序章 第九節「暁の国際列車」 前編
-1924年9月8日-
ドーバー海峡でのオーストリア=ハンガリー帝国巡洋艦爆沈事件から、わずか1日。
欧州各国が事故の真相究明と外交的な対応に追われるなか、バルカン半島では新たな悲劇が起ころうとしていた。
時は少し遡る。
-1924年9月7日、午後8時45分-
オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン
秋の気配が近づき始めた帝都ウィーンには、夕暮れの冷たい風が吹いていた。
環状道路を走る路面電車が金属音を響かせ、石畳の上を自動車と馬車が行き交っていた。
街路に並ぶ建物は、かつての帝国の繁栄を今も誇示しているようだった。
華麗な装飾を施された劇場、巨大な石柱が支える官庁、広場に面した宮殿のような集合住宅。
街角の喫茶店では、新聞を広げた紳士たちが、濃い珈琲を飲みながら欧州情勢について議論していた。
しかし、その日の話題は一つに集中していた。
ドーバー海峡での巡洋艦爆沈事件である。
前日のことではない。
わずか10時間ほど前、帝国海軍の装甲巡洋艦「ザンクト・ゲオルク」が英国近海で大爆発を起こし、沈没したのだった。
事故の詳細はまだ分からない。
生存者の証言も十分には集まっていなかった。
本来なら今日の午後「ザンクト・ゲオルク」は英国のポーツマス軍港に入港するはずだった。
しかし、夕方になっても連絡がなく海軍が英国外務省に確認したところ事態が発覚したのだった。
海軍も外務省も詳しいことは分からなかった。
それでも、事態を聞き付けた帝都の新聞社は競うように夕刊の新聞の発行を取り止めてまで情報を集め、号外を発行していた。
「我が帝国軍艦、英国近海で沈没!」
「ドーバー海峡にて大爆発!」
「敵国の破壊工作か!」
「付近に謎の潜水艦!」
その見出しは、市民の不安を刺激するには十分だった。
一方、帝都のウィーン西駅では、翌朝ベオグラードに到着する国際急行列車の発車準備が進められていた。
-同日 同時刻-
オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン ウィーン西駅
ウィーン西駅は、帝都と西方・南方の都市を結ぶ重要な鉄道拠点であった。
巨大な屋根を支える鉄骨の梁が、何本もの線路を覆っている。
屋根の高い位置には煤で黒ずんだガラス窓が並び、その下を蒸気機関車の煙がゆっくりと漂っていた。
駅構内には石炭の匂いと、熱せられた油の匂いが満ちていた
1番線には帝国が誇る夜行国際急行「ドナウ国際急行」が停車していた。
ウィーンからブダペストを経て、セルビア王国の首都ベオグラードへ至るこの列車は、ドナウ川流域の三つの都を結ぶ国際交通の象徴だった。
その濃紺の寝台車には、金色の文字で「DONAU-EXPRESS」と記されていた。
先頭には、大きな動輪を備えた黒い蒸気機関車。
その後方には、石炭と水を積む炭水車が連結されている。
機関車の煙室扉には丸い番号板が取り付けられ、側面には帝国鉄道の標章が掲げられていた。
運転台では機関士と火夫が、出発前の点検を続けていた。
火夫が焚口戸を開くと、火室の内部から赤々とした光が漏れた。
彼は長いシャベルで石炭をすくい、燃え盛る火床へ投げ入れた。
黒い石炭が炎の中へ落ち、火の粉が舞い上がる。
「蒸気圧は?」
機関士が尋ねた。
「十分です」
「給水装置は?」
「異常ありません」
機関士は圧力計を確認すると、運転台の窓から後方を振り返った。
機関士は圧力計を確認すると、運転台の窓から後方を振り返った。
長い列車の側面には、等間隔に客室の窓が並んでいた。
編成は、機関車と炭水車の後方に荷物車、1等客車、寝台車、食堂車、2等客車、3等客車を連結したものである。
国境を越える長距離列車らしく、車体の側面には行先を記した金属製の表示板が取り付けられていた。
WIEN — BUDAPEST — BELGRAD
その文字を、乗客たちは出発前に何度も確認していた。
1等客車と寝台車は濃い色の塗装で統一され、窓枠や扉の金具は丁寧に磨かれていた。
一方、3等客車は設備が簡素で、窓からは木製の座席が見えた。
それでも、この列車は帝国の主要都市を結ぶ国際急行である。
鉄道員たちは、発車時刻を守るために忙しく働いていた。
-同日 同時刻-
オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン ウィーン西駅1番線ホーム ドナウ国際急行 1等客車
1等客車の内部は、駅の喧騒とは対照的に静かだった。
細長い通路の片側に、いくつもの個室が並んでいる。
各個室には向かい合わせの座席が設けられ、厚い布張りの背もたれが乗客の身体を包み込むようになっていた。
座席の上には金属製の網棚があり、革製の旅行鞄や帽子箱が置かれていた。
壁には木目の美しい化粧板が張られ、扉の上には曇りガラスがはめ込まれていた。
天井の電灯は柔らかな光を落とし、客室全体を暖かく照らしていた。
その一室102号室に、フランツ・フォン・ヴァルトシュタイン伯爵が座っていた。52歳。
彼は膝の上に新聞を広げ、ドーバー海峡の事件についての記事を読んでいた。
向かい側には、若い外交官ミヒャエル・ヴァイスが座っている。27歳。
ヴァイスは書類鞄から分厚い資料を取り出し、机の上に並べていた。
「伯爵、こちらが明日の会談で使用する資料です」
「うむ」
伯爵は新聞を折りたたんだ。
「国境事件の報告書か」
「はい。現地軍司令部からのものと、セルビア政府からのものを比較してあります」
伯爵は書類を受け取った。
「随分と内容が違うな」
「双方とも、自国側に責任はないと主張しています」
「当然だろう」
伯爵は苦笑した。
「だからこそ、我々が現地へ向かうのだ」
窓の外では、駅員が台車に積まれた乗客の荷物を荷物車へ運んでいた。
蒸気機関車が短く汽笛を鳴らした。
伯爵は時計を見た。午後8時55分。
「伯爵、今回の交渉は成功するでしょうか」
伯爵はしばらく考えた。
「成功するかどうかは分からん」
「そうですか……」
「だが、成功させるために努力することはできる」
「外交官にできるのは、それだけだ」
列車は定刻通り出発した。ゆっくりと徐々に速度を上げながらウィーン西駅を離れていく。
このときはまだ、この名高い列車が欧州全土の新聞を飾ることになるとは、乗客の誰一人として想像していなかった。
-同時 午後9時-
オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン郊外
ドナウ国際急行 寝台車
外交使節団の一部には、寝台車の個室が割り当てられていた。
寝台車の通路は狭く、床には厚い絨毯が敷かれていた。
壁には磨き上げられた木製の化粧板が張られ、真鍮製の取っ手が電灯の光を反射していた。
各個室には、夜間に寝台へ転換できる座席が設けられていた。
乗務員は乗客の希望に応じて寝具を整え、枕と毛布を用意していた。
洗面設備は小さかったが、長距離旅行者にとっては十分に便利なものだった。
寝台個室の一室ではドイツ陸軍のローゼンベルク大佐が個室の窓際に立っていた。47歳。
彼の上着は壁の衣服掛けに吊るされ、机の上には軍用地図と手帳が置かれていた。
同行する若い将校が、扉を軽く叩いた。
「大佐、失礼します」
「入りたまえ」
「ベルリンからの書類をお持ちしました」
「ご苦労」
大佐は書類を受け取った。
「オーストリア軍の現地報告か」
「はい」
「明日、ベオグラード到着後に確認しよう」
若い将校は頷いた。
「大佐、少しよろしいでしょうか」
「何だね」
「今回の任務についてです」
ローゼンベルクは椅子に腰を下ろした。
「言ってみたまえ」
「セルビアとの情勢は、戦争に発展するのでしょうか」
大佐はすぐには答えなかった。
窓の外では、蒸気が白く立ち上っていた。
「可能性はある」
「やはり……」
「だが、可能性があることと、必ず起こることは違う」
大佐は地図を指した。
「セルビアとオーストリアが戦争になれば、ロシアが介入する可能性がある」
「はい」
「そうなれば、ドイツも無関係ではいられん」
若い将校は黙り込んだ。
「だからこそ、我々は現地の状況を正確に把握しなければならない」
「承知しました」
「噂ではなく、事実を見るのだ」
ローゼンベルクは地図を閉じた。
「軍人が誤った情報で判断すれば、多くの人間が死ぬことになる」
その言葉に、若い将校は深く頷いた。
-同日 午後9時10分-
オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン西駅1番線 ドナウ国際急行
「前方確認!信号、出発よし」
「後方よし!」
機関士と火夫が声をあげた。
「出発進行!」
機関車が長く汽笛を鳴らすと、車輪がゆっくりと回転し始めた。
連結器が順番に引き伸ばされ、客車が小さく揺れた。
窓の外では、駅のホームが少しずつ後方へ流れていく。
やがて列車は帝都の灯を離れ、夜の田園地帯へ入っていった。
列車は定刻通り出発した。しかしまだこの時はこの名高い列車が欧州全土の新聞を飾ることになるとは、乗客の誰一人として想像していなかった。
-同日 午後10時30分-
オーストリア帝国 ブラチスラバー郊外 ドナウ国際急行 食堂車
食堂車では、遅い夕食を取る乗客たちの姿があった。
白いテーブルクロス。
小さな花瓶。
銀色の食器。
ガラス製の水差し。
客車の揺れに合わせて、卓上のグラスがわずかに震えていた。
給仕は黒い上着に白い前掛けを着用し、狭い通路を器用に歩いていた。
料理は簡素なものから比較的豪華なものまで用意されていた。
温かいスープ、肉料理、パン、珈琲。
長距離列車の食堂車は、単なる食事の場所ではなく、異なる国籍の人々が同じ空間で過ごす場所でもあった。
窓際の席では、商人らしい二人の男が会話していた。テーブルには駅前で配られていた新聞の号外がおいてある。
「巡洋艦の事件を聞いたか?」
「もちろんだ」
「英国近海で沈んだそうじゃないか」
「原因は何だ?」
「さあな。新聞では潜水艦が攻撃とか、敵国の破壊工作の可能性があると書いていた」
「また戦争になるのかね」
一人が低い声で言った。
「10年前は何とか避けられたが……」
その会話を、近くの席にいたヴァイスが聞いていた。
彼は珈琲の入ったカップを手に取り、窓の外を見た。
暗闇の向こうには、遠くの村の明かりが点々と見えていた。
列車は一定の速度で走り続けている。
客車の床からは、規則正しい振動が伝わっていた。
ガタン、ガタン。
ガタン、ガタン。
その音は、不思議なほど心を落ち着かせた。
ヴァイスは、明日の交渉が無事に終わることを願っていた。
―1924年9月8日午前1時20分-
ハンガリー王国 ブダペスト ブダペスト中央駅3番線
国際急行列車は、日付が変わった深夜のブダペストに到着した。
ドナウ川を挟んで広がる帝国第二の都は、すでに眠りについていた。
川沿いには壮麗な国会議事堂の尖塔がそびえ、対岸のブダの丘には王宮の巨大な輪郭が浮かんでいた。
ホームに立つ駅員が手旗を持ち、到着した列車の各車両を確認している。
蒸気機関車の側面には煤が付着し、動輪の周囲には油が光っていた。
長距離運転を終えた機関車は、ここで別の機関車と交代する予定だった。
機関車の交換は、当時の国際列車では珍しいことではない。
各国の鉄道会社や運転区間によって、機関車と乗務員が交代するためである。
機関車が切り離されると、客車全体に小さな衝撃が伝わった。
寝台車では、眠っていた乗客の一部が目を覚ました。
「停車したのか……」
ローゼンベルク大佐は、寝台の上で目を開いた。
カーテンの隙間から、駅の明かりが差し込んでいた。
彼は懐中時計を確認した。
午前1時23分。
予定どおりだった。
廊下では寝台車の係員が、静かな足取りで各個室を巡回していた。
大佐は再び横になった。
遠くで機関車の汽笛が聞こえた。
やがて、連結作業の金属音が響いた。
その後、しばらくして列車は再び動き始めた。
ブダペストの駅舎がゆっくりと後方へ遠ざかっていく。
大佐は目を閉じた。
次に目を覚ます頃には、セルビア国境に近づいているはずだった。
-同日 午前6時15分-
両国国境付近 ドナウ国際急行 車内
ドナウ国際急行は、ハンガリー南部からセルビア王国へ向かう国境地帯に入っていた。
夜の闇は薄れ、東の空が淡い橙色に染まり始めていた。
畑の向こうには小さな農家が点在し、牧草地には朝霧が漂っていた。
列車は国境駅に停車した。
そこでは旅券と税関の検査が行われる。
乗客たちは係員の指示に従い、旅券や旅行書類を準備していた。
1等客車では、ヴァイスが外交旅券を取り出していた。
「伯爵、書類はこちらです」
「ありがとう」
ヴァルトシュタイン伯爵は、眠そうな目をこすりながら受け取った。
「よく眠れましたか」
「列車の揺れには慣れているつもりだったが、昨夜はどうも眠れなかった」
「私もです」
「緊張しているのかね」
「少し」
伯爵は笑った。
「若い頃の私もそうだった」
その時、客室の扉が叩かれた。
「旅券の確認を行います」
係員が現れた。
伯爵は旅券を差し出した。
係員は氏名と写真、外交上の資格を確認した。
「ベオグラードへ向かわれるのですね」
「そうです」
「どうぞ、良い旅を」
「ありがとう」
係員が去ると、ヴァイスは窓の外を見た。
ホームにはセルビア側の警察官と鉄道員が立っていた。
彼らの制服は、ウィーンで見慣れたものとは異なっていた。
掲示板の文字も変わっていた。
国境を越えたのだ。
伯爵は、若い外交官の表情を見て言った。
「ヴァイス君」
「はい」
「ここから先は、我々の言葉一つが外交問題になる」
「承知しています」
「相手国の官吏にも敬意を払うことだ」
「はい」
伯爵は頷いた。
「国境というものは、地図の上では一本の線にすぎない」
そして、窓の外を見ながら続けた。
「だが、その線を守るために、人間は何千人も死ぬことがある」
-同日 午前7時25分-
セルビア王国領内 ドナウ国際急行 食堂車
列車はセルビア国内を南下していた。
食堂車では、朝食の準備が整えられていた。
車内には焼いたパンと珈琲の香りが漂っていた。
窓際のテーブルでは、ローゼンベルク大佐が新聞を読んでいた。
彼の前にはパン、卵料理、珈琲が置かれていた。
若い将校が向かい側に座っていた。
「大佐、よくお休みになれましたか」
「まずまずだ」
「ベオグラード到着後の予定ですが」
「まずはオーストリア公使館へ向かう」
「はい」
「その後、現地の軍事情勢について説明を受ける」
大佐は新聞を折りたたんだ。
「ただし、セルビア軍に不必要な警戒心を抱かせるような行動は慎むことだ」
「承知しました」
食堂車の反対側では、旅行中の夫婦が朝食を取っていた。
夫は新聞を読み、妻は窓の外の景色を眺めていた。
「もうすぐベオグラードね」
「そうだな」
「初めて行く街だから、楽しみだわ」
夫は頷いた。
「川の合流地点にある古い街だそうだ」
「お城もあるのでしょう?」
「カレメグダンの要塞が有名らしい」
そんな平凡な会話が、車内のあちらこちらで交わされていた。
誰も、あと一時間ほどでこの列車が惨劇の舞台になるとは考えていなかった。
-同日午前8時35分-
セルビア王国領内 ドナウ国際急行 機関車運転台内
機関士は前方の線路を見つめていた。
運転台の内部は、客車とはまったく異なる世界だった。
火室から伝わる熱。
石炭の粉塵。
油の匂い。
圧力計の針。
弁装置の動きに合わせて響く金属音。
機関士は速度計と線路標識を確認しながら、加減弁を調整していた。
火夫は時折焚口戸を開き、火床の状態を確認していた。
「次の区間は曲線が続きます」
助手が言った。
「分かっている」
機関士は答えた。
「速度を落とそう」
列車は緩やかに減速した。
車輪が継ぎ目を越える音も、少しずつゆっくりになっていった。
機関士は前方の信号を確認した。
進行を示している。
-同日 同時刻-
セルビア王国領内 ドナウ国際急行 1等客車 102号室
ヴァルトシュタイン伯爵は、窓の外を眺めていた。
ベオグラードの郊外には、小さな家々が増え始めていた。
遠くには教会の屋根が見え、畑の間を細い道が走っていた。
ヴァイスは書類を整理していた。
「伯爵、午後の会談ですが……」
「うむ」
「セルビア側の代表者は、共同調査案について前向きな姿勢を示しているそうです」
「それはよい知らせだ」
伯爵は微笑んだ。
「最初から相手を疑っていては、何も始まらん」
「はい」
「ヴァイス君」
「何でしょうか」
「今回の交渉が成功したら、ウィーンへ戻って何をしたい?」
午前8時40分。
「もうすぐだな」
「はい」
ヴァイスは窓の外を見た。
列車は朝の光の中を走っていた。
遠くの空には薄い雲が浮かび、田園には穏やかな風が吹いていた。
そして、午前8時42分。
1等客車の近くで、突然、凄まじい爆発が起きた。
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