序章 第五節「双頭の鷲の苦悩」後編
―同日 午後2時10分―
オーストリア=ハンガリー帝都 帝都ウィーン市内 カフェ・ツェントラル
午後のカフェには、多くの客が集まっていた。
新聞を読む紳士、議論を交わす学生、静かに珈琲を楽しむ老夫婦。
ウィーンのカフェは、政治家や知識人たちが集まる社交の場でもあった。
その一角に、アレクサンダーの姿があった。
彼の向かいには、一人の男が座っていた。
ミラン・ペトロヴィッチ。
32歳。
セルビア王国の駐ウィーン外交官であった。
二人は数年前、バルカン問題に関する外交会議で知り合って以来、時折こうして非公式に意見を交わしていた。国家としては対立していても、個人としては互いを尊重していたのである。
「久しぶりだな、アレクサンダー」
ミランが微笑んだ。
「ああ。もっとも、こんな情勢で再会することになるとは思わなかったが」
「まったくだ」
二人は軽く笑った。
しかし、その笑顔は長く続かなかった。
「……君の政府は、本当に軍事行動を考えているのか?」
ミランが尋ねた。
アレクサンダーは珈琲のカップを置いた。
「軍部の一部には、そうした意見がある」
「やはりな」
ミランは深く息を吐いた。
「我が国でも、君たちの軍が国境付近で動いているという報告が相次いでいる」
「セルビア軍も警戒態勢を強化しているだろう?」
「当然だ。隣国が軍隊を集めているのに、何もしないわけにはいかない」
アレクサンダーは苦笑した。
「こちらも同じことを言っているよ」
二人はしばらく黙っていた。
やがてミランが口を開いた。
「10年前を思い出すな」
「ああ」
「あの時、私はまだ若かった。サラエヴォ危機の後、戦争になると思っていたよ」
「私もだ」
アレクサンダーは頷いた。
「街には兵士が溢れ、警察は至るところに検問を設け、噂を信じた人々は食料を買い込んでいた。あの時は誰もが戦争を恐れていた」
「しかし、戦争は起こらなかった」
「そうだ」
ミランは窓の外を眺めた。
「それから10年が経った。あれから我々は至るところで話し合いの機会を設けて努力した。だが、我々はまた同じ場所に戻ってきてしまった」
アレクサンダーは何も答えなかった。
その言葉は、彼自身が感じていたことでもあった。
「ミラン」
しばらくして、アレクサンダーが口を開いた。
「君は、戦争になると思うか?」
ミランは少し考えた。
「……分からない」
彼は正直に答えた。
「我が国にも強硬派はいる。君たちの要求を一切受け入れるべきではないと主張する者もいる」
「こちらも同じだ」
「だが、私は戦争など望んでいない」
ミランは真剣な表情で続けた。
「セルビアは小さな国だ。大国との戦争になれば、多くの国民が犠牲になる」
「それは我が帝国も同じだ」
アレクサンダーは答えた。
「帝国は確かに大きい。だが、その大きさゆえに抱える問題も多い。戦争が始まれば、何が起こるか分からない」
ミランは小さく頷いた。
「……ならば、なぜ我々は戦争へ向かっているのだろうな」
その問いに、アレクサンダーは答えることができなかった。
国家の威信。
民族の誇り。
同盟国への義務。
軍事的な必要性。
それらの言葉は、どれも正当な理由として語られていた。
しかし、その結果として戦争が起こるのであれば、一体誰のための正義なのだろうか。
アレクサンダーは窓の外を見つめた。
通りでは、子供たちが笑いながら走っていた。
その姿を見ながら、彼は静かに言った。
「……まだ、間に合うはずだ」
ミランは頷いた。
「ああ。そう信じたい」
2人はカップを交わしすっかり温くなったコーヒーを飲み干した。
―同日 午後4時30分―
オーストリア=ハンガリー帝国 帝都ウィーン ホーフブルク宮殿 皇帝執務室
二重帝国という特殊かつ複雑な帝国を治める皇帝、カール1世は、執務室の窓から宮殿の中庭を眺めていた。37歳。
10年前のサラエヴォ危機によって皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が暗殺された後、皇位継承順位の上位に立ち、先帝フランツ・ヨーゼフ1世の死去によって帝位を継承した人物であった。
若き皇帝は、巨大な二重帝国を維持するという困難な責務を背負っていた。
帝国内では民族自治を求める声が高まり、議会では改革派と保守派の対立が続いていた。
国外では、セルビアとロシアが帝国の南部国境に圧力をかけていた。
皇帝は机の上に置かれた報告書を手に取った。
午前中に行われた外務省の会議についての報告であった。
外交交渉の継続。
軍部による警戒態勢の強化。
英国への仲介要請の検討。
それらを読み終えると、皇帝は深く息を吐いた。
「……10年前と同じだ」
静かな声が執務室に響いた。
その時、侍従が入室した。
「陛下、外務大臣がお見えになりました」
「通してくれ」
「畏まりました」
ほどなくして、ヴァルトシュタイン外務大臣が執務室へ入ってきた。
「陛下」
外務大臣は深く一礼した。
「本日の会議について、報告を受けた」
皇帝は静かに言った。
「軍部は、セルビアへの軍事行動を望んでいるようだな」
「はい。しかし、私は外交交渉を継続すべきと考えております」
「私も同じ考えだ」
皇帝は頷いた。
「帝国には、これ以上の戦争をする余裕などない」
この自身は事実は皇帝が一番良く分かっていた。
ヴァルトシュタインは黙って耳を傾けた。
「我が帝国には多くの民族が暮らしている。彼らの不満を解決することさえ容易ではないというのに、国外で新たな戦争を始めれば、帝国はどうなる?」
「陛下のご懸念はもっともでございます」
「しかし、セルビアの挑発を放置することもできない」
皇帝は苦しげに続けた。
「帝国の権威を守らねばならない。だが、そのために戦争を始めれば、守ろうとした帝国そのものを失うかもしれない」
外務大臣は静かに答えた。
「だからこそ、外交が必要なのです」
皇帝はしばらく考え込んだ。
やがて口を開いた。
「英国政府に仲介を要請してくれ」
「承知いたしました」
「また、ベルリンにも我々の立場を伝えるのだ。ドイツ帝国には同盟国としての支援を求める。しかし、我々は決して全面戦争を望んでいないことも明確にしておきたい」
「はっ」
皇帝は窓の外へ目を向けた。
「……どうか、間に合ってくれればよいが」
その声には、若き君主の不安が滲んでいた。
―同日 午後8時15分―
オーストリア=ハンガリー帝国 帝都ウィーン 共通外務省3階 第3執務室
日もすっかり落ちた夜の帝都ウィーンは電灯により煌びやかに彩られていたが、その片隅の外務省では、まだ多くの職員が執務を続けていた。
各国大使館への電報が次々と作成され、暗号担当官たちは忙しく暗号表を確認していた。
アレクサンダーは自室の机に向かい、大英帝国ロンドンへ送る外交電報の草案を確認していた。
英国政府への仲介要請。
セルビア政府との交渉継続。
ドイツ政府への協議要請。
どれも、欧州の平和を維持するために必要な措置であった。
しかし、彼はそれだけで十分だとは思えなかった。
外交官たちが言葉を交わしている間にも、各国の軍隊は国境へ向けて移動している。
軍事的な緊張が高まれば高まるほど、外交交渉に残された時間は短くなる。
アレクサンダーはふと窓の外を眺めた。
夜のウィーンには、街灯が美しく輝いていた。
カフェでは人々が談笑し、劇場では音楽が奏でられている。
この平穏な日常が、あと何日続くのだろうか。
彼は机の引き出しから、一枚の古い新聞を取り出した。
1914年7月に発行された新聞であった。
10年前、欧州が戦争の瀬戸際に立たされた時の記事である。
見出しには、こう記されていた。
『欧州大戦の危機―列強諸国、外交交渉を継続』
アレクサンダーは苦笑した。
「……10年経っても、何も変わっていないではないか」
彼は新聞を畳み、引き出しへ戻した。
その時、扉を叩く音がした。
「入ってくれ」
若い職員が入室した。
「ホーエンフェルト殿、ベオグラードの大使館から緊急電報です」
「何だ?」
アレクサンダーは顔を上げた。
職員は一枚の紙を差し出した。
そこには、セルビア政府が国内の反オーストリア運動を取り締まる一方、帝国政府の要求に対して国際的な仲介を求める声明を発表したことが記されていた。
さらに、セルビア軍の一部部隊が国境付近で警戒態勢を強化したという情報も添えられていた。
アレクサンダーは眉をひそめた。
「……まずいな」
彼は小さく呟いた。
セルビア側もまた、戦争を恐れて軍備を強化している。
しかし、その行動はウィーンの軍部には挑発と映るだろう。
そしてオーストリア軍が対抗して部隊を動かせば、セルビア側はさらに警戒を強める。
その連鎖が続けば、いつか偶発的な衝突が起こるかもしれない。
「この事は大臣には報告したか?」
「はい。既にお伝えしております」
「分かった。ありがとう」
職員が退室すると、アレクサンダーは椅子に深く腰を下ろした。
机の上には、ロンドンへ送る外交電報が置かれていた。
彼はそれを手に取った。
まだ、戦争は始まっていない。
外交交渉を続ける余地は残されている。
しかし、各国が軍隊を動かし始めれば、その余地は急速に失われていくだろう。
アレクサンダーは万年筆を握り直した。
「……まだ間に合うはずだ」
自分に言い聞かせるように呟いた。
そして電報の最後に、一文を書き加えた。
『二重帝国政府は、現在の危機が欧州全域へ拡大することを強く懸念しており、英国政府による早急な外交的仲介を希望する。』
彼は書類を閉じた。
その数分後、電報は暗号化され、ロンドンへ向けて送信された。
しかし、その頃には既に、ベルリン、パリ、サンクトペテルブルクの各政府でも、同じように緊急会議が開かれていた。
各国は戦争を回避しようとしていた。
同時に、戦争に備えようとしていた。
そして、その二つの行動が、互いに矛盾し始めていたのである。




