第二章 狼王の隣
最初の頃、リオネルは狼族の暮らしに戸惑っていた。食事も違う、生活習慣も違う。何より、狼のレオンハルトは人間よりも遥かに五感が鋭い。
ある朝。
リオネルが廊下を歩いていると、突然レオンハルトが振り返った。
「どうした?」
「……何がですか?」
「疲れているようだ。」
「え?」
リオネルには自覚はなかったが、慣れない生活で疲れがたまっていたようだった。しかしレオンハルトには分かっていた。
「匂いが少し違う。」
「匂い?」
「人間には分からないだろうな。」
レオンハルトはそう言って、リオネルの顔を覗き込む。
「今日は休め。」
「でも、予定が――」
「俺が断る。」
「王様なのに、そんなことで仕事を放り出していいんですか?」
「お前のほうが重要だ。ルシュルフ!」
レオンハルトは長年彼に仕えているという側近のルシュルフを呼び、スケジュールの調整を命じた。急なことだったが、ルシュルフは王の命に肯くと踵を返す。
あまりに真剣な眼差しのレオンハルトに、リオネルは返す言葉を失った。
狼の獣人は、家族や群れを何より大切にする。そしてレオンハルトは、少しずつリオネルを自分の「群れ」の中へ入れ始めていた。
その日はレオンハルトの母・王太后レベッカに謁見するので、リオネルはひどく緊張していた。レオンハルトに連れられてレベッカの執務室に向かう。数度ノックをしたのち「どうぞ」の声に応じて中へ入ると、彼女は執務机に向かっていた。
「母上、リオネルを連れてきた。」
前王の妃であり現王の母親である威厳をまとった彼女は、いくつもの書類を抱えそれに目を通していた。レオンハルトの声に、読んでいた書類から視線を上げたレベッカはリオネルの姿を認めると―。
リオネルに駆け寄り、彼を思い切り抱き締めた。
「あ、あの、王太后様?」
「きゃー、ようやく会いに来てくれたのねリオちゃん!寒くない?食事はちゃんと食べている?」
「え、あの……」
「獣人国の食事は口に合うかしら?苦手なものがあったら言いなさい。料理長に言って作り直させるから。」
「いえ、十分よくしていただいています。」
「本当に?」
「はい。」
「遠慮していない?」
「していません。」
レベッカは満足そうに頷いた。彼女の尾は嬉しそうに揺れている。そしてリオネルの髪をそっと撫でる。
「こんなに可愛い子を人間の国から一人で来させるなんて……」
「母上。」
レオンハルトが口を挟んだ。
「何よ?」
「距離が近い。」
「それが何か?」
「……近すぎる。」
レベッカの視線が息子を射抜く。
「あなたは黙っていなさい。」
「……」
王であるはずのレオンハルトが、彼女の一言で一瞬で黙った。リオネルは驚いた。
「ふふ……」
思わず笑ってしまう。レベッカはリオネルを見る。
「ほら。あなたが笑わせたのね?」
「俺は何もしていない。」
「あなたが怖い顔をしているからでしょう。」
「……」
レベッカは再びリオネルへ向き直る。
「ねえ、リオちゃん。」
「はい。」
「レオンハルトに困らされていない?」
「え?いえ。」
「本当に?」
「はい。とても優しくしてもらっています。」
その瞬間、王太后の目が細くなる。
「そう。」
そしてレオンハルトを見る。
「レオンハルト。」
「何だ。」
「この子を泣かせたら、たとえ王であろうと許しませんよ。」
「泣かせるつもりはない。」
「つもり、ではなく絶対に泣かせないこと。」
「……分かっている。」
「それから食事は?」
「ちゃんと食べている。」
「睡眠は?」
「問題ない。」
「仕事ばかりさせていないでしょうね?」
「させていない。」
「ならよろしい。」
リオネルは呆然と二人を見ていた。厳格な王太后、そう聞いていた。確かにレオンハルトには厳しい。けれど――
自分には、とても優しい。それどころか。
「リオちゃん、こちらへいらっしゃい。」
「はい?」
「もっと近くで顔を見せてちょうだい。」
言われるまま近づくと、レベッカは満足そうに頷いた。
「やっぱり可愛いわ!!」
「……ありがとうございます。」
「こんなに可愛い子が私の息子になるのね!」
「……!」
リオネルの頬が赤くなる。
「母上。」
またレオンハルトが口を挟む。
「何です?」
「リオネルが困っている。」
「あなたには関係ありません。」
「俺の妻だ。」
「だから何です?」
「……」
今度こそ、レオンハルトは完全に黙った。レベッカは満足そうに笑った。
「レオンハルト。」
「何だ。」
「あなた、昔から独占欲が強すぎるのよ。」
「……」
「せっかく可愛いお嫁さんが来てくれたのだから、少しくらい私にも可愛がらせなさい。」
「少しくらいなら。」
「よろしい。」
レベッカはリオネルの肩を抱いた。
「これからは私を本当の母親だと思って、困ったことがあったら遠慮なく何でも言ってちょうだい。」
「……は、はぁ。」
リオネルの胸が、じんと温かくなる。人間の国を離れ、知らない土地へ来た。家族とも離れた。けれど――
ここにも、自分を受け入れてくれる人がいる。そう思えた。
その日の午後。レベッカはリオネルを連れて庭を散歩し、獣人国に生える花や果樹を教えた。夕食の時には、
「これが好きなんでしょう?」
と、リオネルの好物ばかりを並べた。さらに翌日には、
「この服、リオちゃんに似合うと思って。」
と、新しい衣装まで用意した。三日目には、
「髪を結ってあげましょうか?」
とまで言い始めた。
そして四日目。ついにレオンハルトが耐えられなくなった。
「母上。」
「何です?」
「リオネルを返してくれ。」
「嫌です。」
「……」
「今日は私とお茶を飲む約束をしたの。」
「俺も一緒に行く。」
「駄目です。」
「なぜだ!」
「あなたがいると、この子があなたに遠慮するでしょう。」
「俺の妻だ。」
「私の息子でもあるわ。」
「……」
レオンハルトの耳がぺたりと伏せられる。リオネルは思わず吹き出した。
「ふふ、レオ……」
その呼び方に、レオンハルトが振り返る。
「……今、何と?」
「あ…」
そう呼んだのは無意識だった。
「すみません。つい……」
それに対しレオンハルトは何も言わない。ただ、彼の感情を如実に示す狼の尾だけがわずかに揺れていた。レベッカはそんな二人の様子を見て、くすくす笑う。
「なるほど。」
「何です?」
「あなた、本当にこの子が好きなのね。」
レオンハルトは少しだけ目を逸らした。
「……ああ。」
「なら、もっと大切にしなさい。」
「言われなくても。」
「それと、」
王太后はリオネルを抱き寄せる。
「私にもリオちゃんを大切にさせてちょうだい。」
レオンハルトは黙って目を伏せる。レベッカは、その沈黙を肯定と受け取ったようだ。リオネルは笑った。その日から、レベッカはリオネルをすっかり気に入った。そしてレオンハルトは――
母親がリオネルを連れまわすたびに、少しだけ不機嫌になった。けれど、その不機嫌さえもリオネルには少し嬉しかった。自分を大切にしてくれる人が、また一人増えた。それは、異国で暮らすリオネルにとって、何より心強いことだった。




