第5話:四十年の純愛と、王宮に轟く限界オタクの噂
翌朝。
王宮は朝から重要な外交儀礼のスケジュールで動いていたのだが……。
(バルド卿、ソワソワしすぎじゃない?)
壁際で給仕の待機をしている私の目に映ったのは、完全に上の空な筆頭外交官の姿だった。
朝食のスープをスプーンで掬うも、そのまま口に運ばずポタポタとこぼす。
誰かに話しかけられても、「おお、そうですな! 全くその通り!」と絶妙に会話が噛み合っていない。
その頭の中は、午後から向かう『初恋の女性との再会』で100%埋め尽くされているのが丸わかりだった。
そして極めつけは、両国の未来を左右する『重要通商条約』の調印式でのこと。
(えっ。今、書類の束をペラッ……と1秒めくっただけで、流れるようにサインしたわよね!?)
驚愕の光景だった。
一国の代表として来ているはずのバルド卿が、あろうことかろくに条約の内容も読まず、次々と書類に署名してしまったのだ。
「……というわけだ。あの老いぼれ、完全に頭の中がお花畑だったぞ」
調印式を終え、執務室に戻ってきたルシアン殿下が、呆れたようにマントをバサリと脱ぎ捨てながら言った。
「で、殿下……! それはいくらなんでもマズいのでは!? もし我が国に有利すぎる不平等条約が紛れ込んでいたら、後から国際問題になります!」
「安心しろ。内容は互いにとって極めて有益で、非の打ち所のない公平な契約だ」
殿下は執務机に腰掛け、ふっと冷たく笑った。
「わざわざ『ちゃんと読め』とツッコミを入れてやる義理もない。問題ないならそれでいいと、そのまま見送ってやった」
(ちゃっかりしてる……!)
さすがは『氷の暴君』。
限界オタクとして暴走している時以外は、本当に隙がない。冷静で有能な次期国王の顔である。
むしろバルド卿のほうが、恋に浮かれた思春期の少年のようで、なんだか微笑ましく(そして少し心配に)なってしまった。
「それにしても」
殿下はふう、と息を吐き、壁の肖像画(私)を見上げた。
「何十年も前の、身分違いの恋か。……全く、男という生き物は、一度愛した女のことはどれだけ時間が経っても忘れられないものだな」
どこか遠くを見るような、静かな声。
その言葉に、私の胸の奥がキュッと締め付けられた。
(それ……自分のこと、言ってるのよね)
生前、塩対応だったくせに、私が死んでから毎日肖像画に頬ずりして泣いているこの男。
不器用すぎて、愛し方が分からなくて、失ってからずっと引きずっている。
「……殿下」
「ふっ、だが俺のセリアへの愛に比べれば、バルド卿の未練などまだ浅い! 俺など今でもセリアの幻影と共に生き、彼女の書き残した字のハネやトメの美しさだけでご飯が三杯食べられるのだからな!!」
(……うん、心配して損した)
しんみりした空気を自ら秒でぶち壊していくスタイル。
やっぱりこの男は、どうしようもない限界オタクだった。
◆ ◆ ◆
そして、いよいよ午後の『空白の二時間』がやってきた。
王宮の裏口。
そこには、王家の紋章が入っていない、市井の商人たちが使うような地味な馬車が一台用意されていた。
周囲を固めるのは、私服に身を包んでいるが明らかに動きが只者ではない精鋭の近衛騎士たちだ。
「ルシアン殿下。この度のご配慮、何から何まで……本当に、言葉もありません」
外套のフードを深く被ったバルド卿が、殿下に向かって深々と頭を下げた。
「よい。すべては我が婚約者の慈愛の賜物。卿はただ、悔いのない時間を過ごしてくるがいい」
殿下が鷹揚に頷く。
バルド卿は顔を上げ、まるで戦地へ向かうかのような悲壮な……いや、初めてのデートに向かう中学生のような、ガチガチに緊張した顔で馬車に乗り込んだ。
「では、行ってまいります……!」
カカッ、と馬の蹄の音が鳴り、地味な馬車が王都の市街地へと向かって走り出す。
私たちは並んで立ち、小さくなっていく馬車の背中を見送った。
(……上手くいくといいな)
身分違いで別れた二人が、長い年月を経てどんな言葉を交わすのか。
私には知る由もないけれど、彼が今日、前を向けるようになることだけは確かだ。
「……ソフィー。お前は、どう思う?」
ふいに、ルシアン殿下がぽつりと呟いた。
「え?」
「彼女は……バルド卿の初恋の女は、何十年も待たされた挙句、急に会いに来た男を許してくれると思うか? ずっと素直になれず、行動を起こせなかった愚かな男を……」
殿下の横顔は、いつもの自信に満ちた暴君のものではなかった。
不安げに揺れる瞳が、ひどく脆く見えた。
彼が誰に自分を重ねているのか、痛いほどによくわかる。
「……許すも何も、ないと思います」
私は、前を向いたまま静かに答えた。
「その女性は、今でもバルド卿から贈られた銀の栞を大切に持っていらっしゃるとのこと。 それが答えです。素直になれなかったことも、行動できなかったことも……相手が自分のことをずっと愛してくれていたと分かれば、きっと笑って許してくれますよ」
「……そうか」
「はい。ですから、その……」
私は少しだけ顔を赤くしながら、殿下を見上げて言った。
「不器用すぎるくらいが、案外、愛嬌があっていいんじゃないでしょうか」
殿下はパチクリと目を瞬かせ、それからフッと、今までに見たことのないくらい柔らかな、年相応の笑みを浮かべた。
「……お前は時々、本当にセリアのようなことを言うな」
(私、セリアですしね)
口には出せない正体を隠しながら、私はただ静かに微笑み返したのだった。
◆ ◆ ◆
きっかり二時間後。
王宮の裏口に、お忍び用の地味な馬車が戻ってきた。
到着を待っていた私とルシアン殿下の前で、馬車の扉がゆっくりと開く。
最初に出てきたバルド卿は、出発前のガチガチに緊張した顔が嘘のように、憑き物が落ちたような……いや、十歳くらい若返ったような晴れやかな顔をしていた。
そして卿は、馬車の中に向かって優しく手を差し出した。
その手を取って降りてきたのは、柔らかな雰囲気を持つ、美しい白髪の女性だった。
(……わぁ)
年を重ねて刻まれたシワさえも愛らしく見えるような、ふんわりとした笑顔。
二人は少し恥ずかしそうに頬を染めながらも、しっかりと、決して離さないとばかりに手を握り合っている。
そのまま二人は揃って、ルシアン殿下の前に進み出ると、深く深く頭を下げた。
「殿下……。何と御礼を申し上げればよいか。亡きセリア公爵令嬢と、殿下のお心遣いのおかげで、私は……四十年の時を経て、再び彼女の手を握ることができました」
「このご恩は、一生忘れません」
女性もまた、涙ぐみながら静かに微笑んだ。
「……して、バルド卿。これからどうするつもりだ?」
ルシアン殿下が、威厳たっぷりの低い声で尋ねる。
バルド卿は真っ直ぐに顔を上げ、きっぱりと言い切った。
「彼女を、我が国へ連れて帰ります。残りの人生すべてを懸けて、彼女を幸せにすると誓いました」
おおーっ!
心の中で、私は盛大な拍手を送った。
若い頃の身分違いの恋なら、周りの貴族たちがこぞって反対しただろう。
でも、お互いにすっかりいい歳を重ねた今なら、もう誰も文句は言わないはずだ。むしろ、長年の純愛を貫いたロマンスとして国中で語り継がれるに違いない。
(よかった……! 本当に、大成功じゃない!)
私が感動で胸を熱くしていた、その時だった。
「うっ……ううっ……!」
隣から、奇妙な嗚咽が聞こえてきた。
ビクッとして振り向くと、冷酷無比な氷の暴君(ルシアン殿下)が、両手で顔を覆い、肩を震わせて号泣していた。
「で、殿下!?」
「よかった! よかった! 本当によかったなバルド卿ぉぉぉっ!!」
(ええええええ!?)
なんと殿下は、威厳もクソもなく、バルド卿と女性の手を両手でガシッと包み込み、ボロボロと大粒の涙をこぼし始めたのだ。
「四十年のすれ違いを経て結ばれた純愛……っ! 素晴らしい! ああっ、愛とはかくも尊いものか! セリア! 見ているかセリア! 君の遺した計画が、二人の愛を永遠のものにしたぞおおお!」
「ル、ルシアン殿下……っ、私共のために、もらい泣きまでしてくださるとは……!」
「なんとお優しい方……っ」
なぜかバルド卿たちも一緒に泣き出し、三人で手を握り合って号泣し始めた。
絵面がカオスすぎる。
(ちょっと待って! バルド卿たちはともかく、殿下のこれ、ただの『推しの尊いエピソードを摂取して限界化してるオタクの号泣』だから!!)
「おおお神よ! この奇跡に感謝を! 俺も、俺もセリアに会いたいぞおおおお!! セリアぁぁぁぁっ!!」
「殿下! お気持ちは分かりますから、お顔を! 他国の要人の前で氷の暴君の顔面が崩壊してます!!」
感動の再会シーンのはずが、完全に限界オタクの慟哭フェスと化している。
私は慌ててハンカチを差し出し、殿下の涙と鼻水を全力で隠しにかかった。
(もうやだこの国! 王太子の情緒がポンコツすぎる!)
青空の下、三人の老若男女が手を握り合って号泣するという謎の感動空間。
それを一人で必死に収拾しながら、私の王宮生活はさらにカオス度を増していくのだった。
◆ ◆ ◆
無事に全日程を終えたバルド卿は、それはもう幸せそうな、見ているこちらが照れてしまうほどの笑顔で自国へと帰っていった。
馬車の窓から、ずっと探し続けていた女性と身を寄せ合い、何度も何度もこちらに手を振る姿は、厳格な筆頭外交官というより、恋に浮かれた青年のようだった。
(長かったバルド卿の独身生活も、これで終わりかな。……本当によかった)
大役を果たした達成感と共に、私は大きく伸びをした。
一大イベントであった視察団の接待が無事に終わり、王宮全体を包んでいたピリピリとした緊張感は嘘のように抜け落ちていた。
『労働環境改善』の効果も相まってか、廊下ですれ違う職員たちの顔は明るく、どこか浮き足立っているようにすら見える。
私が廊下の窓枠を雑巾で拭いていると、近くで作業をしていた若いメイドたちのひそひそ話が耳に飛び込んできた。
普段なら、侍女長の目を盗んで私語をするなどあり得ないことだ。
だが、すっかり気が緩んでいる彼女たちは、はたきを動かしながら完全にガールズトークに夢中になっていた。
「ねえねえ、聞いた? 視察団がお帰りになる時の、あのルシアン殿下のお姿!」
「聞いた聞いた! なんでも、バルド卿のロマンスに感動して、人目も憚らずボロ泣きしていらっしゃったとか……」
(ああー……うん。泣いてた。私が必死にハンカチで隠したけど、やっぱりバレてたか)
私は手を動かしながら、心の中でそっと遠い目をした。
あの号泣フェス、どう考えても目立っていたもんなぁ。
「しかも、泣きながら『セリア! セリアぁぁ!』って、亡くなられた婚約者様のお名前を絶叫していらしたんでしょう?」
「そうそう! 『氷の暴君』だなんて恐れられてるけど、実はセリア様のことが大好きで大好きでたまらない、超一途な愛妻家だったのよ!」
「なんでも、セリア様が遺された接待の計画書を抱きしめて『俺の命に代えても実現させる!』って叫んでたとか……」
「キャー! 情熱的ぃ! 私も殿下にそんな風に愛されてみたいわぁ!」
ピタ、と。
私の雑巾を持つ手が止まった。
「……えっと?」
「それにね、最近じゃ夜な夜なセリア様の肖像画に向かって話しかけてるらしいわよ」
「えっ、ちょっと怖いかも」
「ううん、それが究極の純愛なのよ! 『今日も可愛いよセリア!』って……ああっ、切なすぎるわ!」
(バレてる!!!)
(極秘のはずの限界オタクっぷりが、王宮の末端のメイドにまで完全に筒抜けになってる!!!)
私は顔から火が出そうになるのを必死に堪え、磨いたばかりの窓に額を擦り付けた。
メイドたちの間では「氷の暴君の切ない純愛ロマンス」として美化(?)されているようだが、当事者である私からすれば、ただの公開羞恥プレイである。
『今日も可愛いよセリア!』が城中の噂になっているなんて、死んでも死にきれない。いやもう死んでるけど!
(どうしてこうなった……!? ていうか、誰よこんな噂流したの!)
原因は火を見るより明らかだ。
あのポンコツ王太子が、最近『吹っ切れた』とか言って、所構わずセリアへの激重感情をダダ漏れにしているせいである。
このままでは、ルシアン殿下の『氷の暴君』としての威厳が崩壊するどころか、『死んだ婚約者のヤバすぎるオタク』として歴史に名が刻まれてしまう。
(私が……私がなんとかして、あの暴走を止めなきゃ!)
メイドたちのキャーキャーという歓声(私にとっては地獄のBGM)を背に、私は決意を新たに雑巾を握り直すのだった。




