序章 第七節「北海演習」後編
―1924年9月7日 午前11時35分(英国時間)―
大英帝国 北海南部 英国海軍巡洋戦艦「フッド」艦上
演習開始から5時間以上がたった。北海の空には、厚い雲が広がっていた。
朝方に比べて風は幾分強くなり、海面には白い波頭が目立ち始めていた。
その海上では、青艦隊と赤艦隊による模擬海戦が続いていた。
双方の主力艦隊は、互いに有利な射撃位置を確保しようと針路を変更し、艦隊運動を繰り返していた。
フッドの艦橋では、青艦隊司令官ペンブローク中将が海図を確認していた。
「敵主力艦隊の動きは?」
「赤艦隊戦艦部隊は、我が艦隊の南東方を航行中であります」
参謀士官が答えた。
「針路は?」
「北東方向へ変針した模様です」
ペンブロークは眉をひそめた。
「……こちらの進路を横切るつもりか」
彼は海図上の赤艦隊の推定位置を確認した。
赤艦隊司令官アシュベリー中将は、巡洋戦艦部隊によって青艦隊の前衛を牽制し、その間に戦艦部隊を有利な位置へ進出させようとしていた。
もしその作戦が成功すれば、青艦隊は不利な状況で主力艦隊同士の砲撃戦を行うことになる。
「ウェストン艦長」
「はっ」
「フッドの速力を30ノッチへ増加させろ」
「全速ですか?」
「そうだ」
「了解しました」
「巡洋戦艦部隊は敵前衛の進路を制限する。戦艦部隊には、予定の戦列を維持するよう信号を送れ」
「はっ!」
命令が艦橋から各部署へ伝えられた。
「機関全速前進!30ノット!」
伝声管を通じて機関室へ命令が送られた。
巡洋戦艦「フッド」は同クラスの艦の中でも特に優速だった。主缶はヤーロー式重油専焼三胴型水管缶24基を搭載し、は主機ブラウン・カーチス式ギヤードタービン4基4軸推進。
ボイラーから供給される大量の蒸気がタービンを回し、四軸の推進器が海水を力強く押し出していく。
この巨大な心臓を支えるのは約400名の機関部要員であった。
彼は伝声管を通じて機関室へ届けられた命令通りの速力を出す為ボイラー圧力や蒸気圧を緻密に調整する。その技量はもはや職人の芸当であった。
「フッド」の巨大な船体は、徐々に速力を増していった。
艦首では白い飛沫が高く上がり、船体の両側には大きな波が生まれた。
その後方では、「レパルス」と「リナウン」も速力を増していた。
3隻の巡洋戦艦は、まるで一つの巨大な生き物のように隊列を維持しながら進んでいった。
―同日 午前11時48分―
巡洋戦艦「フッド」砲術指揮所
「赤艦隊旗艦、「クイーン・メリー」!」
測距員が報告した。
「距離、1万8500ヤード!」
ハミルトンは双眼鏡を構えた。
遠方には、「クイーン・メリー」の艦影が先ほどよりもはっきり見えていた。
その後方には、「タイガー」と「プリンセス・ロイヤル」が続いている。
「敵艦、面舵!右へ変針!」
「距離近くなる!現在1万8400ヤード」
ハミルトンは射撃計算の結果を確認した。
「目標、「クイーン・メリー」!」
彼は命じた。
「全主砲塔、射撃準備!」
砲術員たちは素早く操作を進めた。
艦首と艦尾に配置された4基の連装砲塔が、目標の方向へ向けられていく。
巨大な15インチ砲8門。
もしこれが実戦であれば、その砲口から一斉に砲弾が放たれることになる。
しかし、今回は演習であった。
砲塔の照準と射撃計算の結果を記録し、演習判定員が命中の可能性を評価する。
「第一斉射、模擬発射!打ち方始め!」
ハミルトンの命令が響いた。
発射操作が行われ、判定員が記録を確認した。
数分後、結果が届いた。
「第一斉射、近弾判定!」
「修正、上げ200!」
ハミルトンは即座に命じた。
「第二斉射、射撃準備!」
その時、砲術下士官が小さく呟いた。
「……敵もなかなかやりますな」
ハミルトンは頷いた。
「ああ」
彼は双眼鏡を覗き続けた。
「いくら「クイーン・メリー」は旧式とはいえ、優秀な巡洋戦艦だ」
「しかし、こちらには15インチ砲があります」
「その通りだ」
ハミルトンは僅かに笑った。
「だからこそ、確実に当てねばならん」
砲術員たちは再び操作を進めた。
「第二斉射、模擬発射!打て!」
発射操作が行われた。
そして数分後。
「第二斉射、夾叉判定!」
砲術指揮所に小さなどよめきが起こった。
「よし!」
ハミルトンは満足そうに頷いた。
「そのまま射撃を継続!次は当たるぞ!」
しかし、その直後だった。
艦内伝声管から、普段とは異なる緊迫した声が響いた。
「砲術士官、直ちに艦橋へ!」
ハミルトンは顔を上げた。
「……何だ?」
彼は部下へ指示を残した。
「砲術指揮は一時、次席士官に任せる」
「はっ!」
ハミルトンは急いで砲術指揮所を後にした。
―同日 午前11時56分―
巡洋戦艦「フッド」無線室
「フッド」の無線室では、通信員たちが洋上各艦や陸上の海軍本部との通信を処理していた。
室内には無線機の音が響き、机の上には受信した電報が次々と積み重ねられていた。
その時、一人の通信員が顔を上げた。
「……海軍本部から緊急電報!」
隣にいた通信士官が振り返った。
「内容は?」
「優先順位、最上級であります!」
通信士官は受信文を確認した。
その表情が僅かに変わった。
「……これは」
彼は直ちに書類を手に取った。
「艦橋へ届けろ。至急だ!」
「はっ!」
通信員は敬礼すると、電報を持って無線室を飛び出した。
その内容は、演習に参加している艦隊の行動を根本から変更するものであった。
英国海軍本部からの命令
『北海艦隊演習を直ちに中止せよ。』
『各部隊は演習行動を停止し、指定された母港への帰投準備に入れ。詳細については追って通達する。』
それだけであった。
理由は記されていなかった。
―同日 午後0時03分―
巡洋戦艦「フッド」艦橋
艦橋には、異様な緊張が漂っていた。
先ほどまで演習の指揮を執っていた将校たちが、一通の電報を囲んでいた。
ペンブローク中将は、その内容を二度三度読み直した。
「……間違いないのか?」
通信士官が姿勢を正した。
「はっ。海軍本部からの正式な命令であります」
「演習を中止せよ、と?」
「その通りであります」
ペンブロークは眉をひそめた
今回の演習は、英国海軍が数か月前から準備を進めてきた大規模なものである。
戦艦6隻、巡洋戦艦6隻。
さらに、多数の軽巡洋艦と駆逐艦が参加していた。
それを、何の前触れもなく中止するという。
通常では考えられない命令であった。
「理由は?」
「記載されておりません」
ペンブロークは黙った。
その隣で、ウェストン艦長が静かに尋ねた。
「閣下、いかがいたしましょう?」
ペンブロークは顔を上げた。
「……命令に従う」
彼は電報を机に置いた。
「演習を中止する」
その言葉に、艦橋の将校たちは互いに顔を見合わせた。
「閣下、現在は主力艦隊同士の交戦演習中であります」
参謀士官が言った。
「承知している」
「しかし、突然の中止となれば、各艦の隊形が乱れる恐れがあります」
「だからこそ、落ち着いて行動する必要がある」
ペンブロークは静かに答えた。
「まず、全艦へ演習中止を通達する。模擬射撃を止め、各部隊は現在の隊形を維持したまま速力を落とせ」
「はっ!」
「赤艦隊にも同じ命令が届いているはずだが、念のため確認せよ」
「了解しました!」
ウェストン艦長が口を開いた。
「「フッド」の帰投先は?」
「ポーツマスだ」
ペンブロークは答えた。
「我々は指定された航路に従い、南下する」
彼は将校たちを見渡した。
「諸君、まずは落ち着け。慌てる必要はない」
艦橋に沈黙が流れた。
「しかし、海軍本部がこれほどの命令を出す以上、何らかの重大な事態が発生した可能性はある」
ペンブロークは続けた。
「各部署には、通常の航海配置へ移行するよう命じよ。ただし、警戒は維持する」
「はっ!」
将校たちは一斉に敬礼した。
その時、ハミルトンが艦橋へ到着した。
「ハミルトン大尉、参りました!」
ハミルトン以外にも各部署の担当士官が次々に艦橋に集まってきた。
ウェストン艦長が彼らへ顔を向けた。
「諸君、演習は中止だ」
「……中止、でありますか?」
「ああ」
担当士官たちはただ呆然としていた。
ハミルトンも一瞬、言葉を失った。
「理由は何でしょうか?」
ハミルトンは尋ねた。
「分からん。海軍本部からの命令だ。各部署は帰投に向けた準備を進めてくれ」
「はっ!」
ハミルトン以下、士官たち敬礼し各所の持ち場に戻った。
しかし、彼らの胸には一つの疑問が残っていた。
なぜ、今なのか。
なぜ、演習が最も重要な段階へ入ったところで中止されたのか。
その答えは、まだ誰にも分からなかった。
―同日 午後0時20分―
北海 英国海軍艦隊演習海域
「フッド」のマストに、新たな信号旗が掲げられた。
『演習中止』
『模擬射撃止め』
『各艦、指定された隊形を維持』
その信号は、「レパルス」と「リナウン」にも伝えられた。
続いて、後方の戦艦部隊にも命令が伝達された。
「アイアン・デューク」「キング・ジョージ5世」「ベンボウ」
3隻の戦艦は速力を落とし、所定の隊形を維持しながら進路を変更し始めた。
一方、赤艦隊でも同じような光景が広がっていた。
「クイーン・メリー」の艦橋では、アシュベリー中将が突然の命令に眉をひそめていた。
「……演習中止とは」
彼は海図を見つめた。
先ほどまで、フッドとの模擬砲撃戦を続けていたのである。
戦艦部隊も有利な位置へ進出し、まもなく主力艦隊同士の決戦が始まるはずであった。
それが、何の前触れもなく中断された。
「司令官閣下」
参謀士官が尋ねた。
「何か重大な事態が発生したのでしょうか?」
「……恐らくな」
アシュベリーは静かに答えた。
「だが、憶測で判断するべきではない」
彼は顔を上げた。
「命令に従い、帰投準備を進める」
「はっ!」
赤艦隊もまた、隊列を整え始めた。
それまで互いに砲を向け合っていた12隻の主力艦は、次々と進路を変更していった。
北海の海面には、巨大な航跡が幾筋も描かれた。
先ほどまで敵役として戦っていた二つの艦隊。
しかし、今や双方は同じ命令に従い、それぞれの帰投航路へ向かおうとしていた。
「フッド」は速力を落とし、後続の巡洋戦艦が隊列を整えるのを待っていた。
その後、艦隊はゆっくりと南へ向けて進み始めた。
―同日 午後1時05分―
巡洋戦艦「フッド」下甲板居住区
艦内では、演習の終了を告げる号令が響いていた。
「演習戦闘配置、解除!」
「各部署、通常航海配置へ!」
砲術員たちは模擬射撃の記録を整理し、砲塔内の装置を点検していた。
しかし、普段の演習終了後とは様子が違っていた。
誰もが、突然の中止命令について気にしていたのである。
「一体、何があったんだ?」
一人の水兵が尋ねた。
「さあな」
隣の水兵が答えた。
「海軍本部からの命令らしいぞ」
「何か事故でも起きたのか?」
「分からん」
水兵たちは小声で噂を交わしていた。
その中に、ジョージ・トンプソンの姿もあった。
彼は演習中、第一砲塔内の補助作業を担当していた。
初めて参加する大規模な艦隊演習。
緊張しながらも、彼は自分の任務を果たしていた。
しかし、演習が突然中止されたことで、何とも言えない不安を感じていた。
「兵曹長」
トンプソンはブラウン兵曹長へ声をかけた。
「何だ?」
「今回の演習、どうして中止になったんでしょうか?」
ブラウンは少し考えた。
「……俺にも分からん」
「そうですか」
トンプソンは俯いた。
「でも、何か大変なことが起きたんじゃないでしょうか?」
ブラウンは彼を見つめた。
「ジョージ」
「はい」
「海軍では、分からないことを勝手に決めつけるな」
彼は静かに言った。
「我々に必要なのは、命令に従い、自分の仕事を確実に果たすことだ」
「……はい」
「それに、まだ何も起きたと決まったわけじゃない」
ブラウンは少し笑った。
「案外、港へ戻れば大したことではなかったと分かるかもしれんぞ。予定よりも早く帰れるしな。」
トンプソンは僅かに表情を和らげた。
「そうですね」
「ああ」
ブラウンは頷いた。
「だから、今は余計なことを考えず、仕事に戻れ」
「はい!」
トンプソンは敬礼すると、自分の持ち場へ向かった。
ブラウンはその後ろ姿を見送った。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……そうであればいいがな」
彼は長年の海軍勤務で、様々な出来事を経験してきた。
突然の命令変更。
予定外の出港。
緊急の艦隊集結。
それらが必ずしも重大な危機を意味するわけではないことも知っていた。
しかし、今回の命令には、何か普段とは異なるものを感じていた。
その理由を、彼自身も説明することはできなかった。
―同日 午後2時30分―
北海 巡洋戦艦「フッド」士官食堂
士官食堂には、当直勤務を終えた将校たちが集まっていた。
しかし、普段のような賑やかな会話は少なかった。
誰もが、演習中止の理由を気にしていたのである。
ハミルトンは紅茶を口に運びながら、窓の外を見つめていた。
そこへ、ベネットが近づいてきた。
「エドワード」
「トーマスか」
「隣、いいか?」
「ああ」
ベネットは椅子に腰を下ろした。
「結局、最後まで演習はできなかったな」
「ああ」
ハミルトンは答えた。
「せっかく「クイーン・メリー」を相手に、良いところまで行っていたのになぁ。次撃ってれば確実に撃沈判定を出せていたよ。」
「君は本当に砲術のことばかりだな」
ベネットは苦笑した。
しかし、すぐに真面目な表情へ戻った。
「……エドワード」
「何だ?」
「今回の中止命令、やはり今の欧州情勢と関係があると思うか?」
ハミルトンは少し考えた。
「恐らくな」
彼は紅茶のカップを置いた。
「だが、詳しいことは分からん」
「そうだな」
二人はしばらく黙っていた。
やがて、ベネットが口を開いた。
「10年前も、こんな感じだったのだろうか」
「1914年の危機か?」
「ああ」
ベネットは頷いた。
「当時、私はまだ海軍兵学校にいた。新聞では毎日のように戦争の危機が報じられていたが、結局は外交交渉で解決した」
「私も覚えている」
ハミルトンは答えた。
「父が新聞を読みながら、欧州は大変なことになるかもしれないと言っていた」
「だが、戦争は起こらなかった」
「ああ」
ハミルトンは頷いた。
「だから、今回も大丈夫だろう」
そう言ったものの、彼自身、その言葉に確信を持てなかった。
8月18日。
ロンドンからポーツマスへ戻る汽車の中でも、彼は同じように考えていた。
欧州情勢は緊張している。
しかし、戦争にはならない。
英国には強大な海軍があり、欧州各国も全面戦争の危険性を理解している。
だから、最後には外交によって解決するはずだ。そう信じていた。
しかし、今は少し違っていた。
海軍本部は、予定されていた大規模な艦隊演習を突然中止させた。
それも、詳細な理由を知らせることなく。
ハミルトンは小さく息を吐いた。
「……妙な気分だ」
「どうした?」
ベネットが尋ねた。
「いや、何でもない」
ハミルトンは微笑んだ。
「ポーツマスに戻れば、少しは事情が分かるだろう」
「そうだな」
二人は再び紅茶を口に運んだ。
しかし、その後も会話は弾まなかった。
―同日 午後4時15分―
北海 青艦隊旗艦「フッド」艦橋
「フッド」はポーツマスに向けて北海を南下していた。
後方には、「レパルス」と「リナウン」が続いている。
さらに遠方には、青艦隊の戦艦部隊が航行していた。
演習は中止になったが、艦隊の解散は各所定の港に到着後とされ、それまでは艦隊は陣形を保って航行した。
艦橋では、ウェストン艦長が航海士官から報告を受けていた。
「現在の針路240°、予定航路上、異常なし」
「速力、16ノット」
「天候、曇天。視界良好」
ウェストンは頷いた。
「よろしい」
彼は海図を確認した。
「このまま南下を続ける」
「はっ!」
その時、ペンブローク中将が艦橋へ現れた。
「ウェストン艦長」
「閣下」
二人は敬礼を交わした。
「帰投は順調か?」
「はっ。現在のところ、問題ありません」
「そうか」
ペンブロークは水平線を見つめた。
そこには、青艦隊の軍艦群が整然と隊列を組んで進んでいた。
「……見事なものだな」
「これほどの軍艦を動かすには、多くの人間の努力が必要だ」
ウェストンは頷いた。
「はい」
「艦長、士官、下士官、水兵。誰一人欠けても、この艦隊は十分に機能しない」
彼は少し間を置いた。
「そして、もし戦争が始まれば、この者たちを戦場へ送り出すことになる」
ウェストンは何も答えなかった。
ペンブロークは静かに続けた。
「私は長年、海軍で勤務してきた」
彼は遠くの水平線へ目を向けた。
「若い頃は、いつか大きな海戦を指揮することを夢見ていたものだ」
「……閣下」
「だが、今は少し違う」
ペンブロークは小さく笑った。
「できることなら、この艦隊を戦争に使う日など来ない方がいいと思っている」
ウェストンは静かに頷いた。
「私も同じ考えであります」
二人はしばらく黙って海を眺めていた。
やがて、ペンブロークは口を開いた。
「もっとも、我々が戦争を望まなくとも、戦争が起こらないとは限らん」
ウェストンは顔を上げた。
「……はい」
「だからこそ、我々は備えねばならんのだろうな」
ペンブロークは静かに言った。
その言葉に、ウェストンは深く頷いた。
―同日 午後6時40分―
巡洋戦艦「フッド」上甲板
夕暮れの北海には、冷たい風が吹いていた。
西の空には僅かに赤みが残り、水平線の彼方へ沈もうとする太陽が、灰色の海面を照らしていた。
ハミルトンは上甲板に立ち、遠ざかっていく演習海域を見つめていた。
その隣には、ベネットが立っていた。
「随分と静かになったな」
ベネットが言った。
「ああ」
ハミルトンは答えた。
「数時間前まで、あれほど慌ただしかったのにな」
二人は海を見つめた。
「フッド」の後方には、「レパルス」と「リナウン」が続いていた。
巨大な軍艦三隻が、夕暮れの北海を南下している。
その光景は、どこか幻想的であった。
「エドワード」
ベネットが尋ねた。
「もし、本当に戦争が始まったらどうする?」
ハミルトンは少し驚いた。
「どうするとは?」
「我々は、ドイツ海軍と戦うことになるのだろうか」
ハミルトンはしばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「……恐らくな」
彼は「フッド」の巨大な主砲塔を見上げた。
「この艦は、そのために建造されたと言っても過言ではない」
15インチ砲8門。
強大な機関出力。
厚い装甲。
それらは全て、敵艦隊との戦闘を想定して備えられたものであった。
しかし、ハミルトンはふと疑問を感じた。
もし本当に戦争が始まれば、これらの砲は人間に向けて使用されることになる。
今日の演習では、敵艦に見立てた「クイーン・メリー」へ模擬射撃を行った。
だが、実戦ではそうはいかない。
砲弾が命中すれば、艦内では多くの人間が死傷する。
敵艦を撃沈すれば、何百人もの水兵が海へ投げ出されるかもしれない。
その敵艦にも、フッドと同じように若い水兵や下士官、士官たちが乗っている。
彼らにも家族があり、故郷がある。
ハミルトンは小さく息を吐いた。
「……戦争とは、嫌なものだな」
ベネットは彼を見つめた。
「珍しいことを言うな」
「そうか?」
「ああ。君はいつも、「フッド」の砲力がどれほど優れているかを話しているじゃないか」
ハミルトンは苦笑した。
「それとこれとは別だ」
彼は続けた。
「私は砲術が好きだ。軍艦も好きだ。だが、人を殺したいわけではない」
ベネットは静かに頷いた。
「……そうだな」
二人は再び水平線を見つめた。
遠くの空には、夕暮れの最後の光が残っていた。
「まあ、心配しすぎても仕方がない」
ハミルトンは言った。
「ああ」
ベネットは頷いた。
「港へ戻れば、また温かい食事が待っている」
「君は本当に食事のことばかりだな」
「君ほど砲術に熱心ではないからな」
二人は小さく笑った。
しかし、その笑い声は、冷たい北海の風にすぐに消えていった。
―同日 午後8時15分―
北海 青艦隊旗艦「フッド」艦橋
北海には、夜の帳が下りていた。
艦橋では夜間航海のための準備が整えられ、見張員たちが周囲の海面を監視していた。
「フッド」は依然として南下を続けていた。
その後方には、「レパルス」と「リナウン」が続いている。
ウェストン艦長は海図を確認すると、当直士官へ指示を出した。
「針路を維持。速力は16ノット」
「はっ!」
「他艦との距離に注意せよ」
「了解しました」
ウェストンは艦橋の窓から外を見つめた。
暗い海面には、僅かな月明かりが反射していた。
その時、ペンブローク中将が静かに近づいてきた。
「ウェストン艦長」
「閣下」
「海軍本部から、新しい情報は?」
「現在のところ、ありません」
「そうか」
ペンブロークは小さく息を吐いた。
「……やはり、気になるな」
「はい」
ウェストンは答えた。
「演習を突然中止させるほどの事態です。何も起きていないとは考えにくいかと」
ペンブロークは頷いた。
「だが、我々にはまだ何も知らされていない」
彼は暗い水平線を見つめた。
「今は、命令に従って帰投するしかない」
「その通りであります」
ウェストンは答えた。
二人はしばらく黙っていた。
艦橋には、羅針儀の照明と計器類の灯りが静かに輝いていた。
遠くでは、後続艦の航海灯が小さく見えていた。
その光景は、普段の夜間航海と何ら変わらないものであった。
しかし、艦橋に立つ将校たちの胸には、説明のつかない不安が広がっていた。
数時間前まで、彼らは演習の勝敗を考えていた。
どのように敵艦隊を発見するか。
どのように有利な位置を占めるか。
どのように主砲を命中させるか。
しかし今、彼らが考えているのは全く別のことであった。
欧州で、何が起こっているのか。
そして、英国はこれからどうなるのか。
その答えを知る者は、フッドの艦内には誰もいなかった。
やがて、ペンブロークは静かに口を開いた。
「……ウェストン艦長」
「はっ」
「この艦を、無事にポーツマスへ連れて帰ってくれ」
ウェストンは姿勢を正した。
「もちろんであります、閣下」
ペンブロークは頷いた。
「頼んだぞ」
「はっ!」
二人は敬礼を交わした。
ペンブロークは艦橋を後にした。
ウェストンは再び海図へ目を落とした。
ポーツマスまでは、まだ長い航海が残されている。
彼は懐中時計を取り出した。
午後8時21分。
北海の夜は、まだ始まったばかりであった。
―同日 午後10時30分―
北海 青艦隊旗艦「フッド」下甲板居住区 第二兵員室
艦内の居住区では、多くの水兵たちが休息を取っていた。
昼間の演習で疲れた者たちは、吊床に横たわり、静かに眠っていた。
その一方で、夜間当直に就く水兵たちは身支度を整えていた。
ジョージ・トンプソンも、その一人であった。
彼は制服を整えながら、隣の吊床で眠っている同僚を見つめた。
数時間前まで、皆が演習の話で盛り上がっていた。
しかし今は、誰もが口数を減らしていた。
トンプソンは、机の上に置かれた手紙を手に取った。
故郷の母親へ宛てた手紙である。
そこには、数日前に書いた文章が残っていた。
『明日は大きな演習があります。きっと良い経験になると思います。』
彼はその文章を読み返した。
そして、少し考えてから続きを書き加えた。
『演習は途中で中止になりました。理由は分かりません。でも、僕は元気です。心配しないでください。』
トンプソンはペンを置いた。
その時、背後から声がした。
「ジョージ」
振り返ると、ブラウン兵曹長が立っていた。
「当直の時間だぞ」
「はい!」
トンプソンは手紙を折りたたんだ。
そして、立ち上がった。
「兵曹長」
「何だ?」
「……戦争になるんでしょうか?」
ブラウンは少し驚いたように彼を見つめた。
そして、静かに答えた。
「分からん」
彼は続けた。
「だが、戦争にならないことを願っている」
トンプソンは頷いた。
「僕もです」
「ああ」
ブラウンは小さく笑った。
「さあ、行くぞ」
「はい!」
二人は居住区を後にした。
艦内の通路には、軍靴の音が響いていた。
その音は、やがて遠ざかっていった。
―1924年9月7日 午後11時55分―
北海 青艦隊旗艦「フッド」艦上
深夜の北海は、静寂に包まれていた。
空には厚い雲が広がり、月明かりはほとんど届いていなかった。
その暗い海上を、「フッド」は南へ向けて進んでいた。
二本の煙突からは黒煙が立ち上り、巨大な船体は波を切り裂きながら航行していた。
艦橋では、夜間当直の将校たちが静かに勤務を続けていた。
艦内では、多くの乗組員が眠りについていた。
しかし、ハミルトンはまだ眠れずにいた。
彼は上甲板に立ち、暗い水平線を見つめていた。
冷たい海風が頬を撫でていく。
遠くには、後続の「レパルス」と「リナウン」の灯りが小さく見えていた。
ハミルトンは制帽を押さえながら、静かに呟いた。
「……一体、何が起きているんだ」
答える者はいなかった。
ただ、波の音だけが聞こえていた。
彼はふと、8月18日のことを思い出した。
休暇を終え、ロンドンからポーツマスへ戻る汽車の中。
新聞には、欧州情勢の緊張を伝える記事が載っていた。
しかし、あの時の彼は、戦争など起こらないと考えていた。
10年前も、欧州は戦争の危機を乗り越えた。
今回も、きっと同じように外交交渉によって解決するはずだ。
そう信じていた。
だが、今は違っていた。
海軍本部は、大規模な艦隊演習を突然中止させた。
そして、フッドは理由も知らされないままポーツマスへ向かっている。
ハミルトンは背後を振り返った。
そこには、巨大な15インチ砲塔が静かに佇んでいた。
昼間の演習では、あの砲を使って「クイーン・メリー」を相手に模擬射撃を行った。
しかし、もし本当に戦争が始まれば、あの砲は敵艦へ向けて実弾を発射することになる。
彼はしばらく砲塔を見つめていた。
そして、静かに呟いた。
「……そんな日が来なければいいが」
ハミルトンは再び水平線を見つめた。
そこには、暗い海がどこまでも広がっていた。
その向こうには、欧州大陸がある。
そして、その大陸では、各国の政府と軍部が重大な決断を迫られていた。
だが、北海演習参加艦艇の乗組員たちは、まだ何も知らなかった。
ただ、突然の命令に従い、母港へ向かっていたのである。
ハミルトンは甲板を後にした。
その背後では、「フッド」の巨大な主砲塔が、暗い北海を見つめるように静かに佇んでいた。
1924年9月7日。
英国海軍の大規模艦隊演習は、予定された結末を迎えることなく中止された。
その理由を知る者は、まだ限られていた。
艦隊は本土へ向けて航海を続けていた。
そして、北海の向こうでは、欧州各国の軍隊が静かに動き始めていた。
10年前、欧州は辛うじて全面戦争を回避した。
だが、あれから10年。
軍艦は巨大化し、火砲は強力になり、各国の軍備は以前よりも遥かに強大になっていた。
その全てが、実際に使用される日が訪れるかもしれなかった。
欧州の平和は、まだ保たれていた。
しかし、その平和を支えていた均衡は、静かに崩れ始めていたのである。
―序章 第七節「北海演習」 終―




