序章 第五節 「双頭の鷲の苦悩」中編
―同日 午前9時15分―
オーストリア=ハンガリー帝都 帝都ウィーン ボールハウスプラッツ 共通外務省1階 中央会議室
帝都ウィーンの政治と外交の中心地、ボールハウスプラッツ。その一角に美しくも荘厳なゴシック様式の建造物があった。
共通外務省。二重帝国という特殊な国家の形態ゆえに、両国が個別の政府を持ちながらも、君主、外交、軍事、財政の一部は共通機関として一本化され、外交政策は共通外務省が統括していた。
しかし、建物の優美さとは対称的に外務省の中にある中央会議室には、重苦しい空気が漂っていた。
大きな会議卓の上にはバルカン半島の地図が広げられ、その周囲には外交文書や各国大使館からの電報が積み重ねられていた。
壁には皇帝カール1世の肖像画が掲げられていた。会議室に集まっていたのは、外務省の高官、陸軍参謀本部の代表者、そして政府の政策担当者たちであった。
その中で、アレクサンダーは末席に座っていた。
この会議を主宰するのは、帝国外務大臣エルンスト・フォン・ヴァルトシュタイン伯爵である。
55歳。
長年にわたって欧州外交に携わってきた人物であり、慎重な政治判断で知られていた。
「諸君、本日の議題はセルビア王国への対応についてである」
ヴァルトシュタインは静かに口を開いた。
「先月末、我が帝国政府はセルビア政府に対し、反帝国活動の取り締まりと国境警備の強化を要求した」
外務大臣は手元の文書を持ち上げた。
「セルビア政府は一部の要求について受諾の意思を示した。しかし、我が国の調査官がセルビア領内で活動することについては、国家主権を理由に拒否している」
その言葉に、一人の軍人が不快そうに眉をひそめた。
ヴィクトル・フォン・ラウエンシュタイン陸軍中将。
58歳。
帝国陸軍参謀本部作戦部長を務める人物であり、軍部の中でも対セルビア強硬派として知られていた。
「また拒否ですか」
ラウエンシュタインは低い声で言った。
「確か10年前も同じでしたな」
外務大臣は顔を上げた。
「何が言いたいのですか、中将」
「セルビア政府は口先では協力を約束しながら、結局は何も変えていないということです」
ラウエンシュタインは地図上のセルビア王国を指し示した。
「ボスニアでは反帝国活動が続き、国境付近では武装集団による越境事件が発生している。帝国の権威は年々失われているではありませんか」
「その点については、政府も憂慮しております」
「憂慮するだけでは何も解決しません」
中将の声が強くなった。
「セルビアに対して、より断固たる措置を取るべきです」
会議室の空気が張り詰めた。
「軍事行動をお考えですか?」
外務大臣が尋ねた。
「必要であれば」
ラウエンシュタインは即答した。
「限定的な軍事行動によってセルビア政府に圧力を加え、我が帝国の要求を受け入れさせるべきです」
「それは危険すぎます!」
ヴァルトシュタインは首を横に振った。
「ロシアが介入する可能性があります」
「ロシアはいつもセルビアを支持しております。だからといって、我々が何もできないということにはならないでしょう」
「問題は、ロシアが本当に軍事介入した場合です」
外務大臣は地図の東方を指した。
「ロシア軍はこの十年間で大幅に増強されています。鉄道網も整備され、動員能力も改善されている。我が帝国が単独で対抗することは困難です」
「だからこそ、ドイツとの同盟があるのです」
ラウエンシュタインは言い切った。
「ベルリンが我々を支援すれば、ロシアも軽々しく戦争には踏み切れますまい」
「ドイツが参戦すれば、今度はフランスが動きます」
「フランスが動けば、ドイツ軍が対処するでしょう」
「そして英国まで参戦すれば?」
外務大臣の問いに、ラウエンシュタインは一瞬言葉を詰まらせた。
会議室に沈黙が流れた。
やがて中将は口を開いた。
「……それは英国政府の判断でしょう」
「その通りです」
ヴァルトシュタインは静かに答えた。
「そして、英国政府の判断を我々が完全に予測することはできません」
外務大臣は一呼吸置いた。
「セルビアへの限定的な軍事行動が、欧州全域を巻き込む戦争に発展する可能性があるのです」
その言葉に、会議室の数名が小さく頷いた。
しかし、ラウエンシュタインは納得していなかった。
「では、帝国はいつまでセルビアの挑発を受け続ければよいのですか?」
中将は問いかけた。
「帝国の権威を守ることも、国家の重要な責務ではありませんか」
ヴァルトシュタインは答えなかった。
その問いに簡単な答えがないことを、彼自身も理解していたからである。
その時だった。
「閣下、発言をお許しいただけますでしょうか」
会議卓の末席から声が上がった。
アレクサンダーであった。
外務大臣は彼に視線を向けた。
「ホーエンフェルト君か。構わん、述べたまえ」
「ありがとうございます」
アレクサンダーは立ち上がった。
「私は、現在のセルビア問題について、軍事的な観点だけでなく、帝国内の民族問題も考慮する必要があると考えます」
ラウエンシュタインが眉をひそめた。
「どういう意味かね?」
「仮に我が帝国がセルビアへ軍事行動を起こした場合、ボスニアやクロアチアに暮らす南スラヴ系住民が、どのような反応を示すかという問題です」
アレクサンダーは地図上のボスニアを指し示した。
「彼らの全てがセルビア政府を支持しているわけではありません。しかし、帝国軍がセルビアへ侵攻すれば、民族的な連帯感から反帝国感情が高まる可能性があります」
「つまり、帝国内で反乱が起こると言いたいのか?」
「その可能性を否定できないということです」
アレクサンダーは落ち着いて答えた。
「私はサラエヴォの出身です。あの地域では、帝国に忠誠を誓う者もいれば、セルビアとの統合を望む者もおります。そして、そのどちらにも属さず、ただ平穏な生活を望む者も大勢います」
彼は一度言葉を切った。
「軍事行動によって、そうした人々を一斉に敵に回すことになれば、帝国の統治はさらに困難になるでしょう」
会議室は静まり返っていた。
ラウエンシュタインは腕を組んだ。
「君は、セルビアへの軍事行動に反対なのだな」
「はい」
アレクサンダーは明確に答えた。
「少なくとも、外交交渉の余地が残されている現段階では反対です」
「随分と理想主義的だな」
中将は苦笑した。
「外交交渉だけで国家を守れるのであれば、軍隊など必要あるまい」
「軍隊が不要だとは申し上げておりません」
アレクサンダーは静かに答えた。
「しかし、軍隊が国家を守るための存在であるならば、その行動によって国家そのものを危険に晒すことは避けるべきだと考えます」
ラウエンシュタインは何も言わなかった。
その時、外務大臣が口を開いた。
「ホーエンフェルト君、君には何か具体的な提案があるのかね?」
「はい」
アレクサンダーは手元の書類を開いた。
「英国政府による仲介を要請すべきだと考えます」
「英国?」
「はい。英国は欧州の勢力均衡を重視しております。今回の危機が全面戦争に発展することは、英国にとっても望ましくないはずです」
アレクサンダーは続けた。
「また、セルビア政府が拒否している調査官の派遣についても、帝国単独ではなく、第三国を含む国際調査委員会という形にすれば、受け入れられる可能性があります」
外務大臣は考え込んだ。
「……なるほど」
ラウエンシュタインは不満そうであった。
「また十年前と同じ方法ですか」
「十年前、その方法によって戦争は回避されました」
アレクサンダーは答えた。
「今回も、試みる価値はあると考えます」
外務大臣はゆっくりと頷いた。
「よろしい。英国への仲介要請を検討しよう」
そしてラウエンシュタインへ視線を向けた。
「軍部には国境警備の強化を認めます。ただし、大規模動員や越境行動については政府の承認を必要とすることを改めて確認します」
中将はしばらく黙っていた。
しばらくの沈黙の後、重々しく頷いた。
「……承知しました」
こうして会議は終了した。
しかし、それは問題が解決したことを意味してはいなかった。
外交交渉を続ける政府。
軍事行動を求める軍部。
そして、その間で揺れ動く帝国。
いずれの立場も、自らの行動が国家を守るためのものだと信じていた。
こうして会議は終了した。
しかし、それは問題が解決したことを意味してはいなかった。
外交交渉を続ける政府。
軍事行動を求める軍部。
そして、その間で揺れ動く帝国。
いずれの立場も、自らの行動が国家を守るためのものだと信じていた。
だが、その思惑が一致することはなかったのである。
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