序章 第六節「迫る暗雲」後編
―1924年9月8日 午前1時30分(ドイツ時間)―
ドイツ帝国 ベルリン 帝国参謀本部
同じ頃、遠く離れたベルリンでも、緊急の会議が開かれようとしていた。
ベルリンの町はわずかに灯りが点る程度でほとんどの場所は静寂の暗闇に包まれていた。
しかし参謀本部の庁舎には、周囲の様子とは異なりほぼ全ての窓に明かりが灯っていた。
廊下には軍靴の音が響き、将校たちが次々と会議室へ向かい、下士官たちが慌ただし走り回っていた。
その中に、フリードリヒ・カール・フォン・ヴァルテンベルク陸軍大尉の姿があった。
帝国陸軍参謀本部作戦部に所属する若い参謀将校である。
彼は数日前、欧州列強間で全面戦争が発生した場合の戦略的見通しについて、報告書の作成を命じられていた。
その報告書は、まだ完成していなかった。
しかし、欧州情勢は彼の予想を上回る速さで悪化していた。
フリードリヒは手元の書類を確認した。
オーストリア=ハンガリー帝国とセルビア王国の国境で発砲事件が発生。
ウィーン政府はセルビア政府に説明を要求。
ロシア軍の動向については確認中。
英国海軍は北海での艦隊演習を中止。
彼は最後の一文に目を留めた。
「……英国海軍が演習を中止した?」
小さく呟いた。
英国海軍の行動は、ドイツにとって重要な意味を持っていた。
もし英国が欧州の戦争に介入すれば、ドイツ海軍は北海で強大な英国艦隊と対峙することになる。さらに、英国海軍による海上封鎖が実施されれば、ドイツの経済と軍需生産に重大な影響が及ぶ。
フリードリヒは以前から、その危険性を指摘していた。
そして今、まさにその可能性が現実味を帯び始めていたのである。
「ヴァルテンベルク大尉」
背後から声がした。
振り返ると、参謀本部の将校が立っていた。
「参謀総長閣下がお呼びです」
「承知した」
フリードリヒは敬礼した。
彼は書類を鞄に収めると、会議室へ向かった。
扉の前には、既に多くの高級将校が集まっていた。
その中心には、参謀総長カール・フォン・シュタインベルク陸軍大将の姿があった。
厳格なプロイセン軍人として知られる老将である。
シュタインベルクはフリードリヒを見ると、静かに声をかけた。
「ヴァルテンベルク大尉」
「はっ!」
「例の報告書はどうなっている?」
「現在、最終的な分析を進めております」
「そうか」
参謀総長は頷いた。
「どうやら、君の報告書が必要になる日は、我々の想像よりも早いかもしれんな」
フリードリヒは一瞬言葉を失った。
そして、静かに答えた。
「……そのような日が来ないことを願っております」
シュタインベルクは何も言わなかった。
ただ、会議室の扉へ目を向けた。
「入ろう」
「はっ」
二人は会議室へ入った。
その後に続いて、参謀将校たちも次々と室内へ入っていった。
やがて、重い扉が閉じられた。




