序章 第七節「北海演習」前編
―1924年9月7日 午前5時20分(英国時間)―
大英帝国 北海南部 英国海軍巡洋戦艦「フッド」艦上
英国グレートブリテン島と欧州大陸に挟まれた大西洋の付属海、北海。
夜明け前の海原には、冷たい風が吹いていた。
空はまだ薄暗く、水平線の彼方には灰色の雲が低く垂れ込めている。波はそれほど高くなかったものの、長大な船体は緩やかなうねりに合わせて上下し、艦首が海面を切り裂くたびに白い飛沫を上げていた。
その海上を、一隻の巨大な軍艦が進んでいた。
大英帝国海軍巡洋戦艦「フッド」。
全長262メートル。基準排水量4万トンを超える、世界最大級の軍艦であった。
艦首と艦尾に配置された4基の連装砲塔には、合計8門の15インチ砲が収められている。その巨大な砲身は、まだ薄暗い水平線へ向けられていた。
二本の煙突からは黒煙が立ち上り、冷たい風に流されていく。
艦橋には僅かな灯りが残り、見張員たちは双眼鏡を手に周囲の海面を監視していた。
「現在針路042° 予定航路上、異常なし」
「速力18ノット」
「前方視界、およそ8マイル」
当直士官たちの報告が、静かな艦橋に響いていた。
その一方、艦内では既に一日の活動が始まろうとしていた。
居住区では、当直を終えた水兵たちが吊床で眠り、別の水兵たちは起床の号令に従って身支度を始めていた。
艦内の通路には軍靴の音が響き、厨房からは朝食の準備をする音が聞こえていた。
機関室では、蒸気タービンを動かすための設備が絶え間なく稼働している。
油の匂い、熱気、蒸気の音。
艦の奥深くでは、機関員たちが交代で勤務を続けていた。
フッドには1400名を超える乗組員が配置されていた。
彼らはそれぞれの任務を果たしながら、この巨大な鋼鉄の城を動かしていたのである。
そして、この日、フッドは北海における大規模な艦隊演習を迎えようとしていた。
その準備は、既に1週間前から始まっていた。
―1週間前 1924年8月31日 午前7時15分―
大英帝国 ポーツマス海軍基地
朝のポーツマス軍港は、普段以上の活気に包まれていた。
岸壁では海軍兵士たちが忙しく行き交い、補給物資を積み込む作業が続けられていた。
石炭ではなく重油を燃料とする「フッド」には、燃料補給用の設備が接続され、出港に必要な補給が進められていた。
食料品、医薬品、機械部品。
洋上での航海に必要な物資が次々と運び込まれていた。
岸壁の近くには、出港を見送る人々の姿もあった。
海軍士官の家族。
水兵たちの妻や子供。
そして、軍港で働く人々。
彼らは出港準備を進める巨大な軍艦を見上げていた。
同じ頃「フッド」の甲板では、乗組員たちが慌ただしく動き回っていた。
「係留索、点検完了!」
「補給作業、まもなく終了!」
「機関部主機異常なし!」
「前部甲板出港準備よし!」
各部署から次々と報告が上がっていた。
その様子を艦橋から見下ろしていたのは、フッド艦長、リチャード・エドマンド・ウェストン海軍大佐であった。48歳。
長年にわたり英国海軍で勤務し、巡洋艦や戦艦の指揮を経験してきた人物である。
厳格な規律を重んじる一方、部下の意見にも耳を傾けることで知られていた。
特に航海術と艦隊運動に優れ、数年前に「フッド」の艦長を拝命していた。
ウェストンは年季の入った懐中時計を取り出した。これは昔、妻から貰った贈り物だった。
「……予定通りだな」
隣に立っていた副長が答えた。
「はっ。出港準備は順調に進んでおります」
「よろしい」
ウェストンは港内へ目を向けた。
「フッド」の周囲には、多くの軍艦が停泊していた。
戦艦、巡洋艦、駆逐艦。
そのいずれもが、英国海軍の威容を示していた。
「今回の演習は、海軍本部も相当に力を入れているようだな」
副長が言った。
「ああ」
ウェストンは頷いた。
「近年、ドイツ海軍の戦力は着実に増強されている。我々も、艦隊戦術を常に研究し続けねばならん」
彼はフッドの前部主砲塔へ視線を向けた。
「どれほど優れた軍艦でも、乗組員が十分に訓練されていなければ意味はない」
「おっしゃる通りです」
「今回の演習では、砲術だけでなく、通信、航海、艦隊運動の全てを確認する」
ウェストンは静かに続けた。
「実戦では、訓練でできないことは決してできんからな」
副長は姿勢を正した。
「はっ」
その時、艦橋の入口から一人の将校が現れた。
「艦長、青艦隊司令官がお見えです」
「分かった」
ウェストンは制帽を整えた。
「お迎えしよう」
間もなく、艦橋に一人の高級将校が姿を現した。
アーサー・ジョージ・ペンブローク海軍中将。
56歳。
今回の演習で青艦隊を指揮する司令官である。
若い頃から砲術と艦隊戦術の研究に携わり、英国海軍の主力艦隊で数々の要職を歴任してきた。
白髪交じりの髪と鋭い眼差しが印象的な人物であった。
「閣下。ようこそフッドへ」
二人は敬礼を交わした。
「出港準備は?」
「順調であります。予定時刻までに全て完了する見込みです」
「結構」
ペンブロークは艦橋内を見渡した。
「相変わらず見事な艦だな、「フッド」は」
「ありがとうございます」
「だが、今回の演習では油断は禁物だぞ」
ペンブロークは僅かに笑った。
「赤艦隊の司令官は、なかなか手強い人物だからな」
「承知しております」
ウェストンも微笑んだ。
「我が艦の乗組員も、十分に訓練を積んでおります」
「それは頼もしい」
ペンブロークは頷いた。
各部署からの報告を取りまとめた副長が叫んだ。
「艦内各部出港準備作業完了!出港準備よし!」
「了解!では、予定通り出港しよう」
―同日 午前9時00分―
ポーツマス軍港に、出港を知らせる号令が響いた。
「航海当番配置に付け!」
「フッド」の甲板では乗組員たちが所定の位置につき、艦首と艦尾では、係留索を扱う水兵たちが待機している。
艦橋では、艦長と航海士官たちが港内の状況を確認していた。
「艦橋内人員配置よし!」
「機関部、準備よし!」
「操舵装置、異常なし!」
「係留索、放し方用意よし!」
「前後部、曳船準備よし!」
ウェストンは周囲を確認した。
「よろしい」
そして声を出して命じた。
「出港用意!!」「係留索を放せ!」
「係留索、放せ!」
号令が甲板へ伝えられた。
水兵たちは手際よく係留索を外していった。
艦の側面には補助に当たる曳船が付き「フッド」の巨大な船体をゆっくりと動かし始めた。
岸壁から離れるにつれて、見送りの人々の姿が少しずつ遠ざかっていく。
甲板に立っていた若い水兵の一人が、岸壁へ向かって小さく手を振った。
その姿を見た下士官が声をかけた。
「おい、トンプソン!」
「はっ!」
「見送りはそれくらいにしておけ。まだ仕事が残っているぞ」
「申し訳ありません!」
水兵は慌てて姿勢を正した。
下士官は少し笑った。
「まあ、気持ちは分かるがな」
彼の名は、ウィリアム・ブラウン兵曹長。
42歳。
長年にわたり英国海軍で勤務してきた熟練の下士官であった。
若い水兵たちからは厳しい人物として恐れられていたが、面倒見の良い性格でも知られていた。
「今回も一週間程度の航海だ」
ブラウンは言った。
「すぐに帰ってこられるさ」
「はい!」
トンプソンは元気よく答えた。
やがてフッドは港口へ向けて進み始めた。
岸壁に並ぶ軍艦群が、ゆっくりと後方へ流れていく。
その中には、かつて英国海軍の主力として建造された戦艦もあった。
しかし、今や「フッド」の巨大な船体は、それらの艦艇を遥かに凌駕していた。
しかし、その「フッド」ですら既に時代遅れになりつつあった。
激化する建艦競争の中で多数の艦が生まれ、中には主砲に16インチ砲を搭載する艦もあった。
艦橋に立つペンブローク中将は、港内の光景を見つめていた。
「……英国海軍も、随分と変わったものだ」
彼は小さく呟いた。
ウェストンが顔を向けた。
「何かおっしゃいましたか?」
「私が若い頃、これほど巨大な軍艦が海を走るなど、想像もできなかった」
「時代の進歩ですな」
「ああ」
ペンブロークは頷いた。
「だが、軍艦が大きくなるほど、それを失った時の代償も大きくなる」
ウェストンは何も答えなかった。
航海長が艦長を呼んだ。
「艦長!本艦はポーツマスを出港しました。艦内各部異常ありません。以降は予定通り演習海面に向けて航行します。」
「了解」
フッドは港口を抜け、イギリス海峡へ向けて進み始めた。
―1924年9月2日 午前10時30分―
北海 巡洋戦艦「フッド」艦上
出港から三日目。
フッドでは、本格的な砲術訓練が行われていた。
甲板上では、砲術員たちが各砲塔の点検を進めていた。
15インチ砲を収めた巨大な砲塔は、まるで鋼鉄の要塞のようであった。
その内部では、砲員たちが複雑な装置を操作し、砲身の俯仰や砲塔の旋回を確認していた。
「第一主砲塔、旋回試験開始!」
「了解!」
低い機械音とともに、巨大な砲塔がゆっくりと回転した。
砲身が海上へ向けられ、所定の角度で停止する。
「旋回装置、異常なし!」
「俯仰装置、点検!」
次々と号令が響いた。
その様子を確認していたのは、エドワード・アーサー・ハミルトン海軍大尉であった。
フッドの砲術士官である。
彼は八月十八日に休暇を終えてポーツマスへ戻って以来、今回の演習準備に追われていた。
ハミルトンは手元の記録表を確認した。
「第二主砲塔の動作が、僅かに遅れているな」
隣にいた砲術下士官が答えた。
「はっ。油圧系統を再点検いたします」
「頼む」
ハミルトンは頷いた。
「本番で動作が遅れれば、射撃の機会を逃すことになる」
「承知しました」
下士官が去ると、ハミルトンは巨大な砲身を見上げた。
15インチ。
約38センチ。
その砲弾は、人間の背丈に近いほど巨大であった。
もし実戦で敵艦に命中すれば、装甲を貫き、艦内に甚大な損害を与える可能性がある。
しかし、その威力を正確に発揮するには、測距、射撃計算、砲塔操作、通信の全てが連携しなければならない。
「ハミルトン大尉!」
背後から声がした。
振り返ると、トーマス・ウィリアム・ベネット海軍大尉が立っていた。
フッドの航海科士官であり、ハミルトンの友人でもあった。
「相変わらず大砲と睨めっこか?」
ベネットが笑った。
「砲術士官だからな」
ハミルトンは答えた。
「君こそ、航海科の仕事はどうした?」
「ひと段落したところだ」
ベネットは砲塔を見上げた。
「しかし、何度見ても大きな砲だな」
「ああ」
「こんなものを八門も積んでいるんだから、フッドは大した艦だ」
ハミルトンは少し笑った。
「だが、砲が大きいだけでは勝てない」
「ほう?」
「敵を先に発見し、正確な距離を測り、適切な射撃諸元を求める。それができなければ、どれほど強力な砲でも意味はない」
ベネットは頷いた。
「なるほど。航海科の仕事も重要というわけだな」
「もちろんだ」
ハミルトンは笑った。
「君が艦を敵の射程内へ連れて行ってくれなければ、我々は何もできん」
「それは責任重大だ」
二人は笑い合った。
その時、艦内から昼食を知らせる号令が聞こえてきた。
「さて」
ベネットが言った。
「仕事の話はそこまでにして、食事にしないか?」
「そうだな」
ハミルトンは記録表を閉じた。
「今日は何が出るんだ?」
「さあな。少なくとも、昨日の魚料理よりは良いことを願っている」
二人は笑いながら艦内へ向かった。
―同日 午後12時10分―
巡洋戦艦「フッド」士官食堂
士官食堂には、勤務を終えた将校たちが集まっていた。
白いテーブルクロスの上には食器が並び、給仕係が料理や紅茶を運んでいた。
艦の動揺に合わせて食器が僅かに音を立てている。
壁には絵画や時計が掛けられ、室内はさながら豪華客船のような雰囲気が漂っていた。
「今回の演習は、かなり大掛かりらしいな」
一人の士官が言った。
「ああ。戦艦六隻、巡洋戦艦六隻。それに護衛の巡洋艦や駆逐艦も加わるそうだ」
「まるで実戦だな」
「実戦を想定した演習だからな」
ハミルトンは紅茶を口に運びながら、会話に耳を傾けていた。
「相手の赤艦隊には、「クイーン・メリー」がいるそうだぞ」
ベネットが言った。
「クイーン・メリーか」
ハミルトンは顔を上げた。
「なかなか面白い相手だ」
巡洋戦艦「クイーン・メリー」
1913年に竣工した、英国海軍の巡洋戦艦である。
13.5インチ砲8門を備え、高速性能を重視して設計された艦であった。
「フッド」より一世代前の艦ではあったが、その戦闘能力は決して侮れなかった。
「でも、「フッド」なら簡単に勝てるのでは?」
若い士官が尋ねた。
ハミルトンは首を横に振った。
「そうとも限らん」
「と申しますと?」
「海戦では、先に敵を発見し、有利な位置を占めた方が勝つこともある」
彼は続けた。
「それに、今回の演習は一対一の決闘ではない。艦隊全体の戦術が試される」
「なるほど……」
若い士官は頷いた。
その時、食堂の扉が開かれた。
入ってきたのは、ウェストン艦長であった。
士官たちは姿勢を正した。
「諸君、楽にしてくれ」
ウェストンは穏やかに言った。
「食事中に邪魔をしてすまんな」
彼は席につくと給仕係の水兵に紅茶を頼んだ。
「今回の演習について話していたのか?」
「はっ」
ハミルトンが答えた。
「赤艦隊との戦闘についてであります」
「そうか」
ウェストンは微笑んだ。
「よいことだ。演習では、常に相手の行動を考える必要がある」
彼は将校たちを見渡した。
「ただし、忘れてはならんことがある」
食堂が静かになった。
「今回の相手は、我々と同じ英国海軍の軍艦だ。互いに手の内を知っているからこそ、容易には勝てん」
ウェストンは続けた。
「そして、もし実戦となれば、相手はドイツ海軍になるかもしれない」
その言葉に、士官たちは僅かに表情を引き締めた。
ウェストンは紅茶を口に運んだ。
「もっとも、戦争など起こらないに越したことはないがな」
ハミルトンは静かに頷いた。
彼もまた、そう願っていた。
―1924年9月5日 午後4時00分―
北海 青艦隊旗艦「フッド」司令官公室
演習開始を二日後に控え、「フッド」では最終的な作戦会議が開かれていた。
司令官公室には、青艦隊司令官ペンブローク中将をはじめ、幕僚たちが集まっていた。
大きな海図台の上には北海の地図が広げられ、予定される演習海域や艦隊の進路が記されていた。
「今回の演習では、青艦隊が北方から進出する」
ペンブロークが説明した。
「赤艦隊は南東方面から接近する想定だ」
幕僚の一人が海図を指し示した。
「敵前衛は巡洋戦艦三隻と推定されます」
「うむ」
「こちらも「フッド」、「レパルス」、「リナウン)の三隻を前衛として運用いたします」
ペンブロークは頷いた。
「戦艦部隊は?」
「「アイアン・デューク」、「キング・ジョージ五世」、「ベンボウ」の三隻です」
「よろしい」
ペンブロークは海図を見つめた。
「敵を先に発見できれば、我々が有利になる」
彼は続けた。
「だが、赤艦隊も同じことを考えているはずだ」
ウェストン艦長が口を開いた。
「閣下、「フッド」を前衛の先頭に配置するのであれば、敵巡洋戦艦との接触は避けられないと思われます」
「その通りだ」
ペンブロークは答えた。
「だからこそ、「フッド」の性能を最大限に活用する」
その時、演習統制部から派遣されていた高級将校が口を開いた。
ヘンリー・ロバート・フェアファックス海軍少将。53歳。
今回の演習で統制部の主任判定官を務める人物である。
「司令官閣下、一点確認しておきたいことがあります」
「何だね?」
「今回の演習では、各艦の模擬射撃結果に加え、艦隊運動と通信能力も評価対象となります」
「承知している」
「また、演習中に重大な安全上の問題が発生した場合、統制部の判断によって演習を中断することがあります」
フェアファックスは書類を確認した。
「特に、視界不良時の高速艦隊運動には注意していただきたい」
ペンブロークは頷いた。
「無論だ。演習で軍艦を失うわけにはいかんからな」
室内に小さな笑いが起こった。
しかし、フェアファックスの表情は真剣なままであった。
「今回の演習には、海軍本部も強い関心を寄せています」
彼は続けた。
「近年、ドイツ帝国海軍は新型戦艦の整備を進めており、北海における艦隊戦術の重要性は増しています」
ペンブロークは静かに答えた。
「分かっている」
彼は海図上の北海を指し示した。
「もし英国とドイツが戦うことになれば、決戦の舞台は恐らくこの海になるだろう」
誰も言葉を発しなかった。
やがて、ペンブロークは顔を上げた。
「だからこそ、我々は十分に備えねばならん」
彼は幕僚たちを見渡した。
「諸君、今回の演習を成功させよう」
「はっ!」
将校たちは一斉に答えた。
―1924年9月6日 午後8時15分―
巡洋戦艦「フッド」下甲板居住区 第二兵員室
夜の艦内には、昼間とは異なる落ち着いた空気が漂っていた。
勤務を終えた水兵たちは、居住区で思い思いの時間を過ごしていた。
手紙を書く者。
読書をする者。
同僚と談笑する者。
そして、翌日の演習に備えて早めに休む者。
その一角で、若い水兵ジョージ・トンプソンが手紙を書いていた。21歳。
英国南部の小さな町で生まれ育ち、三年前に海軍へ入隊した青年である。
彼は机に向かい、故郷の母親へ手紙を書いていた。
『母さんへ。こちらは元気です。明日は大きな演習があるそうです。フッドはとても大きな軍艦で、毎日が勉強の連続です……』
「おい、ジョージ」
「また手紙か?」
「はい!」
「感心なことだな」
ブラウンは少し笑った。
「だが、明日は忙しくなるぞ」
「分かっています」
トンプソンは頷いた。
「兵曹長、今回の演習は本当に大規模なんですか?」
「ああ」
ブラウンは答えた。
「戦艦や巡洋戦艦が何隻も集まる。お前にとっては初めて見る光景だろうな」
「楽しみです」
トンプソンは目を輝かせた。
「本物の海戦みたいになるんでしょうか?」
ブラウンは少し考えた。
「……本物の海戦とは違うさ」
「そうなんですか?」
「ああ」
彼は静かに答えた。
「演習では滅多なことがない限り、誰も死なないからな」
トンプソンは黙った。
ブラウンは椅子に腰を下ろした。
「俺が若い頃も、毎年のように演習をしていた」
彼は続けた。
「その頃は、いつかドイツと戦争になると言われていたものだ」
「でも、戦争にはなりませんでしたよね?」
「ああ」
ブラウンは頷いた。
「幸いなことにな」
彼はしばらく黙っていた。
「……これからも、そうであってほしいものだ」
トンプソンは手紙へ目を落とした。
そこには、故郷で待つ母親への言葉が並んでいた。
彼はまだ、本当の戦争を知らなかった。
そして、できることなら、これからも知らずにいたかった。
―1924年9月7日 午前5時55分―
北海 巡洋戦艦「フッド」艦橋
夜明けの光が、北海の水平線を照らし始めていた。
フッドの艦橋では、当直士官たちが演習開始に向けた準備を進めていた。
ウェストン艦長は双眼鏡を手に、周囲の海面を確認していた。
その隣には、ペンブローク中将が立っていた。
「現在の天候は?」
「曇天。視界はおよそ8マイル。海面状態は比較的良好であります」
「よろしい」
ペンブロークは頷いた。
「各艦の準備状況は?」
「全艦、演習準備完了との報告です」
「結構」
彼は水平線を見つめた。
そこには、青艦隊の軍艦群が隊列を組んで進んでいた。
「フッド」の後方には「レパルス」と「リナウン」。
さらに遠方には、三隻の戦艦が続いていた。
灰色の海上を進む巨大な軍艦群。
その光景は、大英帝国海軍の強大さを象徴していた。
ペンブロークは静かに言った。
「……壮観だな」
ウェストンは頷いた。
「はい、閣下」
「これだけの艦隊を動かせる国は、世界でもそう多くはない」
彼は少し間を置いた。
「だが、我々の目的は軍艦を並べて見せることではない」
「承知しております」
「戦う必要が生じた時、確実に勝てるよう備えることだ」
ペンブロークは懐中時計を取り出した。
午前5時58分。
演習開始まで、あと僅かであった。
「各艦へ信号」
彼は命じた。
「予定通り、演習を開始する」
ウェストンは敬礼した。
「了解しました」
当直の航海科水兵が走った。
「信号旗用意!揚げ!!」
下士官の号令で水兵が素早くロープを引っ張る。
やがて、「フッド」のマストに演習開始を知らせる信号旗が掲げられた。
その信号は、後続の軍艦にも伝えられていった。
「総員配置に付け!」
艦内では、演習配置につくよう号令が響き始めた。
砲術員たちは砲塔へ向かい、通信員たちは無線機の前についた。
機関員たちは出力の変化に備え、航海科員たちは海図と羅針儀を確認した。
ハミルトンも砲術指揮所へ向かっていた。
その途中、ベネットとすれ違った。
「エドワード!」
「トーマス!」
「いよいよだな」
「ああ」
ハミルトンは微笑んだ。
「赤艦隊に、我々の実力を見せてやろう」
「期待しているよ」
二人は軽く笑い合った。
そして、それぞれの持ち場へ向かった。
北海の空は、次第に明るくなっていた。
その海上では、12隻の主力艦を中心とする大規模な艦隊演習が、まもなく始まろうとしていた。
しかし、この時、フッドの乗組員たちは誰一人として知らなかった。
この演習が、予定された結末を迎えることなく中断されることを。
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