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序章 第九節「暁の国際列車」 中編

-1924年9月8日午前8時42分-

セルビア王国 ベオグラード近郊



ドォォンッ!



激しい爆発が、国際急行列車の車体を内側から引き裂いた。


1等客車の一角で窓ガラスが一斉に砕け、木製の内装が吹き飛んだ。

真鍮製の荷物棚が歪み、座席の布地が裂け、床板が跳ね上がった。

天井の照明器具が落下し、電線が火花を散らした。

隣接する車両にも衝撃が伝わり、連結部が激しく軋んだ。

1両が脱線し、後続の車両も大きく傾いた。


「非常制動!」

機関車の運転台で、助手が叫んだ。

機関士は直ちにブレーキを操作した。

車輪が線路を擦る甲高い音が響き、列車は激しく振動した。

機関車はようやく停止したが、後方では黒煙が上がり始めていた。

「何が起きた!」

機関士が叫んだ。

火夫は運転台の窓から後方を見た。

「客車が……!」

彼の言葉が途切れた。

煙の向こうに、破壊された車両が見えた。

客車の一部は原形をとどめていなかった。

「機関車の火を落とす準備をしろ!」

機関士は命じた。

「車掌に連絡だ! 負傷者を助けるぞ!」


二人は運転台から降り、線路沿いを後方へ走った。


一等客車の内部は、数分前までの静けさを完全に失っていた。

床にはガラス片と木材が散乱し、破れた座席から綿が飛び出していた。

天井の一部は崩れ、朝の光が不自然な角度から差し込んでいた。


ミヒャエル・ヴァイスは、床に倒れていた。

耳の奥で高い音が鳴り続けていた。

右肩に痛みが走る。

彼はゆっくりと身体を起こした。

「……伯爵?」

声がかすれていた。

目の前には、壊れた座席があった。

その向こうに、ヴァルトシュタイン伯爵が倒れていた。

「伯爵!」

ヴァイスは這うように近づいた。


伯爵の礼服は破れ、胸元には血が滲んでいた。

「しっかりしてください!」

伯爵はかすかに目を開いた。

「……ヴァイス……君か……」

「はい!」

「無事……だったか……」

「私は大丈夫です!」

ヴァイスは必死に答えた。

「今、救助を呼びます!」

伯爵は弱々しく首を振った。

「……よい……」

「そんなことをおっしゃらないでください!」

伯爵は震える手で、ヴァイスの袖をつかんだ。

「交渉の……書類は……」

「あります! ここにあります!」

ヴァイスは散乱した書類を指した。

「そうか……」

伯爵は少しだけ微笑んだ。


「忘れるな……」

「何をですか!」

「相手にも……守るべきものが……ある……」

その言葉は、数分前に伯爵が語っていたものだった。

ヴァイスは涙をこらえながら頷いた。

「はい……!」


伯爵の手から力が抜けた。

「伯爵……?」


返事はなかった。

ヴァイスは、何度もその名を呼んだ。

しかし、伯爵は二度と目を開かなかった。


-同日 同時刻-

 ドナウ国際急行 食堂車


 食堂車では、朝食を取っていた乗客たちが衝撃によって床へ投げ出されていた。

テーブルクロスは引き剥がされ、皿やグラスが砕け散っていた。

温かい珈琲が床へ流れ、割れた食器の破片が散乱していた。

厨房では鍋が倒れ、給仕たちは負傷者の救助に追われていた。


「扉を開けろ!」

一人の乗客が叫んだ。

しかし、車体が歪んだため、扉は容易に開かなかった。

「窓から出るんだ!」

別の男が叫んだ。

給仕の一人が、窓枠に残ったガラスを取り除いた。

「こちらへ!」

乗客たちは互いに手を貸しながら、窓から外へ逃れた。


先ほどまで朝食を取っていた夫婦も、負傷しながら避難していた。

妻は腕から血を流していた。

夫が彼女を支えていた。

「大丈夫か!」

「ええ……でも、何が起きたの?」

「分からない!」

二人は線路脇の草地へ逃れた。

振り返ると、列車の中ほどから黒煙が上がっていた。


 夫は言葉を失った。

数分前まで、彼らはベオグラード観光の話をしていたのである。



-同日 午前8時55分-

 セルビア王国 ベオグラード近郊 事故現場



 近隣の村にいた農民たちは線路から聞こえた轟音に驚き、やがて列車が脱線しているのを見ると、急いで現場に集まり始めていた。

畑で働いていた者。

家畜の世話をしていた者。

朝の市場へ向かっていた者。


彼らは爆発音を聞き、何が起きたのかも分からないまま駆けつけた。


「負傷者を運べ!」

「水を持ってこい!」

「医者を呼べ!」

線路脇には、負傷者が次々と運び出されていた。

一人の農夫が、自分の上着を脱いで負傷者に掛けた。

別の男は、荷馬車を使って重傷者を町へ運ぼうとしていた。

鉄道員たちは、まだ車内に取り残された人々を救出していた。

「この中に人がいる!」

「手を貸してくれ!」

倒れた座席を持ち上げ、壊れた扉をこじ開ける。

救助に使える道具は限られていた。


それでも、人々は懸命に働いた。

国籍を尋ねる者はいなかった。

軍服か私服かを気にする者もいなかった。

目の前で苦しんでいる人間を助けることだけが、彼らの目的だった。


やがて、近くの駅から救援の鉄道員が到着した。

彼らは列車の損傷状況を確認し、後続列車の進入を防ぐための措置を取った。


線路の運行は即時停止された。

救援列車と医療関係者の派遣も要請された。




-同日 午前9時35分-

 セルビア王国 ベオグラード市内 警察庁舎2階 交通科事務室



 石造りの警察庁舎では、朝から慌ただしい動きが続いていた。

建物の入口には制服姿の警官が立ち、廊下には電話のベルが鳴り響いていた。

 壁には市内と周辺地域の地図が掛けられ、机の上には報告書が積み上げられていた。


捜査責任者ミラン・ヨヴァノヴィッチ警部は、鉄道当局から届いた第一報を読んでいた。


「国際急行が爆発……」

彼は顔を上げた。

「機関車の事故か?」

部下が答えた。

「いいえ。爆発は客車で起きたようです」

「客車?」

「はい」

警部は立ち上がった。

「現場へ向かう!」

「了解しました」

「それから、外務省へ連絡しろ」

「外務省ですか?」

「外交使節団が乗っていたのだろう」

「はい」

「ならば、これは国際問題になる」


警部は外套を手に取った。

「犯人がいるのなら、必ず捕らえねばならん」



-同日 午前10時20分-

 セルビア王国 ベオグラード近郊 爆発現場



 現場に着いたヨヴァノヴィッチ警部は、破壊された客車を見つめていた。

 車体の側板は大きく裂け、窓枠は外側へ曲がっていた。

床には焦げた木片と金属片が散乱していた。

「やはり爆発物の可能性が高いな」

警部が言った。

部下は頷いた。

「ただし、詳しい原因はまだ確認できていません」

「分かっている」

警部は周囲を見渡した。

「証拠をすべて記録しろ。勝手に動かすな」

「了解しました」

その時、一人の警官が紙片を持ってきた。


「警部、これを」

「何だ?」

「客車の残骸から見つかりました」


紙には、セルビア民族主義を訴える文章が印刷されていた。


警部は眉をひそめた。

「これだけで犯人が分かるわけではない」

「ですが、過激派の宣伝文書では……」

「乗客の誰かが持っていた可能性もある」

警部は厳しい声で言った。

「証拠と推測を混同するな!」

部下は頷いた。


しかし、この紙片の存在は、やがて新聞記者たちの耳に入ることになる。




-同日午前11時15分-

 オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン 帝国外務省 本部庁舎



 バルハウス広場に面した庁舎の内部では、朝から電報の処理が続いていた。

高い天井。

重厚な木製の扉。

磨き上げられた床。

壁には歴代の外交官や皇帝の肖像画が飾られていた。

廊下には厚い絨毯が敷かれ、職員たちの足音を吸収していた。


しかし、その静かな建物の内部に、突然、緊急の知らせが届いた。


「ベオグラードからです!」

若い秘書官が、電報を手に執務室へ駆け込んだ。

アレクサンダー・フォン・ホーエンフェルト伯爵は、机から顔を上げた。

「何事だ?」

「国際急行列車が爆発したとのことです!」

伯爵は立ち上がった。

「何だと?」

「昨日夜にウィーン西駅を発車した、ドナウ国際急行号です!ヴァルトシュタイン特使団が乗車していました!」


ホーエンフェルトは電報を受け取った。

その顔から血の気が引いた。

「ヴァルトシュタインは?」

「安否不明です」

「ドイツのローゼンベルク大佐は?」

「同じく確認中です」

伯爵は椅子に腰を下ろした。


机の上には、前日の「ザンクト・ゲオルク爆沈事件」に関する報告書が置かれていた。


その隣に、新たな電報が置かれた。

二日間で、帝国は二つの重大事件に見舞われた。

伯爵はしばらく黙っていた。


やがて、静かに言った。

「セルビア政府へ正式に照会する」

「はい」

「救助と捜査への協力を求めるんだ」

「承知しました」

「ただし、責任を断定するような文言は入れるな」

秘書官は驚いた。

「ですが、伯爵……」

「まだ何も分かっていない」

ホーエンフェルトは答えた。

「我々は外交官だ。怒りで判断してはならん」



-同日 午前11時50分-

ドイツ帝国 ベルリン 参謀本部2階 大会議室



 参謀本部では、昨日から緊急の会議が開かれていた。

広い会議室には、欧州各国の軍用地図が掲げられていた。

壁際には書類棚が並び、中央には大きな長机が置かれていた。

机の上には、バルカン半島の地図が広げられていた。

赤と青の鉛筆で、国境線や主要鉄道路線が記されていた。

隣には昨日の巡洋艦爆沈事件の報告書と今朝市内で配られていた新聞の号外が置かれていた。


 軍服姿の将校たちは、ベオグラードから届いた緊急報告書を読んでいた。 


「ローゼンベルク大佐が死亡?」

一人の将軍が尋ねた。

「はい。現地からの報告で確認されました」


会議室が静まり返った。

「犯人は?」

「不明です」

「セルビア政府の関与は?」

 フリードリヒ大尉が口を開いた。

「閣下」

「何だ?」

「この事件を理由に軍事的な圧力を強めれば、ロシアを刺激する恐れがあります」

将軍は頷いた。

「分かっている」

「オーストリア側にも慎重な対応を求めるべきではないでしょうか」

「その意見は政府へ伝える」

将軍は机の上の地図を指した。

「だが、我々も準備を怠るわけにはいかん」


会議室には、再び重苦しい沈黙が広がった。



-同日 午後5時10分-

 セルビア王国 王都ベオグラード 市内中心地



 サヴァ川とドナウ川の合流地点に広がる王都の街は、夕暮れの光に包まれていた。

カレメグダンの要塞からは、二つの川を見下ろすことができた。

市内の通りには商店や喫茶店が並び、路面電車が走っていた。


しかし、その日の街には普段とは異なる緊張感が漂っていた。

新聞売りたちは、国際列車爆破事件の号外を売っていた。


「国際急行大爆破!」

「多数の死傷者!」

「オーストリア外交官死亡!」

人々は新聞を買い求め、事件について語り合っていた。


 売り子の傍らには帝国巡洋艦爆沈事件が正面に載った夕刊が煩雑に投げ捨てるように置かれていた。


「誰がやったんだ?」

「分からない」

「またオーストリアとの関係が悪くなるぞ」

「戦争になるのか?」

その問いに、誰も答えられなかった。


同じ頃、臨時救護所ではヴァイスが窓の外を見つめていた。

彼の右肩には包帯が巻かれていた。

机の上には、爆発現場から回収された外交書類が置かれていた。

伯爵が最後まで気にかけていた書類だった。


ヴァイスは、その一枚を手に取った。

そこには、国境問題の平和的解決を目指す提案が記されていた。

「伯爵……」

彼は呟いた。

「あなたの言葉を、必ず伝えます」


しかし、ウィーンではすでに、別の動きが始まっていた。


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