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子不語堂志怪録 星なき夜に影は踊る  作者: 悠井すみれ
第三章 閉ざされた貢院に渦巻く蟲毒
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10.そして――

 りん浩雨こううの来訪から数日後、子不語しふご堂はまた別の客人を迎えた。


「……廃屋かと目を疑った。もう少し、どうにかならぬのか」

「なかなか手が回りませんで――大人が自ら足を運んでくださるとは」


 積もり放題の落ち葉を踏み、呆れた眼差しで荒れた前庭を見回すのは、しょう司獄しごくだ。遥かに年長の御方にわざわざ出向いていただくなど、辰蘭しんらんとしては居たたまれないのだが――


礼部れいぶの企みを、もっと早く止められなかった非はこちらにある。それに、呼びつけるなどできるものか。……役所では人の耳目が気になるゆえな」

「……はい」


 猛禽めいた鋭い目で見つめられると、頷かざるを得ない。これからの話題は、確かに余人に聞かれるわけにはいかないだろう。


 辰蘭が淹れた茶は、果たして口に合ったのかどうか――葉司獄の、硬い石に刻んだような厳かな面持ちからは窺えなかった。


 若輩の未熟者の背を冷や汗で濡らしておいて、老練な司法の官はほとんど音を立てずに茶器を卓に置き、切り出した。


「例の胥吏しょりの身辺に、不審な点は見当たらなかった。本人も真面目な仕事ぶりで、長年に渡って礼部に勤めていたという」

「礼部――つまりは、龍淵りょうえん貢院こういんに、ということでしょうか」


 蟲毒の術とやらを返されて、無惨な遺体を晒した男のことだ。桂磊けいらいの死に深く関わる者であり、さらに黒幕へと繋がる糸口でもあった。だが――葉司獄の眉間の皺からして、はかばかしい調査結果は得られていないようだ。


(官と違って、胥吏には異動はないというが)


 汚職対策として、官は長くても数年で任地から任地へと異動する。身分低い胥吏のほうが実務に詳しい場合も多々あって、新任の官が侮られたり言いなりになったりすることもあると聞く。


「だとしたら――」


 あの男は、勤勉な胥吏の仮面の下で、何者かの意を受けて暗躍していたのではないか。桂磊以外にも、その死に不審な点がある者がいたのではないか。


 辰蘭が皆まで言わぬうちに、葉司獄は重々しく頷いた。


「心労や緊張によって受験生が倒れるのはままあること。だが、試験が終わって門が開くまでは医者も呼べぬし家族も対面できぬ。当然、遺体を検めることも叶わない」

「死者の身元や、共通点についてはいかがでしょう。何かしら共通のの利害に関わる者がいるのではありませんか」

「無関係の死者もいるであろうし、黒幕――そのような者がいるなら――の手駒もひとつにと限るまい。雲を掴むような話になろう。……否、毒蛇の潜む淵に手を突っ込むと言ったほうが良いか」


 ふたりきりの客庁きゃくまにいてなお、葉司獄が声を潜める理由は、分かってはいた。


(黒幕は、相当の権力を持っている……)


 蟲毒を仕込んだ部屋が桂磊に割り当てられるように細工するのは、ひとりでできることではない。それができるほど、深く広く礼部に根を張り巡らせることができる存在に、辰蘭は――ひいては妹の梓媚しびは、陥れられかけたのだ。


「若君は……何というか、尋常でない加護を得ているようだ」

「……はい」

「後宮は――私が考えていたほど秩序ある場所ではないのかもしれぬ。皇后陛下がおわしても、なお。だから、妹君を案じられるのも良く分かる」

「痛み入ります」


 葉司獄の苦虫を嚙み潰したような顔は、馴染みのものだ。

 だが、口中ににかわでも張り付いたかのような歯切れの悪いもの言いも、回りくどい前置きも、常にはないことで珍しい。この御方がこれから口にしようとしているのは、いつもの苦言や説教ではないということだ。


「此度のことで、淑妃しゅくひ様は実家の後ろ盾を失くすことになる。寧妃ねいひ様が脅かされる恐れも減るであろう。だから――」

「はい。大人しくしております。今度こそ」


 桂磊を殺した黒幕の追及は諦めろ、と言われる前に、辰蘭はにこやかに遮った。そのようなことは聞きたくないし、司法を掌る官に言わせるのも酷なことだ。


「無位無官の悔しさ頼りなさを痛感いたしました。次こそ及第すべく、心を入れ替えて励もうかと」


 軽く目を見開いた後、葉司獄は疑り深げに辰蘭の顔を眺め回した。ほとんど被疑者の証言の綻びを探す時の眼差しではないだろうか。これまでの辰蘭の言動に、貢院での啖呵も加えれば、簡単に信じるほうがどうかしている。


 だが、嘘を吐いているだろうと、証拠もなしに決めつけることもできないはずだ。


 笑顔の辰蘭と、不審げに眉を寄せた葉司獄とで、睨み合うように見つめ合うことしばし――折れたのは、相手のほうだった。


「……ならば、良かったが」

「過分のお心遣い、痛み入ります。――大人をお引止めするわけには参りません。ご多忙でしょうから」

「うむ。退散することにしよう」


 辰蘭が笑みを保っていたのは、葉司獄を見送るまでのことだった。


 深く丁重な揖礼から身体を起こした時、彼は顎に痛みを感じるほどに歯を食いしばっていた。傍からどう見えるかは知らないが、怒りと焦燥と悔恨とが、混ざり合って辰蘭の顔を彩っていることだろう。


(あの御仁は信頼できる。高潔で実直で――だが、だからこそ気付かれるわけにはいかない。巻き込むわけには……)


 屋敷の奥へと足を向けながら、辰蘭は自身の頬をはたいた。葉司獄との短いやり取りの間でさえ、感情を抑えるのに苦労するとは。もっと自然に滑らかに、息をするように表情を取り繕えるようにならなくては。


 たぶん、梓媚にはできていることだから。


 梓媚が、皇帝に望まれるままに逆らいもせず――そのように見えた――後宮に入った理由が、やっと分かった。


 復讐だ。


 あの怜悧で気丈な妹のこと、最初から不審に思っていたのだろう。桂磊の死によって、彼女の入宮を妨げる存在はなくなった。梓媚は欠片も望んでいなかったのに!

 ならば桂磊を殺した黒幕は、それを望んだ者だ、と当然考えられよう。梓媚は、恋人の仇と対峙するために後宮に乗り込んだのだ。


(皇帝……では、ないだろう。ならば、何者だ……!?)


 誰が眉を顰めようと諫めようと、皇帝には無理を通す力がある。桂磊を目障りに思ったとしても、呪詛に頼らず排除できただろう。


 後宮に渦巻く権力と寵愛争いに、どのような勢力が関わっているか、仇とは何者なのか――辰蘭には分からないのだが。兄がいじけて閉じこもっている間に、妹はひとりで戦っていたのだ。


 鏈瑣は、屋敷の奥庭にて日向ぼっこをしていた。例によって朽ちかけ、落ち葉に埋もれた四阿に設えられた腰掛にだらしなく伸びて、目を閉じている。ささやかな日光の温もりを享受する姿は、満腹の猫のようだ。


「鏈瑣」

「なんだ、先生」


 呼び掛けに応じてごく薄く目を開けた鏈瑣は、猫ならごろごろと喉を鳴らしていたことだろう。蟲毒の百足はよほどの珍味だったようで、いまだに余韻に浸っている節がある。


(満腹なら、扱いやすくなるか――それとも、やる気がなくなるのだろうか)


 いったいどちらだろう、と思いながら、辰蘭は短く命じた。


「出かける支度を。髪も服も整えよ。どうせ姿を変えてもらうことになるのだが、作法は弁えねばならぬ」


 やはり、というべきかどうか。怠惰な化物は辰蘭の言葉に喜ばず、逆に面倒そうに顔を顰めた。


「先ほどの客はあの煩そうな男だろう。あの者が先生に頼ったのか?」

「葉司獄はお帰りになった。出向く先は、依頼ではない――後宮だ」


 貢院と並んで、情念が渦巻いていそうだと鏈瑣が評した場所だ。眩い煌めきと裏表の濃い陰には、梓媚を狙う陰謀も蠢いているはず。


 さすがに魅力だか興味だかを感じたのか、鏈瑣の目がぱちり、と音を立てそうな勢いで開かれた。そこへ、辰蘭は懐に携えていた書簡を広げてみせる。


「梓媚から返信が届いたのだ。お前も連れて、早急に来いと言っている」


 そこには、流れるような筆跡でこう綴られていた。


 至急、後宮へお出でください。その際、いつかお貸ししたを、必ずお持ちくださいますように。

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