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序章 第八節「白亜の海峡に消える」中編

-1924年午前10時10分-

英国 ロンドン 海軍本部2階 大会議室


 海軍本部の会議室はドーバーから届いた緊急電報の対応に終われていた。

 当直士官は上層部へ慌ただし内容を伝えると、やがて顔色を変えた将校が次々と集まってきた。


 会議室に集まった士官たちは、電報を回し読みした。

「オーストリア=ハンガリー帝国の巡洋艦一隻が爆沈!?しかも我が国への親善訪問の途中でか!?」

「はい...」

「原因は」

「不明ですが、救助に当たった商船船長の話ですと、爆発を見たと証言しています」

「爆発だと!?」

 海軍高官の一人が眉をひそめた。

「どの程度の爆発だ」

「艦首付近から巨大な火柱が上がり、その後数分で沈没したとのことです」


 会議室が静まり返った。

 軍艦が爆発して沈没すること自体は、決して前例のない事故ではない。


 しかし、場所が悪かった。

 時期も悪かった。

 そして何より、沈没した軍艦の国籍が悪かった。


「首相官邸へ連絡しろ」

 海軍高官が命じた。

「外務省にもだ」

「了解しました」

「それからドーバー方面の警戒を強化する。だが、こちらから外国艦船に威嚇行動を取るな」

 彼は一呼吸置いた。

「何が起きたのか分からないうちに、こちらが戦争を始めるわけにはいかん」

 その言葉は、会議室の誰もが理解していた。


だが、誰も安心はできなかった。

 なぜなら、欧州ではすでに、各国が互いの軍事行動に神経を尖らせていたからである。

 ひとつの誤解が、次の誤解を呼ぶ。

 そして誤解が積み重なれば、やがて誰にも止められなくなる。

 その危険を、彼らは感じ始めていた。




-同日 午前10時20分

英国 ロンドン ダウニング街十番地  首相官邸1階 首相執務室  



 英国首相ラムゼイ・マクドナルドは、執務室で紅茶を片手に外務関係の書類に目を通していた。

 そこへ秘書官が慌ただしく入ってきた。


「首相、海軍本部から緊急報告です」

「何事だ」

「ドーバー海峡で、オーストリア=ハンガリー帝国の巡洋艦が爆発し、沈没しました」 


 マクドナルドは書類から顔を上げた。

「何だと?」

「午前9時40頃、大規模な爆発が発生したとのことです」

「乗員は?」

「付近を航行中だった貨物船が救助活動中です。犠牲者数は不明です」

 首相は椅子から立ち上がった。

「原因は分かっているのか」

「まだです」

「攻撃を受けた可能性は」

「否定できません」


 マクドナルドは窓の外を見た。

 ロンドンの街並みは、いつもと変わらなかった。

馬車と自動車が行き交い、人々は日曜日の昼を過ごしていた。

 その平穏な景色が、突然遠いものに感じられた。

「外相を呼んでくれ」

「はい」

「海軍大臣もだ。それから、必要なら陸軍省にも連絡を」


 秘書官が退出すると、首相は机に手をついた。

 彼は戦争を望んでいなかった。


欧州大陸の危機を、外交によって収拾することを望んでいた。

 だが、ドーバー海峡で起きた爆発は、英国を否応なく危機の中心へ引き込もうとしていた。

 そして首相は、もうひとつの重大な事実を思い出した。

「北海の艦隊演習は……」

 彼は秘書官を呼び戻した。

「現在、北海で大規模な艦隊演習を実施しているはずだな」

「はい。主力艦隊が参加しております」

「ドイツ側は、それを知っているのか」

「演習自体は公表されています」

 首相は深く息を吐いた。


 英国海軍の主力艦隊が北海で行動中。

 その同じ日に、ドーバー海峡でオーストリアの軍艦が爆沈した。


 これだけのことが起きた。ドイツ政府にも今頃この惨事は知れ渡っているはずだ。


 もしドイツ政府が、この二つを結びつけて考えたらどうなるか。

 英国艦隊が何らかの軍事行動を準備していると疑われる可能性がある。

 あるいは、オーストリアを支援するため、ドイツ艦隊が北海へ出動するかもしれない。

 そうなれば、演習中の英国艦隊とドイツ艦隊が接触する危険があった。

 当時ドイツ帝国は二重帝国とロシアを巡り対立が一致しており、英国はそれを警戒していた。


 首相は決断した。

「海軍本部へ伝えてくれ」

「何と」

「北海の演習を中止するよう要求する」


 秘書官は一瞬、驚いた表情を浮かべた。

「演習を、ですか」

「そうだ」

 マクドナルドは静かに答えた。

「今、必要なのは軍艦を動かすことではない」

 彼は机上の欧州地図を見つめた。

「軍艦同士を近づけないことだ」


 こうして、英国政府と海軍の間に、新たな対立が生まれることとなった。




-1924年9月7日 午後10時35分-

英国 ロンドン 海軍本部2階 大会議室



「演習を中止しろ、だと?」

 海軍本部の会議室に、鋭い声が響いた。

 声の主は、海軍軍令部の高級将校であった。

 目の前には首相官邸から届いた緊急連絡が置かれている。


 内容は簡潔であった。

 『北海に展開中の大艦隊演習について、政府は速やかな中止を求める』


その理由は、ドーバー海峡で発生したオーストリア=ハンガリー帝国巡洋艦爆沈事件に伴う国際情勢の悪化を懸念しての事であった。


「馬鹿な」

 別の提督が呟いた。

「ドーバーで軍艦が沈んだことと、北海の演習に何の関係がある」

「政府はドイツ側の反応を警戒しているようです」

「だからといって、演習を止めるのか」

 会議室には不満が広がった。


英国海軍にとって、今回の演習は重要なものであった。

 英国とドイツ帝国の海軍軍拡競争は長期化していた。

 双方とも新型戦艦の建造を進め、巡洋戦艦や駆逐艦、潜水艦の戦術研究にも力を注いでいた。

 英国海軍は、世界最大級の戦艦戦力を保有していた。

 しかし、数で勝っているからといって、必ずしも戦争に勝てるとは限らない。


艦隊を統率する能力。

 通信の正確さ。

 砲撃指揮。

 索敵。

 そして何より、数十隻の軍艦を一体として動かす訓練が必要であった。

 今回の北海演習は、その成果を確認するための大規模な部隊対抗演習であった。


 青艦隊と赤艦隊に分かれ、互いに敵艦隊を捜索し、戦闘を想定した機動を行う。


主力艦だけでも戦艦6隻、巡洋戦艦6隻。

 さらに巡洋艦や駆逐艦が多数参加して総参加艦艇数は40隻以上にも及んでいた。

 演習のために必要な石炭や燃料油、食料、弾薬に相当する訓練資材、そして人員の調整には莫大な費用と時間が費やされていた。


「予定では、今日の夕刻まで続けるはずだ」

 作戦担当の少将が言った。

「あと数時間で終了する。それを今さら中止しろとは」

「首相は何を考えている」


 会議室の空気は険悪になった。

 しかし、一人の老提督だけは黙っていた。

 彼は机上の海図を眺めていた。

 北海。

 ドーバー海峡。

 ドイツ帝国の北海沿岸。

 そして英国本土。


「諸君」

 老提督が口を開いた。

「首相が恐れているのは、演習そのものではない」

 全員が彼を見た。

「演習を、演習として見てもらえなくなることだ」


 その言葉に、会議室は静かになった。


-同日 午前10時50分

英国 ロンドン 首相官邸2階 閣僚会議場



 首相官邸では、緊急の閣僚協議が始まっていた。

 マクドナルド首相のほか、外務、海軍、内務の関係者が集まっていた。

 机上にはドーバーから届いた報告書が並んでいた。


「現在までに確認されたことを説明してくれ」

 首相が命じた。

 海軍代表の士官が立ち上がった。

「午前9時50分、オーストリア=ハンガリー帝国海軍の巡洋艦「ザンクト・ゲオルク」がドーバー海峡西方で爆発、沈没しました」

「沈没までの時間は」

「およそ15分です」

「生存者は」

「救助作業が継続中であり、人数は確定しておりません」

「爆発原因は」

「不明です」

首相は眉をひそめた。

「そればかりだな」

「申し訳ありません」

「責めているのではない。だが、何も分からないというのは困る」

 外務関係者が口を開いた。

「ウィーンから正式な照会が届く可能性があります」

「当然だろう」

「問題は、彼らが破壊工作を疑うかもしれないということです」

「セルビアか」

「その可能性があります」

 首相は黙り込んだ。


 10年前のサラエヴォ危機。

 あの暗殺事件は欧州全体を戦争寸前まで追い込んだ。

 しかし、外交的妥協と列強の慎重な対応によって、全面戦争は回避されていた。

 それ以来、バルカン半島の緊張は消えたわけではない。

 むしろ、各国が戦争の準備を進めながら、危うい均衡を保ち続けていた。

 そして今、その均衡が再び揺らぎ始めていた。


「海軍は演習中止を受け入れたのか」

 首相が尋ねた。

「現時点では、反対しております」

「理由は」

「演習は予定どおり終了させるべきだと」

 マクドナルドは不快そうに顔をしかめた。

「軍事的には正しいのかもしれん」

 彼は椅子に深く腰掛けた。

「だが、政治的には危険だ」

 外務関係者が頷いた。

「ドイツ政府が、北海の英国艦隊を警戒する可能性があります」

「そうだ」

 首相は机を指で叩いた。

「もしドイツ艦隊が出動すれば、演習中の我が艦隊と接触するかもしれない」

「偶発的な衝突の危険があります」

首相は海軍代表へ向き直った。

「もう一度伝えてくれ」

「はい」


「政府は演習の中止を正式に要求する」




-同日 午前11時10分-

英国 ロンドン 海軍本部2階 大会議室



 首相官邸からの正式な要求が届いた。

 海軍本部の高級将校たちは再び協議を始めた。

「政府は本気らしい」

「演習を中止せよ、か」

「しかし、軍事的な理由がない」

 作戦担当の少将が言った。

「北海で敵艦隊が確認されたわけでもない。ドイツ海軍が出動したという報告もない」

「それなのに演習を止めれば、我々が何かを恐れていると受け取られる」

「その通りだ」

 別の提督が続けた。

「ドイツ側に弱腰と見られる危険もある」

 会議室には賛同の声が上がった。


 だが、老提督は首を振った。

「諸君は、ドイツにどう見られるかを気にしている」

「当然でしょう」

「だが、首相はドイツがどう行動するかを気にしているのだ」

 少将は反論した。

「我々が演習を中止すれば、かえって異常事態を示すことになります」

「その可能性はある」

「では」

「しかし、演習を続けて偶発的な接触が起きた場合、責任を取れるのか」

少将は黙った。

 老提督は続けた。 


「海軍は戦争を遂行する組織だ。戦争を始めるかどうかを決める組織ではない」


 その言葉は重かった。

 英国海軍は強大であった。

 だが、国家の外交政策を決定する権限は政府にあった。

 軍人としての誇りと、文民政府への服従。

 その二つが、今まさに衝突していた。


 長い沈黙の後、海軍本部は首相官邸へ回答を送った。


『現時点で演習中止の軍事的必要性は認められず、予定どおり継続することを推奨する』


 事実上の拒否であった。




-1924年9月7日 午後11時25分-

英国 ロンドン 首相官邸 閣僚会議場



「拒否したのか!」

 マクドナルド首相は声を荒らげた。

 秘書官が困惑した表情で頷いた。

「海軍本部は、演習継続を推奨しております」

「これは助言ではない!政府の要求だ」

 首相は机上の報告書を取り上げた。

「ドーバーでは外国の軍艦が沈んでいる!原因も分からない!既に何十人も人が死んでかもしれない!欧州各国がどう反応するかも分からない!」

 彼は報告書を机叩きつけた。

「それなのに、まだ海軍は予定どおり演習を続けたいと言うのか!」

 外務関係者が慎重に答えた。

「海軍としては、演習を途中で打ち切ることによる影響を懸念しているのでしょう」

「分かっている」

 首相は冷静になり、深く息を吐いた。


「.....彼らの立場も理解できる」

 少し間を置いて続けた。

「だが、政府は国家全体を見なければならない」


その時、新たな報告が届いた。

 ドーバー海峡で救助された生存者の一部が、爆発前に不審な音を聞いたと証言しているという内容であった。

 さらに、救助に当たった商船「マーガレット」の乗員が、爆発の直前に海面上で何らかの影を見たと話しているという。


 いずれも未確認の情報であった。

 しかし、首相官邸では緊張が高まった。

「.....潜水艦か?」


誰かが呟いた。

「分かりません」

「機雷の可能性もある」

「いずれにせよ、調査が必要です」

 首相は顔を上げた。

「海軍本部へ再度連絡する」 


 その声は、先ほどまでとは違っていた。


「今度は、『正式な政府命令』として伝えろ」




-同日 午前11時40分-

英国 ロンドン 海軍本部2階 大会議室



政府からの二度目の連絡が届いた。

 今度は単なる要請ではなかった。


 『政府は正式な決定として海軍に以下を命じる。北海での演習中止、及び主力艦艇の帰投。』



 海軍本部の会議室には、重苦しい沈黙が流れた。

「ここまで来たか」

 高級将校の一人が呟いた。

「首相は譲らんだろう」

「我々も、これ以上は拒否できません」

作戦担当の少将は苦々しい表情を浮かべた。

「演習はあと数時間で終わるのに」

 老提督が静かに答えた。

「数時間で終わる演習のために、国家の外交政策を危険にさらすことはできん」

 彼は机上の命令書を見つめた。


「演習を中止する」

 会議室の全員が顔を上げた。

「よろしいのですか」

「政府の命令だ」


数分後、電報文の作成が終わった当直将校は通信士官に対して言った。

「北海の演習艦隊へ緊急電を送れ、内容は以下の通り」

 

『北海艦隊演習を直ちに中止せよ。』

 『各部隊は演習行動を停止し、指定された母港への帰投準備に入れ。詳細については追って通達する。』


 通信士官が頷いた。

「了解しました」 


 午前11時55分。

電報は演習中の全艦隊に送信された。



第八節 後編へ

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