2.黒幕の名は
辰蘭の詰問に、麗玉公主が悲鳴のような癇癪のような声を上げた。兄の配慮のなさを、梓媚は低く鋭い声で咎める。
「お兄様。どうかお静かに」
「あ、ああ……すまぬ。だが――」
公主はゆっくり休ませたほうが良いのだろうし、子供に聞かせる話ではない。だが、呪詛から解放されたばかりの娘を、梓媚が手放すことはできるのだろうか。
辰蘭が言い淀む間に、梓媚は公主を抱き締め、そして名残惜しげに寝台に寝かせた。離れていく母の手を追って手足をばたつかせる公主を宥めながら、梓媚はこちらに顔を向けて、囁く。
「ひとつひとつ、説明して参ります。お兄様と『それ』には、まだまだお願いすることがあるのですもの」
公主の世話は侍女と宦官に任せて、三人は客庁に戻った。
寵妃の住まいに相応しく、細部に至るまで景観の整えられた庭園に陽光が注ぐ様は麗しい。茶も菓子も、それらの器も、当然のように最上質のもの。とはいえ、辰蘭としては目も舌も楽しませる気にはなれなかったし、梓媚も同様だろう。鏈瑣については、人と同じ感性は持ち合わせていないだろうから分からない。
梓媚は、形ばかり茶で口を湿してから切り出した。
「まずは、麗玉の呪詛について――たぶん、ですけれど、業を煮やしたのでしょう。わたくしが、思いのほかにしぶといから」
「以前にも狙われたことがあるのか」
さらりと言われて、辰蘭は思わず身を乗り出した。兄の狼狽に、梓媚は恐ろしいほど冷ややかな笑みで応じる。
「細々とした嫌がらせはございましたけれど、すべて目に見える形でしたし、報復もそれなりにさせていただきました。猫鬼とやらを送ってきたのは、別口です」
つまりは、呪詛を行った者に心当たりはあるが、尻尾を見せるような相手ではない、ということなのだろう。あるいは、容易く手を出せない相手なのか。
数多の妃嬪の嫌がらせを細々と、などというひと言で片付けた梓媚でさえ憚るような相手――桂磊を謀殺したのも、相当な地位と権力を持つ者のはずだが。
「別口、とは――」
婚約者の死の真相について、妹がどこまで把握しているかも聞きたかった。だが、辰蘭の問いは彼女にとっては時期尚早だったらしい。梓媚は、兄を遮って口を開いた。
「その御方は、わたくしがこうも生き長らえるとは思っていなかったのでしょう。何しろ、過去にこの思静殿を賜った妃嬪は、ほぼ例外なく一年と持たずに亡くなっていましたから。ゆえに長く使われていなかった、呪われた殿舎だということです」
梓媚の視線を受けて、鏈瑣がふい、とそっぽを向いた。そのやり取りで、察せられる。この殿舎のかつての女主人たちの死の原因になったのは、この化物だ。
「鏈瑣、お前――」
「最初は、暗殺用の隠し通路でもあるのかと思ったのですけれど」
辰蘭は、またも発言を許されなかった。そうして、彼は梓媚が鏈瑣を見つけた経緯を改めて、そして今少し詳しく教えられることになった。
すなわち、思静殿の建物や庭の隅々まで調べる中で、梓媚はいかにも怪しげな長櫃を発見した。中を検めるというよりは隠し通路の入り口となっているのではないかと疑って開けてみたところ、鎖に全身を縛られた美しい青年が目を閉じて横たわっていた。
人形にしてはあまりにも精巧で、死体にしては腐ったり乾いたりした気配もない。怪しむ梓媚の目の前で、その青年――鏈瑣はぱちりと目を開けて、腹が減ったと訴えたのだ。
「明らかに人ではない様子でしたし、人を喰わせろとしつこく強請るものですから、良くないモノであるのはすぐに察しました。ですので、お兄様に預けることにしたのです」
「……なぜ?」
「第一に、このようなモノを手元に置いているというだけで、それこそ怪しげな術に手を染めていると疑われかねません。第二に、姿を変えられるとは言っても、この見た目の男といるところを見られたら醜聞の種です。それに――」
なぜそこでなので、なのか。頭を抱えた辰蘭に、梓媚は悪戯っぽくくすり、と笑った。
「お兄様なら、しっかりと手綱を握ってくださるでしょうから。人を化物の餌に与えるなど、絶対に良しとなさらないでしょう?」
「それは――そうだが」
辰蘭が顔を上げれば、妹の蕩けるような美しい笑みが向けられている。思いがけず真っ直ぐな信頼を向けられては、頷いたきり何も言えなくなってしまう。
悪食の化物を押し付けられたことへの不平不満は呑み込んで、辰蘭はより差し迫った問題に切り込んだ。
「お前にこの殿舎を割り当てた者は、お前が早晩『これ』に喰われると考えていたのだな?」
「『こういうの』がいることまで把握されていたかどうかは分かりませんが、何かしらの呪いで斃れることを期待なさっていたのでしょうね」
雑な呼ばれ方に、鏈瑣が嫌そうに顔を顰めた。だが、もちろん構っていられない。
「いずれにしても! そのようなことができる者は限られているのであろう。皇帝ではあるまい。わざわざ召し出した女をすぐに死なせたいはずがない」
「はい。わたくし、何も弑逆などと大それたことは考えておりませんのよ。その点はご安心いただけます」
淑やかで麗しい微笑とは裏腹に、梓媚の目つきは鋭く、声は冷ややかで奥底に激しい感情が渦巻いているのが聞き取れる。妹は、兄が何を察しているかを察しているのだ。桂磊の仇は何者なのか、と――言外に問われていることも。
張り詰める空気が肌を指すのを感じながら、辰蘭も声を低めた。梓媚のこの切れ味なら、前置きなく本題に斬り込んでも問題ないだろう。
「……貢院で蟲毒が発見されたのは聞き及んでいるか。桂磊が死んだ部屋で、だ」
「はい。お兄様はご存じでしたでしゅおか、『劉皓君』が嫁いだ郭郎中は礼部の者です」
梓媚が告げた名は、確かに聞き覚えがあった。皓君が仮死状態になった時に、焦った父の劉大人が縁談先にどう言えば云々と叫んでいたはずだ。ならば、梓媚はあのころから礼部の動きを警戒していたからこそ、内通者を潜入させたのだ。
「なるほど。そんなことではないかと思っていたが」
「え、何が、だ?」
鏈瑣は覚えていないのか、辰蘭の視界の端で首を傾げているのが見えた。とはいえ、今は悠長に説明している暇はない。
「呪詛を得意とする者は、後宮に多いのか。……少なくとも、貢院に手を伸ばせる者、寵妃の住まいに干渉できる者はそういないのだろうな」
「はい。すべて、同じ御方です」
会わない時間が長くとも、兄妹の息は合っていた。血の繋がりゆえか、それとも、志を同じくしているからこそ、だろうか。
「桂磊様を殺めたのも。わたくしを後宮に呼び寄せたのも。そうしておきながら、早々に死ぬよう願ったのも。娘を、麗玉を苦しめたのも……!」
三年の間、梓媚は華奢な身体の中で怒りと怨みを滾らせ、煮凝らせてきたのだろう。軋らせた歯の隙間から絞り出すような声は、それこそ人に災いをもたらしかねない呪詛めいた毒気を帯びていた。
「何者だ、それは」
「皇后様ですわ」
仇の名をようやく告げることができて、安堵さえしたのだろうか。梓媚の見せた笑みは美しく艶やかで、晴れやかでさえあった。語る内容は、晴れやかさとはほど遠い、後ろ暗く薄汚い類のものだったが。
「後宮での権勢を保つため、ほかの妃を牽制するために、主上が興味を示したわたくしを手駒にしようとなさったのです。わたくしに――『良いこと』をしてやったとさえ思し召しのようでしたわ……!」




