序章 第六節「迫る暗雲」中編
―1924年9月7日(大正十三年)午前11時15分―
大日本帝国 帝都東京 霞ヶ関 海軍軍令部
帝都東京には、残暑の厳しい日差しが降り注いでいた。
朝から海軍軍令部の庁舎では各部署の士官たちが忙しく勤務していた。
欧州各国の海軍動向。
米国太平洋艦隊の活動状況。
帝国海軍の作戦計画。
それらに関する報告書が、日々各部署へ届けられていた。
その中で、一人の海軍士官が海外電報を確認していた。
黒田慎一郎海軍少佐。32歳。
海軍軍令部の情報担当士官であった。
海軍兵学校卒業後、巡洋艦「古鷹」や駆逐艦「峰風」での勤務を経験し、数年前から外国海軍の情報収集と分析に携わっていた。
特に英国海軍とドイツ海軍の動向に詳しく、欧州情勢に関する報告書を数多く作成していた。
黒田は机に置かれた一通の電報を手に取った。
オーストリア=ハンガリー帝国の日本公館から送られてきた情報であった。
『セルビア国境付近ニ於テ発砲事件発生ノ情報アリ。詳細不明。現地情勢緊迫ノ模様。』
「……発砲事件か」
黒田は小さく呟いた。
隣の机に座っていた同僚が顔を上げた。
「欧州ですか?」
「ああ。オーストリアとセルビアの国境らしい」
「またバルカンですか」
同僚は苦笑した。
「十年前から、あの辺りは騒がしいですな」
「まったくだ」
黒田は頷いた。
日本から遠く離れた欧州の小国同士の争い。
普通の日本人にとって、それは新聞の国際欄に載る程度の出来事であった。
しかし、黒田はそう考えていなかった。
日本は大英帝国と同盟関係にある。
そして英国は、欧州においてドイツ帝国との海軍競争を続けている。
もしバルカン半島の紛争が欧州全域へ拡大すれば、日本も決して無関係ではいられない。
「黒田少佐」
同僚が尋ねた。
「今回の件、戦争になると思いますか?」
「……分からん」
彼は正直に答えた。
このようなことは以前から何十回も起きていたからたった。
「現段階では情報が少なすぎる」
「では、様子を見るしかありませんな」
「いや」
黒田は首を横に振った。
「様子を見るだけでは遅い」
彼は机の上に広げられた世界地図へ目を向けた。
「欧州で大戦争が起これば、英国海軍は本国周辺へ戦力を集中させるだろう。そうなれば、極東の海軍勢力にも変化が生じる」
「なるほど……」
「さらに、ドイツが戦争に巻き込まれれば、青島や太平洋のドイツ領も問題になる」
黒田は続けた。
「日本が直接参戦するかどうかは政府の判断だ。しかし、海軍としては、あらゆる事態を想定しておかねばならん」
彼は電報を机に置いた。
「欧州方面の情報収集を強化しよう」
「はっ」
「それから、英国海軍の動向も確認しておいてくれ」
「英国海軍ですか?」
「ああ」
黒田は窓の外へ目を向けた。
「英国が艦隊の行動を変えるようなことがあれば、欧州情勢が相当に深刻化している証拠になるかもしれん」
その頃、遠く離れた英国海軍では北海での大規模な艦隊演習が予定されていた。
しかし、黒田はまだ知らなかった。
その演習が、間もなく予期せぬ形で中断されることを。
―同日 午前11時50分―
大日本帝国 帝都東京 三宅坂 陸軍参謀本部
海軍軍令部からさほど離れていない三宅坂の陸軍参謀本部でも、欧州からの情報が集められていた。
建物の廊下には軍靴の音が響き、各部署の将校たちが書類を抱えて行き交っていた。
その一室で、一人の陸軍士官が地図を見つめていた。
高瀬誠一郎陸軍少佐。
34歳。
陸軍参謀本部の情報担当将校であった。
陸軍士官学校を卒業後、歩兵連隊での勤務を経験し、その後、陸軍大学校へ進んだ。
成績は優秀で、特に外国軍の戦略研究と鉄道輸送を利用した動員計画の分析を得意としていた。
数年前には満洲方面で勤務した経験もあり、ロシア帝国の軍事動向について強い関心を持っていた。
副官に頼んでいた茶を受けとると、 高瀬は机の上に広げられた欧州地図へ目を向けた
オーストリア=ハンガリー帝国。
セルビア王国。
ロシア帝国。
ドイツ帝国。
フランス共和国。
それぞれの国境には、主要な鉄道路線や軍管区が書き込まれていた。
「高瀬少佐」
若い参謀将校が入室した。
「外務省経由で、ウィーン方面からの追加情報が届きました」
「ありがとう」
高瀬は書類を受け取った。
そこには、セルビア国境付近で発砲事件が発生したことと、オーストリア軍が警戒態勢を強化しているという情報が記されていた。
高瀬は静かに読み進めた。
「……発砲者不明、被害状況不明か」
「はっ」
「これだけでは、軍事衝突と判断することはできんな」
「そのようであります」
高瀬は書類を机に置いた。
「ロシア軍の動向は?」
「現在のところ、大規模な動員が始まったという情報はありません」
「そうか」
高瀬は少し考えた。
「だが、今後は注意が必要だ」
「ロシアがセルビアを支援する可能性でしょうか?」
「ああ」
高瀬は地図上のロシア帝国を指し示した。
「ロシアは長年、バルカン半島における影響力の拡大を目指してきた。セルビアとの関係も深い」
彼は続けた。
「もしオーストリアがセルビアへ軍事行動を起こせば、ロシアが介入する可能性はある」
「しかし、そうなればドイツも動くのでは?」
「その通りだ」
高瀬は頷いた。
「ドイツはオーストリアの同盟国だ。ロシアが動けば、ドイツも軍事的な対応を迫られる」
「そしてフランスも……」
「そうだ」
高瀬は静かに答えた。
「欧州の同盟関係は、極めて複雑に絡み合っている」
手にもっていた茶を一気に飲み干しと、 彼は地図上の各国を順番に指し示して言った。
「一国の軍事行動が、別の国の動員を招く。そして、その動員がさらに別の国を刺激する」
若い将校は黙って聞いていた。
「10年前、欧州はその連鎖を辛うじて止めた」
高瀬は言った。
「しかし、今回も同じように止められる保証はない」
彼は地図から視線を外した。
「それに、我々にとって重要なのは欧州だけではない」
「と申しますと?」
「極東だ」
高瀬は別の地図を取り出した。
そこには、満洲、朝鮮半島、沿海州、シベリア東部が描かれていた。
「ロシア帝国は欧州だけでなく、極東にも広大な領土を持っている」
高瀬はウラジオストクの位置を指し示した。
「もし欧州で大戦争が始まれば、ロシア軍は西部国境へ兵力を集中させる可能性がある」
「そうなれば、極東の兵力が減少するのでしょうか?」
「その可能性はある」
高瀬は答えた。
「しかし、必ずしもそうとは限らん。ロシアが極東の防備を維持しようとすることも考えられる」
彼は腕を組んだ。
「重要なのは、ロシア軍がどの方面へ兵力を移動させるかということだ」
若い将校は頷いた。
「シベリア鉄道の輸送状況を確認する必要がありますな」
「その通り」
高瀬は少し微笑んだ。
「鉄道の運行状況は、軍の動員を知る手掛かりになる」
彼は書類をまとめた。
「欧州方面の武官報告に加え、満洲と沿海州方面の情報収集を強化するよう手配してくれ」
「はっ!」
若い将校が敬礼して退室すると、高瀬は再び地図を見つめた。
日本にとって、ロシア帝国は特別な意味を持つ国家であった。
20年前の日露戦争。
日本は大きな犠牲を払いながら、ロシア帝国と戦った。
その後、両国関係は外交的な調整によって一定の安定を保っていたものの、極東における利害の対立が完全に消えたわけではなかった。
そして今、欧州の小さな国境で発生した発砲事件が、再びロシア帝国の軍事行動を変えるかもしれないのである。
高瀬は小さく呟いた。
「……欧州の戦争が、極東にまで影響を及ぼすか」
窓の外では、東京の街が普段と変わらぬ姿を見せていた。
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