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序章 第八節「白亜の海峡に消える」後編


-1924年9月7日午前9時30分-

ドーバー海峡北東方 ドイツ海軍潜水艦「U-47」艦上



 ドーバー海峡から北海へ続く海域を、一隻の潜水艦が航行していた。


 ドイツ帝国海軍潜水艦「U-47」。


ドイツ海軍が新たに建造した新型の中型潜水艦であり、機関性能試験と航海訓練を行っていた。 


 艦長はオットー・ブラームズ海軍少佐。36歳。

 冷静で慎重な性格の士官だった。

 本来は北海南部での潜水試験を予定していたが、付近で英国艦隊の演習が予定されていた。 

その為、予定を変更してドーバー海峡付近での浮上航行試験を行っていた。


海面は比較的穏やかで、見通しも悪くなかった。

 艦橋では、ブラームズ少佐が双眼鏡を手に周囲を警戒していた。


「前方に大型艦らしき艦影」

 見張員が報告した。

「方位は?」

「左40°左舷前方です」

「距離は?」

「正確には分かりませんが、かなり離れています」

 艦長は双眼鏡を向けた。

 遠方には、灰色の大型艦が見えていた。

 二本の煙突と特徴的な上部構造物。


 艦長は首を傾げた。

「英国艦ではないな」

 副長ハインリヒ・クラウス海軍中尉が答えた。

「オーストリアの巡洋艦ではありませんか」

「オーストリア?」

「ザンクト・ゲオルクに似ています」

 ブラームズは再び双眼鏡を覗いた。

「確かに似ている」

「新聞に載ってた英国訪問の途中でしょうか」

「おそらくな」


 艦長は周囲を見渡した。

海峡には商船が行き交っていた。

 英国の沿岸も、遠くに見えている。

「不用意に近づくな」

「了解しました」

「我々は試験航海中だ。外国軍艦に関わる必要はない」

 副長は頷いた。

 潜水艦はそのまま航行を続けた。




-同日 午前9時42分-

 ドーバー海峡 潜水艦「U-47」 艦上



 突然、遠方の巡洋艦から巨大な火柱が噴き上がった。

「爆発!」

 見張員が叫んだ。


 ブラームズ少佐は双眼鏡を目に押し当てた。

 灰色の巡洋艦の前部が、黒煙と炎に包まれていた。

灰色の巡洋艦の前部が、黒煙と炎に包まれていた。

 数秒後、二度目の爆発が起きた。

 艦の一部が吹き飛び、破片が海面へ落下する。

「何だ、あれは……」


 副長が呟いた。

「.....攻撃されたのでしょうか」

「.....分からん」


 ブラームズは双眼鏡を離さなかった。

 遠方の巡洋艦は、明らかに艦首を沈め始めていた。

「魚雷か?」

「水柱は確認できませんでした」

「機雷かもしれん」

 首を振った。

「あるいは、艦内事故だ」

 副長は周囲を見渡した。

「他の軍艦は見えません」

「こちらも確認できん」


 ブラームズは時計を見た。

 午前9時42分。

「航海日誌に記録しろ」

「了解しました」

「時刻、方位、艦影、爆発の状況。すべて正確に書け」

 副長は記録係に命じた。

 艦内にいた潜水艦の乗組員たちも艦内まで響いた轟音によりあわてて艦上に飛び出してきた。 そして、遠方の惨劇を呆然と見つめていた。

 彼らは軍人だった。


 しかし、目の前で大型軍艦が爆沈する光景を実際に目撃した者は、ほとんどいなかった。




-同日 午前9時47分-

 ドーバー海峡 潜水艦「U-47」艦橋



 巡洋艦は、急速に沈み始めていた。

 ブラームズは、双眼鏡を下ろした。

「救助に向かうべきでしょうか」

 副長が尋ねた。

 ブラームズは答えなかった。

 遠方には、すでに商船が針路を変えて事故現場へ向かっているのが見えた。

「商船が向かっている」

「はい」

「我々が近づけば、何が起きると思う」

 副長はしばらく考えた。

「英国側に発見されます」

「その先は?」

「……攻撃したと疑われる可能性があります」

 ブラームズは頷いた。

「そうだ」

 艦長は海面を見つめた。


 外国軍艦が爆沈した現場に、ドイツ潜水艦がいた。

 しかも、英国の重要な海峡である。

 英国海軍がこの事実を知れば、何を考えるだろうか。

 ドイツ潜水艦が魚雷を発射したのではないか。

 そのような疑惑が生まれることは、容易に想像できた。


「我々は何もしていない」

 静かに言った。


「しかし、何もしていないことを証明するのは難しい」

 副長は頷いた。

「では、現場から離れますか」

「そうする」

 ブラームズは命じた。

「針路変更。ドーバー海峡から離れろ」

「了解しました」

「ただし、潜航はまだ必要ない。周囲の状況を確認しながら、通常の航行を続ける」


副長は敬礼した。

 潜水艦はゆっくりと針路を変えた。

 その背後で、ザンクト・ゲオルクは海中へ沈んでいった。


 ブラームズは最後に一度だけ振り返った。

 黒煙が、海峡の空へ立ち上っていた。



-同日 午前10時35分-

 海峡南部  潜水艦「U-47」艦内 艦長室



 艦長室では、ブラームズが航海日誌を確認していた。

 副長が報告した。

「艦長、目撃記録をまとめました」

「読んでくれ」

 副長は文書を開いた。


「午前9時42分、ドーバー海峡付近にて大型巡洋艦の爆発を目撃。艦首付近より火炎と黒煙が噴出。午前9時50分頃、艦は沈没。攻撃艦艇および魚雷航跡は確認できず」


 ブラームズは頷いた。

「よろしい」

「艦名はザンクト・ゲオルクと記載しますか」

「推定と書け」

「了解しました」

我々は艦名を直接確認したわけではない」

 副長は記録を書き直した。

「本国への報告はどうしますか」

「当然、送る」

「今すぐですか」

「いや、まだ早い」

「理由を伺っても?」

「英国沿岸に近すぎる」

 艦長は海図を指さした。

「この海域で無線を発信すれば、英国側に探知される可能性がある」

「暗号を使ってもですか」

「暗号は内容を隠すものであって、電波そのものを消すものではない」

 副長は頷いた。

「では、北海へ出てから送信します」

「そうだ」

 ブラームズは続けた。

「ただし、報告は最優先だ。可能な限り早く本国へ伝える」

 


-同日 午後1時00分-

 北海へ向かう「U-47」艦内



 潜水艦は北東へ向けて航行していた。

 艦内では、乗組員たちが先ほどの事件について話していた。

「本当に沈んだのか?」

 若い水兵が尋ねた。

「ああ。艦首から沈んでいった」

「魚雷だったんでしょうか」

「分からん」

年長の下士官が答えた。

「だが、あれほど大きな爆発なら、弾薬庫が吹き飛んだ可能性もある」

「軍艦って、あんなに簡単に沈むものなんですか」

「簡単ではない」

 下士官は首を振った。

「だからこそ恐ろしいんだ」

 若い水兵は黙り込んだ。


 潜水艦という狭い艦内では、火災や浸水が致命的な事故につながることを、誰もが知っていた。

 彼らにとって、遠方の巡洋艦の爆沈は決して他人事ではなかった。


-同日 午後10時30分-

 北海南部 潜水艦「U-47」艦長室


 ブラームズは、通信士官を呼び出した。

「送信文の準備は?」

「完了しております」

「確認する」

 通信士官は電文を差し出した。


『9月7日午前9時42分、ドーバー海峡付近にて大型巡洋艦の爆発を目撃。艦名はオーストリア=ハンガリー海軍ザンクト・ゲオルクと推定。艦は爆発後沈没。沈没時刻9時53分。原因不明。周辺に攻撃艦艇を確認せず。我が艦は一切の攻撃行動を実施せず』


 ブラームズは文面を読み終えた。

「よろしい」

 そして最後の一文を指さした。

「これは必ず入れろ」

「『我が艦は攻撃行動を実施せず』、ですか」

「そうだ」

 静かに言った。

「我々は事件を目撃した。しかし、関与していない」

「了解しました」

「それを本国に明確に伝える必要がある」

 通信士官は敬礼した。

「送信時刻は?」

「日付が変わる頃を予定する。安全な海域へ出てからだ」

「了解しました」


しばらくして、ブラームズは艦橋に上がった。北海の暗い海面を見つめていた。

 副長が隣に立った。

「艦長、英国側は事件を把握しているでしょうか」

「当然だろう」

「我々の存在も?」

「それは分からん」

 少し考えてから続けた。

「しかし、英国海軍が調査を始めれば、目撃情報が出てくるかもしれない」

「我々を疑うでしょうか」

「可能性はある」

 副長は黙り込んだ。

 艦長は夜空を見上げた。

 ちょうど頭は真上には北十字が見えていた。


「10年前のサラエヴォでの事件を覚えているか」

「はい」

「あの事件も、最初は一人の皇太子が殺されたという知らせだった」

「しかし、欧州全体が戦争寸前まで追い込まれました」

「そうだ」

 ブラームズは静かに言った。

「人間は、事実そのものより、事実をどう解釈するかによって争うことがある」

 副長は海面を見つめた。

「今回も、そうなるのでしょうか」

「そうならないことを願う」

 艦長は答えた。

「我々にできるのは、見たことを正確に報告することだけだ」




-1924年9月8日 午前0時35分-

 北海 潜水艦「U-47」通信室



 日付が変わって間もなく、潜水艦は本国への送信を行う準備を整えた。

 通信室では、無線士が機器を確認していた。

「送信準備完了」

 通信士官が報告した。

 艦内時計を見た。

「暗号は?」

「海軍指定の暗号を使用します」

「送信先は?」

「ドイツ本国の海軍無線局です」

「よろしい」

 艦長は電文をもう一度確認した。

 そして命じた。


「送信せよ」

 無線機が作動した。

 短い電信音が、静かな通信室に響いた。

 電文はドイツ本国へ向けて発信された。

 送信を終えると、通信士官が報告した」


「送信完了しました」

「受信確認を待て」

「了解しました」

 数分後、受信確認が届いた。

「本国無線局、受信を確認しました」

 ブラームズは小さく頷いた。

「これでよい」

 副長が尋ねた。

「本国は、どう判断するでしょうか」

「分からん」


艦長は静かに答えた。

「だが、我々は事実を伝えた」



-同日 午前1時00分-

ドイツ帝国 ベルリン 海軍司令部 当直室



 ベルリンの海軍司令部では、夜間当直の将校が一通の電報を受け取っていた。

 北海方面の無線局から転送された、潜水艦「U-47」の報告だった。

 当直将校フリードリヒ・ケラー海軍少佐は、電文を読み始めた。


 そして、途中で手を止めた。

「何だ、これは……」

 隣にいた士官が顔を上げた。

「少佐、何かありましたか」

「ドーバー海峡で、オーストリアの巡洋艦が爆沈したらしい」

「オーストリアの軍艦が?」

「そうだ」

 ケラー少佐は電文を差し出した。

「しかも、我が潜水艦が現場付近にいた」

 士官は文面を読み、表情を変えた。

「これは……」

「重大な問題だ」


 ケラーは椅子から立ち上がった。

「海軍参謀本部の当直部署へ連絡しろ」

「了解しました」

「電文の写しを至急送れ」

 士官は電話機へ向かった。

 数分後、海軍参謀本部にも報告が届けられた。



-同日 午前1時05分-

ドイツ帝国 ベルリン 参謀本部 当直幕僚室



 当直参謀エーリヒ・フォン・ブラント海軍中佐は、届けられた電文を読み終えた。

「ドーバー海峡で巡洋艦が沈没……」

 彼は顔を上げた。

「原因は?」

「不明です」

「潜水艦による攻撃の可能性は?」

「報告では、攻撃艦艇を確認していないとのことです」

我が艦は?」

「攻撃行動を実施していないと明記しております」

 ブラント中佐は頷いた。

「当然だろう」


 しかし、彼の表情は険しかった。

「問題は英国側がどう考えるかだ」

「我が潜水艦の存在が知られれば、疑われる可能性があります」

「そうだ」

 ブラントは机上の海図を広げた。

「英国沿岸で外国軍艦が爆沈した。その近くにドイツ潜水艦がいた」


 彼は指先でドーバー海峡を示した。

「これだけで、英国の新聞は何を書くと思う?」


 部下は答えなかった。

「ドイツ潜水艦による攻撃疑惑だ。それが試験航行中で魚雷を積んでいない潜水艦だったとしてもだ。」

 ブラントは静かに言った。

「たとえ証拠がなくてもな」

 当直将校が尋ねた。

「上層部へ報告しますか」

「当然だ」

 ブラントは命じた。

「海軍最高指揮部に連絡しろ。必要なら外務省にも情報を共有する」

「了解しました」

「ただし、現段階では憶測を加えるな」


 ブラントは電文を机に置いた。

「我々が知っているのは、巡洋艦が爆発したことと、我が潜水艦がそれを目撃したことだけだ」

 部下は頷いた。



-同日 午前1時20分-

ドイツ帝国 ベルリン 海軍司令部 当直室



ケラー少佐は、海軍参謀本部からの連絡を受けていた。

「参謀本部も事態を重大視しています」

 部下が報告した。

「当然だろう」

「英国政府への連絡は?」

「まだ行うな。まず上層部の判断を待つ」

 ケラーは窓の外を見た。

ベルリンの街は、静かな夜に包まれていた。

 しかし、彼の頭の中には、最悪の事態が浮かんでいた。



 英国がドイツ潜水艦の関与を疑う。

 オーストリア=ハンガリー政府が真相究明を要求する。

 ドイツ政府が疑惑を否定する。

 各国の新聞が互いを非難し、外交交渉が行き詰まる。


 そして、何か別の事件が起きれば――。


 ケラーは首を振った。


「考えすぎかもしれん」

 しかし、胸の奥に生まれた不安は消えなかった。




-同日 午前1時30分-

ドイツ帝国 ベルリン 参謀本部 当直幕僚室



 ブラント中佐は、もう一度電文を読み返していた。

 そこには、潜水艦艦長ブラームズ少佐の報告が記されていた。

『我が艦は当該巡洋艦に対し、いかなる攻撃行動も実施せず』

 ブラントは、その一文を指でなぞった。

「ブラームズ……」

 彼は小さく呟いた。


しかし、仮に報告が完全に正しかったとしても、それだけで疑惑が消えるとは限らない。

 国際政治とは、そういうものだった。

 10年前、サラエヴォで起きた事件も、最初は一つの暗殺事件に過ぎなかった。


 それが欧州全体を戦争寸前まで追い込んだ。

 今回は、英国の重要海峡で外国軍艦が爆沈した。


しかも、ドイツ潜水艦が現場付近にいた。

 ブラントは深く息を吐いた。

「何も起きなければよいが……」


その時、当直室の扉が急に開いた。

 若い将校が飛び出してきた。

フリードリヒ・カール・フォン・ヴァルテンベルク陸軍大尉。帝国陸軍参謀本部作戦部に所属する若い参謀将校である。


 つい先ほど入った電報の詳細を確認するため、上の大会議室から駆け出してきた。


 フリードリヒはブランドから書類を受けとるとじっくり確認した。


内容は思った以上に深刻だった。

既に数日のうちに、オーストリア=ハンガリー帝国とセルビア王国の国境で発砲事件が発生し、英国海軍は北海での艦隊演習を中止。さらドーバー海峡では二重帝国の巡洋艦が爆沈し、近くにドイツ帝国の潜水艦がいた。


書類を返すとフリードリヒはゆっくりと部屋を出た。


長い廊下を無言で歩いていた。



 遠く離れたドーバー海峡では、すでに救助活動と原因調査が続けられていた。

 ロンドンでは英国政府が対応に追われ、北海の英国大艦隊は演習を中止して帰投していた。

 そしてベルリンでは、ドイツ帝国の高官たちが、情勢の把握と対応に頭を悩ませていた。


 それぞれの国が、それぞれの立場でドーバー海峡での事件を理解しようとしていた。


しかし、誰もまだ真相を知らなかった。


 「ザンクト・ゲオルク」の爆沈は、外部からの攻撃ではなかった。


 弾薬庫の事故だった。


 それにもかかわらず、事件は各国の疑惑と不信を呼び起こし、欧州の緊張をさらに高めていくことになる。


-序章 第八節「白亜の海峡に消える」終-

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