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序章 第八節「白亜の海峡に消える」前編

ー1924年9月7日午前8時30分(英国時間)ー

 ドーバー海峡西方 巡洋艦「ザンクト・ゲオルク」艦上



 9月のドーバー海峡には、穏やかな朝が訪れていた。

 海上には薄い靄が漂い、遠く英国沿岸の白い断崖が、朝日に照らされて淡く輝いていた。

 世界でも有数の交通量を誇るこの海峡には、大小さまざまな船舶が行き交っていた。英国の貨物船、フランスの漁船、北欧へ向かう商船。船の種類も国籍もさまざまであったが、そのどれもが平和な日常の一部を形作っていた。


 その船舶の群れの中に、一隻の灰色の軍艦があった。

オーストリア=ハンガリー帝国海軍装甲巡洋艦「ザンクト・ゲオルク」

 排水量およそ7300トン、全長110メートル余り。24センチ(9.5インチ)連装砲塔を艦首に備え、二本の煙突と複雑な上部構造物を持つ、二十世紀初頭に建造された大型巡洋艦である。

 同艦は1905年に就役し、アドリア海を中心に活動してきた。 


 しかし、欧州の軍艦建造技術は、この20年間で大きく変化していた。

 英国では巡洋戦艦「フッド」が就役し、ドイツも大型水上艦艇の整備を進めている。日本では四十一センチ砲を備えた戦艦「長門」が太平洋を睨んでいた。

 そのような時代にあって、「ザンクト・ゲオルク」はすでに旧式艦の部類に属していた。


それでも、二重帝国海軍にとっては貴重な大型巡洋艦だった。

 オーストリア=ハンガリー帝国は、アドリア海に面した軍港を主要な拠点としていた。ポーラ軍港をはじめとする基地には戦艦や巡洋艦が配備されていたものの、その活動範囲は地中海に限定されがちであった。

 今回の航海は、そのような状況を打開するための遠洋訓練と、英国への親善訪問を兼ねたものであった。

 帝国海軍は英国政府に事前通告を行い、英国外務省と海軍本部は、同艦が通常の航行規則に従ってドーバー海峡を通過することを了承していた。


英国政府にとっても、この訪問には一定の外交的意味があった。

 10年前、サラエボで起きた皇太子暗殺事件は、欧州を戦争寸前まで追い込んだ。


 しかし、列強諸国による外交交渉と妥協によって全面戦争は回避され、欧州は不安定ながらも平和を維持してきた。

 今回の親善航海も、その平和がまだ保たれていることを示す象徴の一つだったのである。


 少なくとも、乗組員たちはそう考えていた。



ー同日 午前8時45分ー

 ドーバー海峡 巡洋艦「ザンクト・ゲオルク」 艦橋


「英国沿岸、視認できます」

 見張員の報告に、艦長カール・フォン・ライナー海軍大佐は双眼鏡を持ち上げた。

 遠方には、英国南東部の白い断崖が見えていた。

「なるほど。あれがドーバーの白い崖か」

「はい、艦長。英国人にとっては祖国の象徴だそうです」

 航海長フランツ・ヴァイス海軍少佐が答えた。

「美しいものだな」

 ライナー大佐は双眼鏡を下ろした。

「英国人が長い航海を終えてこの崖を見たとき、故郷へ帰ってきたと感じるのも分かる気がする」

「我々にとってのアドリア海の山々と同じでしょう」

「そうかもしれんな」

 艦長は微笑んだ。


 今回の航海は、これまで順調に進んでいた。

 地中海では天候に恵まれ、ジブラルタル海峡の通過も問題なく終えていた。大西洋沿岸では多少の荒天に遭遇したものの、艦の機関に重大な故障は発生していない。

 英国への到着後には、艦長をはじめとする士官たちが英国海軍の関係者と食事と会談する予定だった。


「英国海軍の主力は、現在北海に出ているそうだな」

 ライナー大佐が尋ねた。

「はい。大規模な艦隊演習が行われているとのことです」

「「フッド」も参加しているのか?」

「そのようです」

 艦長は感心したように頷いた。

「世界最大級の巡洋戦艦か。一度は間近で見てみたいものだ」

「我が艦とは比較にならないでしょうな」

「当然だ。あちらは四万トンを超える巨艦だ。我々のような老巡洋艦とは生まれた時代が違う」

 艦橋に小さな笑い声が起きた。


 そのとき、航海長が海図を指さした。

「現在の針路を維持すれば予定どおりドーバー海峡を通過できます」

「よろしい。速力はそのまま」

「了解しました」

 艦長は最後に英国沿岸へ目を向けた。

「何事もなく、英国の港へ着ければよいがな」


それは、ごく何気ない一言だった。




ー同日 午前9時10分ー

 ドーバー海峡 巡洋艦「ザンクト・ゲオルク」 士官食堂



 艦内では、遅い朝食を終えた士官たちが談笑していた。

 食堂の壁には皇帝の肖像画が掲げられ、長い航海で少し色褪せたテーブルクロスの上には、コーヒーの入ったカップが並んでいた。


「英国へ着いたら、何をするつもりだ?」

 砲術士官のエルンスト・ホフマン大尉が尋ねた。

向かいに座る若い少尉は、少し考えてから答えた。

「ロンドンを見てみたいですね」

「ロンドンか。なかなか欲張りだな」

「一度は大英博物館へ行ってみたいと思っていました」

「軍艦乗りが博物館とは、随分と学問好きだ」

「大尉はどうされるのですか?」

「私は英国の軍艦を見たい」

「できればアドミラル級をな」

「「フッド」ですか?」

「いや、「フッド」は演習に出掛けてて不在らしいが、沖合いに姉妹艦の「アンソン」がいるらしい。24センチ砲ではなく、38センチ砲を8門も備えた巨艦だ。あの船を見れば、英国が海軍大国である理由が分かるだろう」

「我々の二十四センチ砲では、到底相手になりませんね」

「相手にする必要などない。今回は親善航海だ」

 ホフマン大尉はコーヒーを飲み干した。

「それに、欧州で大戦争が起きるなど、私はまだ信じていない」

 少尉は首を傾げた。

「しかし、新聞では毎日のようにドイツとフランスの対立が報じられています」

「新聞は危機を書くのが仕事だ。平和が続いていると書いても売れんからな」

「そういうものでしょうか」

「そういうものだ」

 大尉は立ち上がった。

「さて、仕事に戻るか」


 彼らはまだ知らなかった。

 この朝が、人生最後の朝になる者もいることを。




ー同日 午前9時25分ー

 ドーバー海峡 巡洋艦「ザンクト・ゲオルク」       前部弾薬庫付近



 艦の奥深くでは、別の時間が流れていた。

 前部弾薬庫に隣接する通路を巡回していた水兵ヨーゼフ・クラインは、不意に足を止めた。

「何だ、この臭いは」

 焦げ臭い匂いがした。

 最初は電気配線か、近くの機械室から漂ってきたものだと思った。


 しかし、通路を進むにつれて臭いは強くなった。

 クラインは近くにいた下士官を呼び止めた。

「伍長、少し確認していただけますか」

「どうした」

「何かが焦げているようです」

 下士官は鼻を動かした。

「確かに臭うな」

「機械室でしょうか」

「分からん。報告しておこう」

 下士官は近くの伝声管へ向かった。


 その時だった。

 艦の奥から、鈍い音が響いた。


 ドン。


二人は顔を見合わせた。

「今のは?」

「分かりません」

 続いて、かすかな振動が足元を伝わった。

 下士官の表情が変わった。

「火災かもしれん。急いで知らせろ!」

 クラインが走り出した。


 しかし、すでに前部の弾薬庫周辺では異常な熱が広がり始めていた。

原因は、後の調査で弾薬庫内の火災が装薬に及んだものと推定されることになる。


 だが、最初の発火が何によって生じたのかについては、長く議論が続くことになる。

 この時点では、艦内の誰もその事実を知らなかった。



ー同日 午前9時38分ー

 ドーバー海峡 巡洋艦「ザンクト・ゲオルク」艦橋


「艦長!前部区画から異常の報告です!」

 伝令の声に、ライナー大佐が振り返った。

「異常とは?」

「焦げ臭い匂いと、原因不明の振動が確認されたとのことです」

「火災か?」

「確認中です」

 艦長は即座に命じた。

「前部区画を調べろ!必要なら消火班を出せ!」

「了解しました!」

 伝令が駆け出した。

 航海長が不安そうに尋ねた。

「艦長、速力を落としますか」

「原因が分かるまで現状を維持する。ただし、機関部には警戒を命じろ」

「了解しました」


 その数十秒後。

 前部区画から、再び異常な音が響いた。


 今度は艦橋でもはっきりと感じられるほどだった。

 ライナー大佐は顔を上げた。

「何だ?」


 答える者はいなかった。 


 


ー同日 午前9時42分ー

 ドーバー海峡 巡洋艦「ザンクト・ゲオルク」 艦上



突然、「ザンクト・ゲオルク」の前部甲板が光に包まれた。


 次の瞬間、巨大な爆発が起きた。

 耳をつんざく轟音。

 前部甲板が内側から持ち上がり、火炎と黒煙が空高く噴き上がった。

 艦首の二十四センチ砲塔付近から、鋼鉄の破片が四方へ飛び散る。

 艦橋の窓ガラスが砕け、艦体が激しく震えた。

 ライナー大佐は衝撃で床に叩きつけられた。


「何が起きた!」

 叫び声が上がった。


 しかし、その声は二度目の爆発にかき消された。

 今度は、艦の内部から突き上げるような衝撃だった。

 前部構造物の一部が崩れ、艦体に大きな亀裂が走る。

 海水が破壊された区画へ流れ込み始めた。


「弾薬庫が爆発した!」

「火災だ!」

「浸水発生!」

 艦内の各所で、怒号が飛び交った。

 しかし、通信設備の一部は破壊され、電灯も消えていた。

 暗闇の通路では、煙と蒸気が充満していた。

 水兵たちは互いの姿を確かめることすら難しかった。


前部区画にいたクライン水兵は、最初の爆発で壁に叩きつけられていた。

 耳鳴りが続き、周囲の音がほとんど聞こえなかった。

 彼は壁を伝いながら立ち上がった。

 通路の向こうには、赤い炎が見えた。

「誰か……!」

 声を出したつもりだった。

 しかし、自分の声さえ聞こえなかった。

 彼は必死に階段へ向かった。

その背後では、火災がさらに広がっていた。




ー同日 午前9時45分ー

 ドーバー海峡 巡洋艦「ザンクト・ゲオルク」 艦橋付近



艦橋は半ば破壊されていた。

 ライナー大佐は額から血を流しながら、航海長に支えられて立ち上がった。

「被害報告知らせ!」

「前部区画との連絡が途絶しています!」

「浸水は?」

「艦首が急速に沈下しています!」


 艦長は海面を見た。

 すでに艦首は異常なほど低くなっていた


「前部区画浸水甚大!」

「ダメだ!とても消火しきれない!」

「重傷者多数!誰か手を貸してくれ!」


艦内の至るところから悲鳴のような報告が飛び交っていた。


艦体は右舷へ傾斜し、甲板上では水兵たちが救命艇を降ろそうとしていた。

 ライナー大佐は震える声で叫んだ。

「総員退艦!早く艦から離れろ!」

「了解!」

 航海長が叫んだ。

「全員、甲板へ! 救命艇を降ろせ!」

 しかし、艦は急速に傾いていた。


救命艇の一部は爆発で破損し、残った艇も正常に降ろすことが難しかった。

 水兵たちは救命浮環や木片を海へ投げ込んだ。

 負傷者を支えながら、次々と海へ飛び込む者もいた。


 艦長は艦橋に残っていた。

「艦長、退艦してください!」

 航海長が叫んだ。

「まだ艦内に人がいる!」

「もう助けられません!」


艦長は一瞬、言葉を失った。

 前部甲板はほとんど海中へ没していた。

 後部では、まだ水兵たちが必死に逃げようとしている。

 ライナー大佐は歯を食いしばった。

「分かった。君も退艦しろ」

「艦長は?」

「私は最後に行く」


 航海長は敬礼した。

 そして、艦橋から甲板へ向かった。




ー同日 午前9時48分ー

 ドーバー海峡 英国商船「マーガレット」船橋



事故現場から数マイル離れた海上では、英国商船「マーガレット」が異常を目撃していた。

「船長! 軍艦が爆発しました!」

 見張員の叫びに、船長アーサー・ベネットは双眼鏡を持ち上げた。

 遠方には巨大な黒煙が立ち上っていた。

 その下で、灰色の軍艦が明らかに傾いている。


「何てことだ……」

 船長は一瞬呆然とした。

 しかし、すぐに我に返った。

「機関室へ連絡! 速力を上げろ!」

「了解!」

「無線室! 遭難船ありと通報しろ! 位置も送れ!」

 無線士が駆け出した。

 船長は再び双眼鏡を覗いた。

 軍艦の周囲には、小さな黒い点がいくつも浮かんでいた。

人間だった。

「救命艇を準備しろ!」

「船長、爆発が続くかもしれません!」

「分かっている!」

 ベネットは叫んだ。

「だが、あそこには人がいるんだ!」

 商船「マーガレット」は針路を変え、沈没する巡洋艦へ向かった。


ー同日 午前9時51分ー

 ドーバー海峡 巡洋艦巡洋艦「ザンクト・ゲオルク」 後部甲板付近


爆発から僅か数分で「ザンクト・ゲオルク」は、すでに艦首の大部分を海中へ沈めていた。

 後部甲板には、まだ数十名の水兵が残されていた。 

 彼らは次々と海へ飛び込んだ。

 ライナー大佐も、最後に艦橋から離れた。


 しかし、彼が海へ飛び込んだかどうかを確認した者はいなかった。

 艦尾が持ち上がった。

 船体の内部から、金属が引き裂かれるような音が響いた。

そして、巨大な巡洋艦はゆっくりと海中へ消えていった。


 1924年午前9時52分。

 オーストリア=ハンガリー帝国海軍装甲巡洋艦「ザンクト・ゲオルク」は沈没した。


海面には油が広がり、破片が漂っていた。

 助けを求める声が、あちこちから聞こえた。

 救助に向かった商船「マーガレット」の乗組員たちは、次々と水兵を引き上げた。

 しかし、すべての者を救うことはできなかった。


 沈没地点から少し離れた海面で、クライン水兵は木片にしがみついていた。

彼は震える手で、遠くの黒煙を見つめていた。

「艦が……」

 声がかすれた。

「俺たちの艦が……」

 彼は、それ以上何も言えなかった。




ー同日 午前10時00分ー

 英国南東部 ドーバー沿岸警備当局



 ドーバー沿岸警備当局には次々と遭難情報が届いていた。

『外国軍艦爆発』

『大型艦沈没』

『多数の漂流者あり』

『至急救助を要請』

 当直責任者は、届いた報告を整理していた。

「艦名は分かったか?」

「ザンクト・ゲオルクと思われます」

「オーストリアの巡洋艦か」

「はい」

「原因は?」

「不明です」

 責任者は時計を見た。

 午前11時5分。

「海軍本部へ至急報告しろ」

「了解しました」

「それから、付近の船舶へ救助協力を要請しろ。海峡の航行にも注意を出すんだ」

 部下が駆け出した。


 責任者は窓の外を見た。

 ドーバーの街は、まだ普段どおりの朝を迎えていた。

 しかし、海峡の向こうでは、すでに大きな惨劇が起きていた。

 そして、その知らせは間もなくロンドンへ届くことになる。




ー同日 午前10時07分ー

 英国 ロンドン 英国海軍本部1階 通信当直室


 

海軍本部の通信室に、一通の緊急電報が届けられた。

 当直将校は文面を読み、顔色を変えた。


『ドーバー海峡にてオーストリア=ハンガリー海軍巡洋艦ザンクト・ゲオルク爆発、沈没。原因不明。救助活動中』


 将校は一度、電文を読み直した。

「ザンクト・ゲオルク……?」

 隣の士官が尋ねた。

何かありましたか」

「オーストリアの巡洋艦が沈んだ」

「どこでです?」

「ドーバー海峡だ」

 士官は驚いた。

「我が国の目と鼻の先ではありませんか」

「そうだ」

 当直将校は電文を机に置いた。

「海軍作戦部へ報告しろ。それから海軍大臣にも連絡を取れ」

「了解しました!」


 当直将校は机上の海図を見つめた

 ドーバー海峡。

 英国の玄関口。

 その目と鼻の先で、外国の軍艦が爆沈した。

 しかも、その軍艦はオーストリア=ハンガリー帝国のものである。

 欧州大陸では、セルビア問題をめぐって緊張が高まっていた。  

 オーストリア政府は、帝国内の民族運動に対する警戒を強めていた。

 そのような時期に、帝国海軍の軍艦が爆沈したのである。

「まさか……」

 当直将校は呟いた。

「誰かが仕掛けたのか」

 まだ何の証拠もなかった。

 しかし、疑念はすでに生まれていた。


 外国の大型軍艦が、英国近海で突然爆沈、しかも原因は不明だった。

 弾薬庫の事故か。

 機雷か。

 あるいは、何者かによる攻撃なのか。

 誰にも分からなかった。


 ただ一つ確かなことは、英国政府がこの事件を無視することはできないという事実だった。


こうして、ドーバー海峡で起きた一隻の巡洋艦の事故は、ロンドンの政治中枢へと伝わった。

 そして、北海ではまだ、英国海軍の大艦隊が何も知らずに演習を続けていた。

 


第八節 中編へ

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