きるとは……」

隣にいた年配の外交官は、何も答えなかった。

彼は、ホーエンフェルト伯爵が残した報告書を読んでいた。

その最後には、次のように記されていた。


「セルビア政府の責任を問う場合であっても、十分な証拠と外交的な手続きを必要とする。軍事的措置は、あらゆる平和的手段が尽くされた後にのみ検討されるべきである」


年配の外交官は、しばらくその文章を見つめていた。

そして、静かに書類を閉じた。

「伯爵……」

彼は呟いた。


「明日、あなたの言葉を覚えている者は、どれほどいるのでしょうか」

返事はなかった。

外では、ウィーンの街が静まり返っていた。


やがて、時計が0時を告げた。


1924年9月9日。

新たな一日が始まった。


その日、オーストリア=ハンガリー帝国政府は、セルビアに対する今後の対応を本格的に協議することになる。


ドイツ政府もまた、同盟国への支持と欧州全体の安全保障の間で、重大な判断を迫られる。

そして、ロシア、フランス、英国も、この危機をもはや遠いバルカン半島だけの問題として扱うことはできなくなっていた。


10年前、欧州は戦争を回避した。

しかし、10年後の今。

再び、各国は同じ岐路に立とうとしていた。


誰もが自国の正義を信じていた。

誰もが相手国の意図を疑っていた。

そして、誰もが、まだ引き返せると考えていた。


だが、その道は、すでに狭くなり始めていた。


-序章 第九節「暁の国際列車」終-

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