5.皇后陶氏
辰蘭は、ゆっくりと目蓋を開けた。その動作によってやっと、しばし意識を失っていたらしいことに気付く。
視界いっぱいに広がるのは、一分の隙もなく緻密に敷き詰められた磚の床。鏡の用を為すほどに磨き上げられたそこに映る室内の調度は豪奢そのもの、その眩さによって、後宮にいることを思い出す。妹の梓媚の依頼で皇后の呪詛の証拠を探していたこと、暁燕皇子と思しき少年に出会ったこと。そして、猫鬼に襲われて昏倒したことも。
(不覚だった……!)
脳に押し寄せた記憶、現在の状況に歯噛みしながら身動ぎすると、全身に激しい痛みが走った。倒れた時に打ち付けただけではあるまい。息をするたび、鼓動を打つたびに押し寄せる痛みは、血管に無数の細かな針を流し込まれたかのよう。猫鬼の呪詛が肉体に及ぼした影響に違いない。
少しでも楽な体勢を探してもがけば、ご丁寧に手足が縛られているのも分かる。どうあがいても、這いつくばる格好しか取れそうにない。
「ごきげんよう。殷寧妃のお兄様ね?」
辰蘭が状況を見極め、受け入れたのとほぼ同時、「嫋やか」という言葉を音にして響かせたような声が降ってきた。
「わたくしが名乗る必要は、あるかしら?」
「……いいえ」
思うように動かせない首をどうにか持ち上げて見上げれば、これもまた「嫋やか」を形にしたような、優美を極めた貴婦人が嫣然と微笑んでいる。彼女が背を預ける椅子の細工の見事さ。纏う衣装、高く結い上げた髪を彩る装飾の豪奢なこと。そもそも、この部屋の調度の眩さ。そのどれもが、この女人の名と位を示している。
「このような姿で拝謁に与る無礼をお赦しくださいますよう、陶皇后陛下……!」
無論、辰蘭にこのような格好をさせているのはほかならぬ皇后だ。だから、痛みと怒りを堪えて絞り出した挨拶は、よくもやってくれたな、という悪態にほかならない。それに気付かないはずもないだろうに、皇后はおっとりと笑った。
「無礼というなら、暁燕も、でしょう。ごめんなさいね、子供ってうるさいものでしょう? 大人しく良い子にしてもらえるようにしているの。わたくしがついていないと、ちょっと変に見えてしまったかもしれないわね」
暁燕皇子は、確かに「大人しい良い子」に見えた。知らない者にも物おじせず、言葉遣いもはきはきとして。……そう見えるように、猫鬼を通して母后に操られていたのだ。
(文字通りの傀儡か。何とおぞましい……!)
辰蘭の顔には、はっきりと嫌悪が浮かんだだろうに。皇后は、慈愛溢れる母親そのものの優しい笑みを崩さない。
「うちの宦官なら、何を言われても知らぬ存ぜぬを通すはずなのだけれど。いつもと違う受け答えをされたものだから、それで――」
「皇子たる御方に何ということを。非道なだけでなく残酷な――猫を探していらっしゃったのに」
呪詛そのものが唾棄すべき行いなのは言うまでもない。さらに猫鬼の無惨な姿を思い出せば、おのずと辰蘭の声には強い非難と憤りが滲む。
「子供が可愛がっている猫に、あのような仕打ちを……!」
皇后は、不思議そうに首を傾げ、ほんの少しだけ眉を顰めた。どうして糾弾されているのか、わけが分からない、と言いたげだった。
「勘違いしているかもしれないけれど、あの子の猫を呪詛に使ったのではないわ。呪詛に使うための猫に、暁燕が勝手に情を移したのよ?」
「同じことだ! 麗玉公主のことも! 梓媚が、妹がどれほど心を痛めたか――」
「そんなことはどうでも良いでしょう」
麗玉公主の弱々しい泣き声、梓媚の焦りと不安に満ちた顔、暁燕皇子の切ない訴え――それらをごくあっさりと片付けて、皇后は辰蘭のほうへ身を乗り出した。
「わたくしが知りたいのはね、殷辰蘭。貪虚星君について、貴方と寧妃がどこまで知っているか、よ」
ゆっくりと瞬きして時間を稼ぎながら、辰蘭は皇后の言葉を吟味した。この女は、鏈瑣の真実の名をもさらりと口にした。彼の驚きと動揺を誘うためなのは分かっている。――乗せられては、ならない。
(皇后は、梓媚が入宮した時は鏈瑣の正体を知らなかったはず。知っていれば、梓媚がその力を得る機会を許したはずがない)
思静殿に巣食っていたのが、ただの鬼や精怪ではなく、かの悪名高い凶星なのだと、皇后が今になって気付いたのには相応の理由や切っ掛けがあるはずだ。
「……貢院の事件の顛末をお聞き及びになったのか。鎖を帯びた化物がいる、と。それで気付かれた……?」
「ええ。皇后という立場にいるとね、国や後宮の秘史について知ることも多いのよ」
呪詛を返されて死んだ胥吏以外にも、あの場に皇后の息のかかった者がいたらしい。鎖の音をじゃらじゃらと鳴らして毒虫を貪り喰う化物、それも、梓媚の縁者が従えていた――思静殿の逸話と併せれば、伝承と結びつけるのも不可能ではないだろう。
だが、事情を察した上でも皇后の動向は不可解だった。
「貪虚星君は、今は梓媚に従っている。目覚めさせた者の命令には背けないものだと本人から聞いた。ご承知の上で、公主を呪詛したのか」
「なるほどね」
神話の世界の存在を敵に回すつもりなら、正気の沙汰とは思えない。辰蘭の胡乱な眼差しに、けれど皇后は満足そうに頷いた。
「それしか分かっていないなら、良かったわ」
「は……?」
辰蘭の疑問の喘ぎを無視して、皇后は立ち上がった。ささやくような衣擦れの音が、芋虫のように這いつくばらせられた彼の周囲を巡る。
「極の太祖は、貪虚星君を使役しようとお考えになった。でも、かの凶星はいつしか失われて、後宮の片隅の怪談になり果てた。――ねえ、どうしてそのようなもったいないことになったのだと思う?」
「愚かで迂闊で、杜撰だったからでは?」
縛られて床に転がされた体勢から、皇后の動きを追って首を巡らせるのはそれなりにきつい。猫鬼の呪毒も、ずっと肉体と神経を苛んでいる。考えるのが面倒になって、辰蘭は率直な暴言を吐き捨てた。
「使えなかったから、よ」
無礼を咎めるでもなく、皇后は機嫌良く笑うだけだったが。歩みを止めずに語り続けるのは――弾む心を押さえられないから、ということなのかどうか。
「天は、人が神に類する存在を使役することを良しとしなかったの。だから、太祖が施した千の鎖の封印に枷を施した。貪虚星君に命じて人の命を奪った場合、鎖は一本ずつ砕ける、というね」
「な――」
「ね? 目障りな皇族や高官の暗殺や、内乱の鎮圧には使えないの。管理を諦めるのも仕方のないことでしょう?」
ちょうど辰蘭の正面で足を止めた皇后は、彼を覗き込んで満面の笑みを浮かべた。纏う香りがいっそう甘く立ち上るような、華やかで美しく品のある笑顔ではあるが、いったい何がおかしいのか辰蘭にはさっぱり理解できない。
「思静殿の女たちが死んだ、というのは――貪虚星君を解き放ったから、なのか」
皇后の心が理解できないから、せめて事実を把握すべく、辰蘭は問いを重ねた。脳裏によみがえるのは、鏈瑣とのやり取りのいくつかだ。
貢院で、礼部の官や林浩雨を喰ってやると申し出た時。先ほど、皇后を喰えば良いと提案した時。
執拗さは、確かに感じていたのだ。あの化物の食欲はいつものことで、化物なりの理屈でそれが手っ取り早いと考えただけだと、受け流していたのだが。
(鏈瑣は、常に封印を解くことを狙っていたのか。笑顔で馴れ合いながら、肝心のことは隠して……)
月官の青年に、いずれ戻る、と述べた理由も、これで分かった。人の愚かさ欲深さは、いずれ必ずかの凶星を解き放っていただろうから。
「後宮の女が凶星の力を手にしたら、何をするかは分かり切っている。そして、鎖が砕けた以上、星君のほうで人間の女に従う理由もなかった、のでしょうね。封印の鎖は千もあるから、ひとつ砕けてもすぐにまた動きを封じられるはずだけれど――この二百年で、どれだけ減ったのかしら」
「私にそれを聞かせて、何をなさるおつもりか」
あくまでも穏やかに品よく語る皇后を、辰蘭は鋭く睨め上げた。丁寧に答えが返ってくるのは、何も慈悲や寛容が理由ではないだろう。聞かせても構わないという心算があるからに違いない。
「寧妃は、優しい子よね。甘い、というか。貪虚星君を目覚めさせておいて、誰も害そうとしなかったなんて。でも、兄の命と引き換えなら腹を括ってくれるのではないかしら」
ほら、皇后の美しい笑みに、邪な悪意が影を落とす。胸の前で手を組み合わせて、うっとりと夢見るような眼差しで、妹を陥れる企みを打ち明ける。
「わたくしのために、貪虚星君の力を使ってくれるようにお願いするつもりよ。そうすれば、すべてが上手くいくの……!」
皇后の狙いは、皇太子争いの競争相手になる第一皇子とその母妃だろう。
辰蘭を人質に、梓媚にふたりを害させれば。鏈瑣の鎖は砕け、解き放たれた凶星は、即座に主面した人間にも牙を剥く。皇后は、手を汚さずして邪魔な存在を片付けることができるというわけだ。
良い考えだと、皇后は信じ込んでいるのだろう。いまだに梓媚の性格を把握していないようだから無理もないが。
「梓媚は、貴女が考えるような女ではない。考え直されたほうが良い……」
「どうかしら。まあ、すぐに分かるでしょう。ちょうど、寧妃をお招きしたところだから。もちろん、貪虚星君も連れて、ね」
心からの忠告のつもりで絞り出した言葉は、あっさりと無視された。それでも言葉を重ねようと、息を整える気配を、皇后は煩く感じたようだった。
「しばらく静かにしていてちょうだいね。嫡子までも亡くしては、殷家もお気の毒だもの」
辰蘭の耳元で、猫の低い唸り声がした、と思うと全身が石のように重くなった。猫鬼の呪詛の効果なのだろう。それによって、辰蘭は身動きはおろか、声を発することさえできなくなった。




