4.二頭目の猫鬼
辰蘭と鏈瑣は、連れだって後宮の一角にいた。男がうろついていて良い場所ではないから、ふたりとも鏈瑣の術で宦官に姿を変えている。
梓媚が彼らを呼び出したのも、この術があればこそ、だったのだ。
『麗玉の容体に、主上もたいへん御心を痛めてくださっています。皇后様の呪詛が理由だと分かれば、糾弾できましょう。さらに、桂磊様の死の再調査にも繋げられるかと……!』
貢院に埋められていた蟲毒の壺に類したものが、後宮のどこかにもあるはずだ、ということだ。麗玉公主に憑いていたのは猫鬼――惨殺された猫の怨霊だというから、その死骸は毒虫よりは大きいのだろう。
「だが――雲を掴むような話だな……」
あたりに人気がないのを確かめた上で、辰蘭は呟いた。
皇后の住まいの周辺を捜索しているものの、後宮の殿舎の数の多さ、庭園の広さは気が遠くなるほどだ。
今も、人が行き交う回廊からさほど離れていないはずなのに、植栽に遮られて足音も衣擦れも聞こえてこない。しんとした静寂に加えて、見回す限りの視界に映るのは人里離れた仙境めいた景色ばかり、精怪の類に惑わされたような心地だった。
精怪といえば、後宮にも蛇や鼠の類は棲んではいるが、妃嬪の目に留まる前に退治されるべきモノたちだから、証言は期待できそうにない。
梓媚に仕える宦官や宮女を駆り出そうにも、彼ら彼女らは皇后一派に顔を知られている恐れがあるし、何より呪詛の痕跡を見てそうと分かるか定かではない。
というわけで、地道に殿舎の床下を覗き込んだり、庭園の木や岩の根元に目を凝らしたりしているのだが――付き合わされる化物は、まだ納得していないらしい。
「だから皇后を喰えば話が早いのに」
「それではかえって手ぬるかろう。位も権威もすべて剥ぎ取ってやらねば、梓媚も私も気が済まぬ」
不平たらたらの鏈瑣を、辰蘭は少々不穏な言葉で宥めた。鏈瑣の考え方は、喰うか喰われるかの獣のそれに近い。愛し怒り憎む人間は、それほど簡単にはできていないのだ。
(皇后を楽にしてやるつもりなどないのだろうが……)
鏈瑣の関心の的は、喰えるかどうかと美味いかどうかだけ。それはもう嫌というほど分かっている。
だが、この化物にはそれでもまだ謎が多い。梓媚は、貪虚星君の名を聞いて目を瞠っていたし――辰蘭のほうでも、驚かされたばかりだった。
「皇后は、お前の正体は知らぬのだな? 思静殿には、何か良からぬモノがいるようだと承知していただけで。……過去に死んだ妃嬪というのは、お前が喰った、のか……?」
「皆が皆、ではないぞ? 自分を喰えと命じる者はいないからな」
常の輝くような美貌とは打って変わった、凡庸な宦官の姿で鏈瑣は笑う。
だが、どんな姿になっていても、化物の本性は変わらない。鏈瑣が腕を掲げると、今は見えない鎖がじゃらり、と鳴るのが聞こえた。
「太祖が科した鎖が縛るのは、俺の肉体だけではない。鎖の主の許しがなければ人は喰えぬようにされているのだ」
「お前を見つけた妃嬪や宮女は、人を喰えと命じたのか。なぜ、そのようなことを」
「なんだ、先生にも分からぬことがあるのか」
眉を顰めた辰蘭に、鏈瑣はおかしそうにくすくすと――ぎしぎしと――笑い、こともなげに続けた。冬の日にも関わらず空は晴れて、麗らかな陽光が注いでいるというのに、どうにも肌に寒気を感じる。
「虐められた相手や気に喰わない者を、手を汚さずに始末できるのだぞ。飛びつく者は多いだろう。後宮の女は、だいたい何かしらに鬱憤を貯めているようだしな。で、そうやって周囲の者がよく消えるとなれば、怪しむ者も出てくる。そこから人が何を考えて何をするかは俺の知ったことではない」
では、思静殿のかつての主人たちは、鏈瑣を目覚めさせた宮女なりの怨みを買って復讐されたのが半分、疑いを招いて処罰されたのが半分、といったところだろうか。
(忠告や警告は――こいつがするはずもない、か)
腹を満たすことで頭がいっぱいの化物に、人の倫理や道徳など期待するほうが間違っている。自ら道を踏み外した女たちが破滅したのは、当然の報いではあるだろう。
(犬が人を噛み殺したなら、責を問われるべきは飼い主だ。命令に従っただけの犬には罪はない……同じことになるか? 本当に?)
人の姿をして人の言葉を操る者を、犬と同列に考えて良いものなのかどうか。いっぽうで、鏈瑣の心も考えも人とかけ離れていること、犬の比ではないような気もする。
「先生の妹は、いかにも容赦なさそうで『当たり』だと思ったのだが」
「期待外れだったのだな」
上の空の相槌も意に介さぬように、鏈瑣は無邪気に首を傾げた。辰蘭に向ける笑顔にも屈託がなくて、やはり人懐っこい犬を思わせるような。無論、油断してはならないのだが。
「いや、やはり当たりだったかもな? 後宮の外に出られたのは久しぶりだし、先生といると色々珍しいのが喰えたし」
「そうか。それは何よりだ」
科挙に背を向けるために構えた子不語堂に、思わぬ効果があったらしいのを知って、辰蘭は少し笑った。
桂磊にも芳霞にも、鬼としてでも会うことはできず、徒に時を無駄にしただけだったのか、と考え始めていたのだが。
(また受験するとして――鏈瑣を飢えさせるわけにも行かぬし、どうにか依頼を受ける方法は残しておきたいものだな)
人は喰わせてやれずとも、質の悪い鬼や怪異を減らすのは、世のため人のためになるだろう。手詰まりの状況の息抜きをするように、そんな、都合の良いことを考えた時だった。
「――そなたたち。猫を知らぬか?」
草を踏む柔らかな足音がした、と同時に、高く澄んだ声が響いた。
その方向を振り向けば、小柄な少年が佇んでいる。年のころは、十にはなっていないだろう。龍を描いた袍の色は、貴色の黄。皇族にしか許されぬ色と意匠ということは――
(第一皇子俊瑜か第二皇子暁燕? 皇太子候補の……!?)
鏈瑣は気付かなかったかもしれないが、少年の身分を察した辰蘭は瞬時に警戒し、身構えた。
第一皇子なら、まだ良い。だが、第二皇子は梓媚を陥れようとしている皇后の子だ。「見慣れぬ宦官」のことを母親に言いつけられたらたいへん困る。しかもこの少年は、今、何と言っただろう。
「……猫?」
辰蘭たちが探しているのも、猫だ。正確に言えば、猫を使った呪詛の痕跡。これは、すでに怪しまれて鎌をかけられている、ということなのだろうか。
卑屈な宦官の演技をする余裕なく、平伏することも忘れて反問した辰蘭に、皇子であろう少年は咎めることもなく、こくりと頷いた。
「墨滴という。白地に、墨をこぼしたように黒い斑があって、毛は長めでふさふさとして、目は金色の」
辰蘭は思わず鏈瑣と顔を見合わせた。
(白地に黒斑の、長毛の猫。金色の目……!)
心当たりは、あった。鏈瑣が先ほど喰らった猫鬼もそのような姿をしていた。
「殿下の猫が、いなくなったのですか」
「母上もご存じないと。見つけたなら褒美をやるから」
低く問うた辰蘭の声は、宦官ではあり得ぬはずの低い男の声だった。けれど、それにも不審に思った風はなく、少年は嬉しそうに微笑んだ。身分ある御方のはずなのに、取り合ってもらえるのがとても珍しいことででもあるかのように。
(この御方は――第二皇子暁燕殿下、か? 皇后は、我が子の猫を殺して呪詛に使ったのか?)
胸のむかつきを堪えて、辰蘭は慎重に暁燕の表情を窺った。
皇子ともあろう御方が、供も連れずにひとりでいるのは不審ではある。だが、母の目を盗んで猫を探しているならあり得ぬことでもないかもしれない。何より――彼らの探していたものを見つける、またとない好機かもしれないのだ。
「その猫は、どの辺りでいなくなったのですか。最後に見たのは?」
「探してくれるのか。案内してやる。ついて参れ」
くるりと背を向けた少年を追って、辰蘭は足を踏み出した。……踏み出そうとして、いつになく鋭く真摯な鏈瑣の声に、止められた。
「――行くな、先生。その餓鬼の言葉じゃないぞ」
どういうことだ、と。声に出して問うことはできなかった。鏈瑣を振りむこうとした瞬間、辰蘭の首筋を疾風が襲う。冷たく、激しい疾風――の、ように飛び掛かる「何か」。先日の蟲毒の百足のように、剥き出しの悪意で彼に狙いを定めるのは。
(猫鬼――また別の、猫!?)
赤茶っぽい毛皮の虎猫、と咄嗟に思った。縞模様のように、無数の裂傷が毛皮に刻まれているのだ、と気付いたのは牙が突き立てられる鋭い痛みを感じてからだった。
猫鬼の牙には毒があるのか、それが呪詛というものなのか――いずれにせよ、ただの猫に噛みつかれるのとは、話が違うのだろう。辰蘭の四肢から力が抜け、たまらずその場に頽れる。
話をしていた相手が倒れたというのに、暁燕皇子はまったく動じた気配を見せなかった。それどころか、口にしたのは先ほど口にしたのとまったく同じこと。何ごとも起きなかったかのような、無邪気な問いかけ。
「――そなたたち。猫を知らぬか?」
鏈瑣の警告はこういうことか、と。地面の冷たさを頬に感じながら辰蘭は歯噛みした。
(今の猫鬼は、皇子に憑いていたのだな。言動さえも操って――不審な者がいれば、攻撃するようにしていた……!?)
こういう時に鏈瑣がしようとすることは、ただひとつ。新手の猫鬼を捕らえて喰う、だ。だが、今は悠長に食事をさせてやる暇がない。
鏈瑣が皇子に手を伸ばす前に、と。辰蘭は必死に舌を動かした。立ち上がることはおろか、視線を上げることさえできぬほどに猫鬼の毒だか何だかが彼の肉体を縛っていたが、これだけは伝えなければならない。
「鏈瑣、戻れ。梓媚と公主を守れ……!」
「…………」
不服そうな沈黙が返ってきたのは一瞬のこと、それでも、鏈瑣は従ってくれたようだった。小さく舌打ちが聞こえたかと思うと、化物の気配が、消える。
(これで良い……梓媚に状況を伝えてもらわねば……!)
辰蘭が安堵の息を吐いた時――また別の足音が近づいてくるのが聞こえた。倒れた辰蘭と、同じことを同じ調子で繰り返す皇子のほうへ。
柔らかな衣擦れの音と芳しい香りからして、足音の主は身分高い女人だろうと思えた。




