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子不語堂志怪録 星なき夜に影は踊る  作者: 悠井すみれ
第四章 悪しき凶星は後宮に輝く
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1.麗玉公主

 辰蘭しんらんは、皇宮の最奥、皇帝が私的な生活を営む後宮に足を踏み入れていた。目を向ける先のいたるところに龍が躍り鳳凰が舞い、絢爛な瑞花瑞獣、吉祥の装飾が彩っている。


 辰蘭の妹、現在のところ皇帝の寵愛を一身に集めるいん寧妃ねいひこと梓媚しびの、たっての願いが叶えられたのだ。


 寵妃の兄とはいえ男を後宮に入れるのは破格の特例、ゆえに、辰蘭は前後左右を隙なく宦官に固められ、門を通るたびにやたらと念入りに申し送りがなされ、かつ、錠がしっかりと下ろされる重たげな音を聞いている。


「寧妃様の御兄君、殷辰蘭様。老僕ろうぼくひとり」

「うむ、確かに」


 男でも女でもない、不思議な高さの宦官の声が囁き交わし、また門がひとつ、開かれた。

 後宮に張り巡らされた通路や回廊は蟻の巣めいて狭く、しかも複雑に折れ曲がるから、どこをどう進んでいるかの感覚を失って久しい。万が一の有事の際に、皇帝を守るための仕組みなのだろう。


「こちらでございます。どうぞ、中へ――寧妃様が待ちかねていらっしゃいます」


 だが、恭しいというよりは卑屈に腰を屈めた宦官に言われるまでもなく、とうとう目的地に着いたことが、辰蘭には分かった。


 いずれの御代の皇帝による宸筆しんぴつだろうか、彼の頭上に掲げられた扁額には、思静しせい殿と記されている。

 それが梓媚が賜った殿舎の名であることは、手紙ですでに知らされていた。




 豪奢を極めた衣装、それを彩る金糸銀糸や宝玉にも一切見劣りせず、「彼女」は輝くばかりに美しかった。凛として響く声は涼しげで、玉を打ち合わせて鳴らしたよう。


「お久しゅうございますわね、お兄様」

「梓媚――」


 大輪の花が綻ぶような華やかな笑み、軽く傾げた首の角度が窺わせる気の強さ。物おじせずにこちらを見上げる眼差し、黒々とした目に湛えられた高い知性。


 どこをとっても、彼がよく知る妹に違いない。だが、内面はどうだろう。変わっていないとして、長らくいじけていた兄に対して怒りが煮え滾っているのではないのか。否、それよりも何よりも、辰蘭にも及んだ陰謀の魔手は、妹には届いているのかどうか。


「私、は」


 謝罪か、弁明か。あるいは先日の事件について説明すべきか、呼び出された理由を質すべきか――何を最初に口にすべきか迷って、辰蘭は言い淀んだ。


 その隙に、梓媚は紅い唇をにこりと笑ませた。


「公主をお見せしたことはございませんでしたわね? 会ってあげてくださいませ。とても愛らしい子ですのよ」

「梓媚?」


 梓媚は、すでに公主を儲けている。封号を安慶あんけい公主、名を麗玉れいぎょくといったはずだ。確かに辰蘭が会ったことはないし、梓媚の娘なら愛らしく利発なことも間違いないだろう。


(二歳かそこらだろう? 伯父などと言われても分かるまい?)


 だが、久々の兄妹の再会の直後に、積もる話を措いて言うことだろうか。首を傾げる兄の袖を掴んで強く引っ張るほどに、梓媚は娘を溺愛しているのか。


 華奢な腕では、呆然と突っ立ったままの辰蘭を動かせないことに焦れたのだろうか。梓媚は、柳の葉のように細く描いた眉をきりりと吊り上げた。


「早く! 早く――来てくださいませ。……は、()()ですわね?」

「あ、ああ」


 鏈瑣の美貌は、後宮では目立ちすぎる。よって、老僕に姿を変えていたのを、梓媚は鋭く看破したらしい。化物の手札を懇切丁寧に説明されたことがあるとは聞いていたが、さすがの目敏さと動じなさだ。


(大人しく従うしかない、か)


 腹を括って、辰蘭は公主の寝室と思しき小部屋へと引きずられ――そして、入室した瞬間に、眉を顰めた。


 室内には、薬の匂いが立ち込めている。幼児の具合が悪いのなら、馴染みのない者に引き合わせるのは酷だろうに。公主は眠っているのか、寝台を囲う紗幕越しに見える影は動いていないが――寝台にいるのは、どうやら公主だけでは、ない。


「猫を飼っているのか? 危険ではないのか……?」


 公主の胸のあたりに獣らしき影が丸まっているのを見て取って、辰蘭はわずかに声を尖らせた。見た目は愛らしくとも、猫の鋭い爪は子供の柔肌を傷つけかねない。虫やら鼠やらを喰らった舌で舐められるのも汚らしい。


 不用心ではないか、と。辰蘭は梓媚を窘めようとしたのだが――


「猫。猫がいるのですか。わたくしには見えません……!」


 妹の、思いがけず取り乱した声に、目を剥く。改めて寝台に視線を向けても、丸くふわふわとした毛皮が確かに紗幕に影を落としているというのに。


「だが、そこに――」


 と、言いかけた辰蘭の横を、白い手がぬっと過ぎていった。言うまでもなく、鏈瑣のものだ。先ほどまで腰の曲がった老僕に化けていたが、瞬きをするほどの間にいつもの涼しげな美貌に戻っている。


猫鬼びょうき、だな」


 紗幕の中に突っ込んでいった鏈瑣の手は、戻ってきた時には「猫」の首根っこを捕まえていた。錆びた金属を擦り合わせるような、耳障りな威嚇の声が響き渡る。


「な、何だ、それは……!?」


 「それ」は、厳密には猫ではなかった。あるいは、猫だったもの、というか。


 白地に黒い斑が散る、やや長めの毛はべっとりと赤黒く濡れている。毛皮の裂け目からは肉や骨が覗き、金色の目の片方は焼き潰され、もとは三角形をしていたであろう耳は引き千切られて。

 全身を血と膿に塗れさせて、生きているはずがない虐待の痕を刻まれて――けれどその「猫」は、牙を剥き出して鏈瑣に唸っていた。明らかに異形の存在も、御馳走を見る目で見つめられる恐怖と不穏は感じるらしい。


「先日の蟲毒と似たような呪詛だ。猫を殺して、怨みのこもった魂を使役する――猫のほうが、虫よりも知恵があって執念深いからな。喰って良いか?」

「……娘に障ることがないのなら」


 鏈瑣のお伺いに、梓媚は厳しい表情で小さく頷いた。鏈瑣が触れたことで、猫鬼の無惨な姿は彼女の目にも映るようになったらしい。掲げられてもがく獣を見て、忌まわしげに眉を寄せている。


「痛みも苦しみもいっさい感じさせてはなりません。麗玉の、肌はもちろん髪のひと筋であっても、損なわれれば許しません」


 鏈瑣の口元が綻んだのは、梓媚のもの言いが、先日の貢院で人喰いを戒めた時の辰蘭と似ていたからだろうか。それとも単に、お許しを得たからだろうか。いずれにしても、軋るような耳障りな笑い声が、化物の喜びを雄弁に伝えていた。


「呪詛を除くのだ。子供にとっては良いことであろう。では――いただきます」


 より高く掲げられて、身体の真下に大きく開いた化物の口が待ち受けるのを見て、猫鬼とやらはいっそう激しく暴れ、耳を劈く悲鳴を上げた。


 まさに鬼気迫る猫の声に、寝ていた公主が目を覚まし、火がついたように泣き出す。


「麗玉、しっかり――良い子だから、ね?」


 梓媚が寝台に駆け寄り、公主を抱き上げてあやす間も、鏈瑣は悠々と食事を続けた。


 猫の姿をしたものが、四肢を千切られ頭をがれ、咀嚼されていく――おぞましい光景から妹と姪を守るため、目隠しとなるべく身体の向きを変えながら、辰蘭は問うた。


「公主が、呪詛されていたというのか」

「ここのところ、泣いて痩せ細るばかりで――ただの病気だなんて、とても」


 猫鬼の悲鳴と子供の泣き声の間を縫って、兄妹で言葉を交わす。


 梓媚の腕の中にいる公主を改めて見れば、確かに顔色が悪い。子供といえば丸く赤い桃のような頬をしているものだろうに、血の気が失せた肌の色は紙のようだ。梓媚が必死に辰蘭を――ひいては鏈瑣を呼んだのも、無理からぬことだった。


「薬も効かなかったのです。お兄様にお縋りすべき事態とは察しておりましたけれど、ちょうど礼部れいぶに良からぬ動きがございましたから――」

「なるほど。後宮に招かれたところを捕縛されるわけにはいかなかったな」


 そのようなことになっていれば、辰蘭は梓媚の依頼で桂磊けいらいを殺したのだ、という筋書きに信憑性が出てしまっていただろう。彼が捕らわれるのも本物の牢獄で、鏈瑣ばけものの手引きがあってなお、逃れるのは難しかったはずだ。


 後宮に送った手紙に、長く返信がなかったのは、そういうことだったのだ。


 辰蘭の考えを裏付けるように、梓媚も頷いた。


「ええ。思ったよりも早く片付けてくださったそうで。それに――あの御方が汚されずに済んだとのこと。……ありがとう、存じます」


 梓媚の腕に抱かれて、公主はやっと泣き止んでいた。小さな拳が母の衣を握っている。


 それを見下ろす梓媚の目の優しさ。あの御方、と桂磊に言及する時の、声の切なさ。目を伏せて囁いた礼にこもった真情。


 そのどれもが胸に迫って、一瞬、辰蘭の息を詰まらせた。


 彼と桂磊と、そして芳霞ほうかと。四人の中では梓媚はもっとも年下だった。妹の気の強さは、年長の者たちに守られ甘やかされていたからこそ。そして、兄のほうでも、妹を守らなければならない、と――かつてはしっかりと心得ていたはずなのに。


「私は、何も……否、違う。私のことなどより、お前と、公主のことだ!」


 陰謀に長けた女だから放っておいても問題ない、などとは思い違いも良いところだった。後ろめたさと焦燥に辰蘭の声は高まる。公主がまたもむずかり、梓媚が咎めるように顔を顰めるほどに。だが、構ってはいられなかった。


「呪詛を行った者がいるはずだな? いったい何者だ? 貢院での顛末は、どこまで知っている!?」

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