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序章 第七節「北海演習」中編


―1924年9月7日 午前6時10分(英国時間)―

大英帝国 北海南部 英国海軍演習海域



 北海の水平線が、徐々に明るくなってきた。

 薄い霧の向こうには、巨大な軍艦の艦影が幾つも浮かび上がっていた。

 先頭を進むのは巡洋戦艦「フッド」。

 その後方には「レパルス」、「リナウン」が続き、側面には3隻の戦艦並ぶ複縦陣を組んでいた。

6隻の主力艦。

 それらを護衛する軽巡洋艦と駆逐艦。

 この大艦隊こそ、今回の演習における青艦隊であった。

 対する赤艦隊も、同じく6隻の主力艦を中心に編成されていた。

 今回の演習では、双方に戦艦3隻、巡洋戦艦3隻が配属されていた。


 演習統制部が定めた編成は、以下の通りであった。



青艦隊    旗艦「フッド」

巡洋戦艦3隻

「フッド」 アドミラル級

「レパルス」リナウン級

「リナウン」リナウン級

戦艦3隻

「アイアン・デューク」アイアン・デューク級

「ベンボウ」 アイアン・デューク級

「キング・ジョージ5世」キング・ジョージ5世級


赤艦隊  旗艦「クイーン・メリー」

巡洋戦艦3隻

「クイーン・メリー」ライオン級

「プリンセス・ロイヤル」ライオン級

「タイガー」タイガー級

戦艦3隻

「オライオン」オライオン級

「モナーク」オライオン級

「サンダラー」オライオン級



 このほか、双方には索敵と護衛を担当する軽巡洋艦および駆逐艦が配属されていた。


 演習の目的は単純であった。

 敵艦隊を発見し、有利な位置を占め、主力艦隊による砲撃戦へ持ち込むこと。

 しかし、その過程は決して単純ではなかった。

 広大な北海では、敵の位置を把握すること自体が困難である。

 通信の遅延、視界の変化、敵の欺瞞行動、そして艦隊運動の僅かな乱れ。

 それらが重なれば、どれほど強力な艦隊でも容易に不利な状況へ追い込まれる。


 今回の演習では、青艦隊が北方から進出し、赤艦隊が南東方面から接近することになっていた。

 両者は互いの正確な位置を知らされていない。

 つまり、最初に敵を発見することが、勝敗を左右する重要な要素となるのであった。



―同日 午前6時35分―

青艦隊旗艦「フッド」艦橋



「各艦、演習配置完了!」

 信号士官が報告した。

「よろしい」

 ペンブローク中将は頷いた。

 彼の前には、北海の海図が広げられていた。

 青艦隊の現在位置は、赤い鉛筆で記されている。

 しかし、赤艦隊の位置は不明であった。

「索敵部隊からの報告は?」

「現在のところ、敵艦隊発見の報告はありません」

「そうか」

 ペンブロークは双眼鏡を手に取った。

「敵もこちらを探しているはずだ」

 彼は水平線を見つめた。

「先に発見されれば、こちらの行動を読まれる可能性がある」

 幕僚が頷いた。

「軽巡洋艦部隊を前方へ進出させますか?」

「ああ」

 ペンブロークは答えた。

「索敵線を広げろ。ただし、主力艦隊との連絡を失わぬように」

「はっ!」

 間もなく、「フッド」から信号が発せられた。

前方に配置されていた軽巡洋艦が速力を増し、それぞれの担当海域へ向かっていった。

 その後方では、駆逐艦が主力艦隊の周囲を警戒していた。

 ペンブロークは海図を確認した。

「戦艦部隊は現在の針路を維持。巡洋戦艦部隊は前方へ進出する」

「了解しました」

 フッドの艦橋では、次々と命令が伝えられていった。

「各艦に通達。複縦陣から単縦陣に陣形を変更する。戦艦隊は現在の進路速力を維持、巡洋戦艦隊は旗艦を先頭に前進せよ。」

 各艦は事前の訓練通りゆっくりと隊形を変え始めた。





―同日 午前7時20分―

北海 赤艦隊旗艦「クイーン・メリー」艦上 



 一方、赤艦隊もまた、敵を探していた。

 巡洋戦艦クイーン・メリーの艦橋には、赤艦隊司令官のロバート・チャールズ・アシュベリー海軍中将が立っていた。54歳。


 長年にわたり英国海軍の主力艦隊で勤務し、特に大胆な艦隊運動を得意とする指揮官であった。

 彼は慎重なペンブロークとは対照的に、積極的な機動によって敵の弱点を突く戦術を好んでいた。


「青艦隊の位置は?」

「現在、索敵中であります」

 参謀士官が答えた。

「敵前衛は「フッド」を中心とする高速部隊と推定されます」

「当然だろうな」

 アシュベリーは頷いた。

「足の速い「フッド」を後方に置いておく理由はない」

 彼は海図を指し示した。

「我々は南東から接近している。敵が北方から来るなら、ここで接触する可能性が高い」

「では、「タイガー」を前方へ?」

「ああ」

 アシュベリーは答えた。

「戦艦「タイガー」と「プリンセス・ロイヤル」を先行させろ。巡洋戦艦で構成されていると思われる敵前衛を発見したら、こちらの主力戦艦部隊へ誘導する」

「はっ!」

 彼は少し笑った。

「ペンブロークは慎重な男だ。恐らく、最初は様子を見るだろう」

「その間に有利な位置を占めるわけですな」

「そういうことだ」

 アシュベリーは双眼鏡を構えた。

「さて、フッドがどれほどの働きを見せるか、楽しみだな」

信号見張り員の水兵が報告した。

「「タイガー」、「プリンセス・ロイヤル」から了解信号!」「本艦速力を18ノットに増速する。」

 赤艦隊もまた、行動を開始した。




―同日 午前8時40分―

青艦隊前衛 巡洋戦艦「フッド」艦上



 「フッド」の艦橋では、見張員たちが水平線を監視していた。マストには熟練の見張員が登り遥か遠方を見渡していた。

 海面には薄い霧が残り、遠方の視界は決して良好とは言えなかった。

「前方、異常なし!」

「右舷方向、艦影なし!」

 次々と報告が上がっていた。


 ハミルトンは砲術指揮所で、測距装置の状態を確認していた。

「測距儀、異常なし」

「射撃計算装置、準備完了」

「各主砲塔、配置完了」

 部下たちの報告を聞き、ハミルトンは頷いた。

「よろしい」

 彼は腕時計を確認した。

 午前8時40分。

演習開始から既に二時間以上が経過していた。

 しかし、まだ敵艦隊は発見されていなかった。

「なかなか現れませんな」

 砲術下士官が言った。

「ああ」

 ハミルトンは答えた。

「だが、敵も同じように我々を探しているはずだ」

彼は双眼鏡を手に取った。

「油断するなよ」

「はっ!」


 その時だった。

 マストに登っていた水兵から突然、鋭い声が響いた。

「右舷前方、煙を確認!」

 続いて艦橋の見張員も報告した。

「艦首方向に煙を視認!艦影まだ見えない。」

 ハミルトンは顔を上げた。

「……来たか」

 水平線の彼方に、細い黒煙が見えていた。

 最初は一筋だけであったが、やがて二筋、三筋と増えていった。

「艦影は?」

「まだ見えません!」

 艦橋では、見張員たちが双眼鏡を覗き続けていた。

 数分後、最初の報告が届いた。

「軍艦と思われる艦影、二隻!」

 ハミルトンは息を呑んだ。

当直の航海士官も双眼鏡を見ながら言った。

「確かに軍艦、それも巡洋戦艦に見えるな。」

「識別は?」

「ライオン級とタイガー級だと思われます!」

「ならば「プリンセス・ロイヤル」と「タイガー」だな」

航海士官は艦長に報告した。

「艦隊、前方に巡洋戦艦らしき艦影を2隻視認しました。「プリンセス・ロイヤル」及び「タイガー」だと思われます。」


 ついに赤艦隊の前衛を発見したのである。


―同日 午前9時05分―

青艦隊旗艦「フッド」艦橋



「敵巡洋戦艦二隻をさらに近づく!」

 見張員の報告が響いた。

 ペンブローク中将は双眼鏡を構えた。

 水平線の彼方に、二隻の巡洋戦艦が見えていた。


「……「タイガー」と「プリンセス・ロイヤル」か」

 彼は静かに呟いた。

 ウェストン艦長が尋ねた。

「閣下、いかがいたしましょう?」

 ペンブロークは海図を確認した。

「敵前衛が二隻だけということはあるまい」

「「クイーン・メリー」が後方にいる可能性があります」


「そうだろうな」

 彼は頷いた。

「だが、こちらも敵を発見した以上、何もせずに引き下がるわけにはいかん」

 ペンブロークは命じた。

「巡洋戦艦部隊、速力25ノット!」

「了解!」

 航海科下士官が速力指示機を操作した。

 ジリリリン。ベルが鳴り針は25を指した。

「敵前衛へ接近する。ただし、戦艦部隊との連絡を維持せよ」

 フッドの艦橋から信号が発せられた。

 後続の「レパルス」と「リナウン」も速力を増していった。


 巨大な軍艦3隻が、白い航跡を残しながら北海を進んでいく。

 その光景は、まさに英国海軍の威容を示すものであった。

 しかし、相手もまた英国海軍の精鋭であった。


 赤艦隊は、青艦隊の敵艦隊発見ほぼ同じ時刻に「フッド」を発見していた。

 「タイガー」と「プリンセス・ロイヤル」は、青艦隊の接近を確認すると針路を変更した。

 敵前衛を誘導するためである。

「敵艦、取り舵回頭!本隊の右へ変針中!」

 見張員が報告した。

「追跡しますか?」

 ウェストンが尋ねた。

 ペンブロークは少し考えた。


「……追う」

 彼は答えた。

彼は答えた。

「ただし、深追いはするな」

 その命令によって、青艦隊の巡洋戦艦部隊は赤艦隊の前衛を追跡し始めた。

「面舵20度」

「了解!面舵20度ようそろ!」

操舵員が舵輪を回すと、艦はゆっくりと回頭した。



―同日 午前9時35分―

巡洋戦艦「フッド」砲術指揮所



「敵巡洋戦艦、距離2万2000ヤード!」

 測距員が報告した。

「目標、「タイガー」!」

 ハミルトンは命じた。

「各主砲塔、模擬射撃準備!」

 砲術員たちは素早く操作を進めた。

 艦首の二基の主砲塔が、敵艦の方向へ向けられていく。

巨大な砲身がゆっくりと動く様子は、まるで鋼鉄の巨人が腕を伸ばすようであった。

「第一主砲塔、旋回角よし、仰角よし!射撃準備よし!」

「第二主砲塔、旋回角よし、仰角よし!射撃準備よし!」


 次々と報告が上がった。

 ハミルトンは射撃計算の結果を確認した。

「砲術長!第一、二番砲塔準備よろしい!射撃用意よし!」

 彼は伝声管へ向かって叫んだ。

 艦橋の砲術長は艦長に向けて言った。

 「艦長!射撃用意よし!いつでも打てます」

 発射の号令は艦長が下した。

 「打ち方始め!」

 艦長の声を伝声管から聞いたハミルトンは再び叫んだ。

「第一斉射、模擬発射!打ち方始め!」

 砲術員たちが発射操作を行った。

 実際の砲弾は発射されない。

 今回の部隊対抗演習では、射撃諸元を記録し、演習判定員が命中の可能性を評価する方式が採用されていた。

 数分後、判定結果が届いた。

「第一斉射、遠弾判定!」

「修正、下げ400!」

 ハミルトンは即座に命じた。

「第二斉射、準備!」

 砲術員たちは素早く操作を進める。


 その一方、赤艦隊の「タイガー」も「フッド」に対して模擬射撃を開始していた。

 両艦は互いに針路を変えながら、有利な射撃位置を確保しようとしていた。

「敵艦、面舵変針!」

「変距離計算急げ!」

 ハミルトンは射撃計算表を確認した。

「修正、右百!」

 彼は命じた。

「第二斉射、模擬発射!打て!」

 再び発射操作が行われた。

 その結果を待つ間、ハミルトンは双眼鏡を覗いた。指揮所の狭い窓から「タイガー」の長大な船体が遠方に小さく見えていた。

 その後方には「プリンセス・ロイヤル」が続いている。

 そして、さらに遠方には別の艦影が現れ始めていた。

「……あれは?」

 ハミルトンは目を凝らした。

 次の瞬間、艦橋から報告が響いた。

「敵巡洋戦艦、さらに一隻を確認!」

「識別、「クイーン・メリー」!」

 ハミルトンは小さく息を吐いた。

「……ようやく現れたか」




―同日 午前10時00分―

北海 赤艦隊旗艦「クイーン・メリー」艦橋



 赤艦隊司令官アシュベリー中将は、前方に現れた青艦隊を見つめていた。

 「フッド」、「レパルス」、「リナウン」。

 3隻の巡洋戦艦が単縦列を組み、こちらへ接近している。


「見事な艦隊だな」

 アシュベリーは呟いた。

 隣の参謀士官が答えた。

「アドミラル級の「フッド」は、やはり一際大きく見えますな」

「ああ」

 アシュベリーは頷いた。

「だが、戦いは大きさだけで決まるものではない」

 彼は海図を確認した。

「敵は我々を追跡している。予定通り、戦艦部隊の前方へ誘導する」

「はっ!」

「各艦に通達、「クイーン・メリー」は速力を維持。「タイガー」と「プリンセス・ロイヤル」は敵前衛を牽制せよ」

 命令が伝えられた。

 赤艦隊の3隻の巡洋戦艦は、互いに距離を保ちながら進路を調整していった。

 アシュベリーは微笑んだ。

「さて、ペンブロークはどう出るかな」

 彼は双眼鏡を構えた。

 その向こうには、「フッド」の巨大な艦影が見えていた。

 同じ英国海軍の軍艦でありながら、今は敵役として互いに戦っている。

 しかし、もし実戦となれば、この光景は全く異なるものになるだろう。

 アシュベリーは静かに呟いた。

「……本物の戦争でなければよいがな」




―同日 午前10時40分―

青艦隊旗艦「フッド」艦橋



「敵戦艦と思われる艦影視認!現在識別中!」

 見張員の水兵の声が響いた。

 「識別も何もあるか!赤部隊の戦艦は全部オライオン級だ!」

 隣にいた下士官が怒鳴った。

 ペンブローク中将は双眼鏡を構えた。

水平線の向こうに、3隻の戦艦が現れていた。

 「オライオン」「モナーク」「サンダラー」

 赤艦隊の主力戦艦部隊であった。


「……やはり誘導されていたか」

 ペンブロークは小さく呟いた。

 ウェストン艦長が尋ねた。

「閣下、いかがいたしましょう?」

 ペンブロークは海図を確認した。

 青艦隊の戦艦部隊は、まだ後方に位置していた。

 このまま前進すれば、巡洋戦艦部隊だけで敵主力と交戦する可能性がある。


「速力を落とせ」

 ペンブロークは命じた。

「巡洋戦艦部隊は敵との距離を維持。戦艦部隊の到着を待つ」

「はっ!」

 「フッド」は速力を落とし、針路を僅かに変更した。

 後続の「レパルス」と「リナウン」も、その動きに続いた。

 その間、青艦隊の戦艦部隊は速力を増し、前衛部隊との合流を急いでいた。


 「アイアン・デューク」「キング・ジョージ5世」「ベンボウ」

 3隻の戦艦が、巨大な船体を揺らしながら北海を進んでいた。


艦橋では、ペンブロークが海図を見つめていた。

「敵は我々を罠に誘い込もうとしている」

 彼は言った。

「だが、こちらも簡単には乗らん」

 幕僚が頷いた。

「戦艦部隊が到着すれば、互角の戦力となります」

「ああ」

 ペンブロークは答えた。

「そこからが本当の勝負だ」




―同日 午前11時10分―

北海 英国海軍艦隊演習海域



 ついに、双方の主力艦隊が互いの視界に入った。

 青艦隊6隻。赤艦隊6隻。

 合計12隻の戦艦と巡洋戦艦が、北海の広大な海域で対峙していた。

 その周囲では、軽巡洋艦と駆逐艦が護衛の任務を続けていた。


 艦隊の煙突からは黒煙が立ち上り、灰色の海面には無数の白い航跡が描かれていた。

 青艦隊のフッドでは、ペンブローク中将が最終的な指示を出していた。

「戦艦部隊を左翼へ展開!」

「了解!」

「巡洋戦艦部隊は敵前衛を牽制しつつ、敵主力の進路を制限せよ!」

次々と命令が伝えられた。

 一方、赤艦隊のクイーン・メリーでも、アシュベリー中将が艦隊運動を指揮していた。

「戦艦部隊、針路を維持!」

「巡洋戦艦部隊は敵前衛に対する模擬射撃を継続!」

双方の艦隊は、互いに有利な位置を占めようと複雑な運動を繰り返していた。


 ハミルトンは砲術指揮所から、その様子を見つめていた。

 目の前には、「クイーン・メリー」の巨大な艦影が見えていた。

 その後方には、3隻の戦艦が並んでいる。

 もしこれが実戦であれば、既に大口径砲弾が飛び交っているはずであった。

 しかし、今は演習である。

 双方の軍艦は模擬射撃を繰り返し、演習判定員が戦闘の経過を記録していた。


「第三斉射、夾叉判定!」

 報告が響いた。

 ハミルトンは頷いた。

「よし!」

 彼は命じた。

「そのまま射撃を継続!」

砲術員たちは素早く操作を進めた。


 艦橋では敵艦の動きを素早く計算し、最適な射撃位置を保ち続けるため見張員、操舵員、信号員、伝令、航海士官が懸命に動いていた。

「敵主力艦隊、取舵!左へ変針!」

「了解!こちらも針路変更!距離を開かせるな!」

「各艦に信号送れ!」


 「フッド」の巨大な船体が、ゆっくりと傾いた。

 海面には大きな白い航跡が描かれた。

 後続の「レパルス」と「リナウン」も、先頭艦の動きに続いた。


 北海では、12隻の主力艦による大規模な模擬海戦が、いよいよ最終段階へ入ろうとしていた。

 双方の司令官は、敵の進路を横切る有利な位置を占めようとしていた。

 しかし、どちらも容易には譲らなかった。

 その光景は、英国海軍が長年にわたって研究してきた艦隊戦術の集大成であった。


 そして、演習の行方は、まだ誰にも分からなかった。



第七節 後編へ

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