序章 第六節「迫る暗雲」前編
―1924年9月5日午後11時40分―
オーストリア=ハンガリー帝国 ボスニア南東部 セルビア国境付近
セルビアとの国境に近い名もない夜の山岳地帯。日中には心地よい日が木々の間から差していたが、夜になる頃には肌寒い冷たい風が吹いていた。
付近の国境警備に当たる帝国陸軍の小部隊が、暗い山道を巡回していた。
兵士たちは重たい小銃を肩に掛け、足元の悪い道を慎重に進んでいた。
「まったく、こんな時間に巡回とはな」
一人の兵士が呟いた。
「仕方あるまい。上からの命令だ」
隣の兵士が答えた。
「セルビア側も警戒を強めているらしい。余計なことが起こらなければよいが」
その時だった。
遠くの森の中から、乾いた音が響いた。
パンッ。
兵士たちは一斉に足を止めた。
「……今のは?」
「銃声か?」
小隊長が手を上げた。
「全員、停止!」
兵士たちは身を低くした。
しばらくの間、静寂が続いた。
そして再び、銃声が響いた。
パンッ、パンッ。
「伏せろ!」
小隊長の号令とともに、兵士たちは地面へ身を伏せた。
森の向こうから、誰かが叫ぶ声が聞こえた。
しかし、その言葉は風にかき消され、聞き取ることができなかった。
小隊長は双眼鏡を取り出し、暗闇を見つめた。
何も見えなかった。
敵兵なのか。
密輸業者なのか。
それとも、単なる誤射なのか。
誰にも分からなかった。
「発砲するな!」
小隊長は兵士たちに命じた。
「命令があるまで、絶対に撃つな!」
兵士たちは銃を構えたまま、暗い森を見つめていた。
やがて銃声は止んだ。
再び、山岳地帯に静寂が戻った。
しかし、兵士たちの緊張が解けることはなかった。
小隊長は伝令兵を呼んだ。
「司令部へ報告しろ。国境付近で発砲音を確認。発砲者不明。現在、警戒中とな」
「はっ!」
伝令兵は敬礼すると、暗い山道を駆けていった。
小隊長は再び森の方角へ目を向けた。
夜の闇の向こうには、何も見えなかった。
ただ、冷たい風が木々を揺らしていた。
この小さな出来事が、やがて欧州全域を巻き込む大戦争の発端となるかもしれないなど、その場にいた誰一人として考えてはいなかった。
この夜、オーストリア=ハンガリー帝国とセルビア王国の国境で、正体不明の銃声が数回響いた。
それは、10年間保たれてきた欧州の平和に生じた、小さな亀裂であった。
そして、その亀裂は間もなく、誰にも止めることのできない大きな裂け目へと変わっていくのである。
―1924年9月5日 午後11時47分―
オーストリア=ハンガリー帝国 ボスニア南東部 セルビア王国国境付近
夜の山々には、再び静寂が戻っていた。
先ほどまで聞こえていた銃声は止み、暗い森の向こうからは、風に揺れる木々の音だけが聞こえていた。
国境警備に当たっていた帝国陸軍の兵士たちは、依然として小銃を構えたまま警戒を続けていた。
「……もう聞こえませんな」
一人の兵士が小隊長に呟いた。
「ああ」
小隊長は双眼鏡を下ろした。
「だが、警戒は解くな」
「はっ」
小隊長は腕時計に目を落とした。
午後11時47分。
最初の銃声を確認してから、まだ10分も経っていなかった。
それでも、兵士たちには随分と長い時間が経過したように感じられた。
「小隊長殿」
下士官が近づいてきた。
「周辺を確認しましたが、負傷者はおりません。また、こちらの部隊で発砲した者もおりません」
「そうか」
「ただ、銃声の発生地点は国境線に近いと思われます」
小隊長は眉をひそめた。
「セルビア側か?」
「断定はできません」
「……だろうな」
小隊長は暗い森を見つめた。
国境線は地図の上では明確に引かれている。
しかし、実際の山岳地帯では、尾根や谷が複雑に入り組み、夜間に正確な位置を把握することは容易ではなかった。
発砲したのがセルビア兵なのか、武装した民族主義者なのか、あるいは密輸業者なのか。
それすら分からなかった。
「報告には、発砲者不明と明記しておけ」
「はっ」
「それから、こちらが発砲していないこともだ」
小隊長は念を押した。
「余計な誤解を招くわけにはいかん」
下士官は敬礼すると、通信所へ向かった。
小隊長はもう一度、暗い森へ目を向けた。
その時、彼は遠くの斜面に小さな光を見たような気がした。
しかし、次の瞬間には消えていた。
「……気のせいか」
彼は小さく呟いた。
その夜、国境で何が起こったのか。
その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。
だが、発砲者不明の銃声を知らせる報告書は、既に国境警備隊の通信所から上級司令部へと送られようとしていた。
―1924年9月6日 午前0時35分―
オーストリア=ハンガリー帝国 サラエヴォ 帝国陸軍地方司令部
深夜の司令部に、電信機の音が響いていた。
モールス信号で送られてきた点線は当直の兵と下士官の手で文字へと変わられていった。
通信室では変換された信号を当直の将校が、国境部隊から送られてきた報告だと確認していた。
その内容は短いものであった。
『9月5日23時40頃、セルビアとの国境付近において複数の銃声を確認。発砲地点および発砲者不明。我が部隊の発砲なし。負傷者なし。引き続き警戒中。』
当直将校は報告書を読み終えると、傍らの箇所へ顔を向けた。
「……これだけか?」
「はっ。現在、現地部隊が状況を確認しております」
「銃声が聞こえただけではないか」
「そのようであります」
将校は椅子に深く腰を下ろした。
国境付近での発砲事件は、決して珍しいものではなかった。
密輸業者や武装集団による小規模な衝突は、これまでも度々報告されていた。
通常であれば、地方司令部が状況を確認し、必要に応じて警備を強化する程度で済む問題である。
しかし、現在は事情が違った。
セルビア政府との外交交渉が難航し、帝国軍は国境付近の警戒態勢を強化している。
そのような時期に発生した発砲事件を、単なる偶発的な出来事として処理するわけにはいかなかった。
将校は部室にいた副官を呼んだ。
「ウィーンへ報告する」
将校は言った。
「ただし、セルビア軍による発砲と断定してはならん。現段階では何も分かっていないのだからな」
「承知しました」
副官は書類を受け取ると、通信室へ向かった。
間もなく、発砲事件を知らせる電報がウィーンへ送られた。
そして、その情報は外交当局や軍の情報部門を経由し、やがて外国の大使館にも伝わることになる。
まだ真相の分からない、僅か数発の銃声。
後に付けられた地名から【ドリナ河国境事件】と呼ばれるこの事件は緊張状態にある欧州において各国の政府を動かすには十分な材料となり得たのである。
―同日 午前2時20分(英国時間)―
大英帝国 ロンドン ホワイトホール 海軍本部 本館2階 情報部当直室
イギリス、ロンドンの街は、深い眠りについていた。テムズ川沿いの建物には僅かな明かりが残り、夜間の巡回に当たる警察官の足音が、静かな通りに響いていた。
しかし、ホワイトホールに位置する海軍本部では、深夜にもかかわらず多くの職員が勤務を続けていた。
その一室で、一人の海軍士官が電報を読んでいた。
チャールズ・ヘンリー・アシュフォード。
33歳。
英国海軍少佐。
情報部に所属する情報士官であった。
彼は数年前まで巡洋艦の航海士官として勤務していたが、語学能力と分析力を評価され、情報部門へ転属した人物である。
ドイツ語とフランス語に通じ、欧州各国の海軍動向や外交情勢の分析を担当していた。
もっとも、本人は情報部での勤務を必ずしも好んでいるわけではなかった。
彼は軍艦の甲板に立ち、海風を受けながら勤務することを好んでいたからである。
それでも、近年の欧州情勢を考えれば、情報部の仕事が以前にも増して重要になっていることは理解していた。
「少佐殿」
通信担当の下士官が入室した。
「ウィーン方面からの情報です」
「ありがとう」
アシュフォードは書類を受け取った。
そこには、オーストリア=ハンガリー帝国とセルビア王国の国境付近で、発砲事件が発生した可能性があることが記されていた。
情報源は、現地の外交関係者から得られた断片的な報告であった。
アシュフォードは眉をひそめた。
「……発砲事件?」
彼は書類を読み直した。
発砲者不明。
被害状況不明。
両国軍の交戦を示す確証なし。
それだけであった。
「これでは何も分からんな」
アシュフォードは呟いた。
傍らにいた部下が尋ねた。
「重要な情報でしょうか?」
「現時点では判断できん」
アシュフォードは答えた。
「国境付近で銃声が聞こえただけなら、珍しいことではない。だが、今は時期が悪い」
「セルビア問題ですか?」
「ああ」
アシュフォードは壁に掛けられた欧州地図へ目を向けた。
「ウィーン政府はセルビアに圧力をかけている。ロシアはセルビアを支持し、ドイツはオーストリアの同盟国だ」
彼は手元の机に広げてあった地図上の各国を指し示した。
「もし今回の事件が軍事衝突として扱われれば、各国は何らかの対応を迫られる」
「しかし、まだ戦争になるとは限りません」
「無論だ」
アシュフォードは頷いた。
「むしろ、これだけの情報で戦争を予測する方が無責任だろう」
彼は書類を机に置いた。
「だが、情報部の仕事は、戦争が始まってから慌てることではない」
部下は姿勢を正した。
「ウィーンとベオグラードの情報網に照会を出せ。現地部隊の動向、負傷者の有無、両国政府の反応を確認するんだ」
「はっ」
「それから、ドイツ海軍の動向にも注意しておけ」
「ドイツ海軍ですか?」
「ああ。仮にバルカン情勢が悪化すれば、ドイツ海軍も何らかの警戒態勢を取る可能性がある」
アシュフォードは窓の外を見つめた。
「北海の平穏が、いつまでも続くとは限らんからな」
部下が退室すると、彼は再び電報を手に取った。
僅か数行の報告。
その紙切れが、どれほど重大な意味を持つのか。
今はまだ分からなかった。
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