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子不語堂志怪録 星なき夜に影は踊る  作者: 悠井すみれ
第三章 閉ざされた貢院に渦巻く蟲毒
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9.事件の解決

 蟲毒こどく百足むかでの、大きく開いた顎が迫るのが、ひどくゆっくりと見えた。頭の中で考えを巡らせる余裕があるほどに。


桂磊けいらいも、こうして……?)


 友が死んだのと同じ場所で、同じ術で殺されるのか。――逃避のように考えるうちに、百足の牙の切っ先が、肌をひりつかせる距離に届く。激痛を覚悟して、辰蘭しんらんは目を閉じた、のだが――


「おお、やはり大物だ!」


 視覚が闇に閉ざされた中、幾つかの物音が交錯して鼓膜に刺さった。


 鏈瑣れんさの、喜色に満ちて弾んだ声。じゃらり、と鎖が鳴る音。次いで、何か硬いものが割れる音と、ぶちゅ、ぐちゅ、という湿った不快な音。


(何が……!?)


 牙が肉を裂く痛みが感じられない不審に、辰蘭は思わず目を開け――そしてすぐに後悔した。


 彼の目の前を、黒光りする百足の体躯がぎる。何か気味悪く汚らしい液を断面から撒き散らして。そう、蛇のように太い銅は、真ん中あたりで千切られていた。


 百足の下半分は、鏈瑣の片手にしっかりと捕まれ、いまだ脚を蠢かせ胴をのたうたせている。そして、上半分は、もう片方の手に。


 頭の半分は、齧り取られて。得体の知れない液体を滴らせて。鏈瑣の唇からはみ出すのは、折れた牙。それが、瞬く間に口内に呑み込まれて。ぷち、と聞こえたのは、たぶん目玉を嚙み潰した音で。


「鏈、瑣」


 掠れた声で呼びかけても、「大物」に夢中の化物は辰蘭を一顧だにしなかった。大きく開いた口が百足の頭に齧りつく。もう一度おぞましい音が響いて、頭を完全に失った百足の身体がだらりと垂れる。


「丁寧に仕上げた、濃厚な毒だ……ああ、美味い……ついて来て良かった……」


 唇を舐めた鏈瑣の舌は、正体を考えたくもない黒い液体に染まっていた。ちらりと見えた口中では、百足の牙や脚の欠片が咀嚼されていた。


 鏈瑣の見た目がいかに整って美しくとも、大百足を恍惚の表情で貪る様は嫌悪と吐き気を催させる。陶然とした声も、いつもの聞き苦しさに加えて硬い虫の身体を噛み砕く音が混ざって聞くに堪えない。身悶えするたびに鎖の音が鳴るのも、神経に障る。


 言いたいことは、山ほどあったが――


「鏈瑣! 口を閉じろ!」


 辰蘭は、端的に叱責した。喰うなと言って、鏈瑣が聞くはずはない。せめて、少しでも行儀良く食事して欲しかった。口の中にものが入っている時は口を開くな――いったいいくつの幼児を相手にしているのかと思うと、頭痛と目眩に倒れそうになる。


「な、何だ!?」

「化物……!」


 辰蘭の一喝に、鬼騒ぎに気を取られていた官や胥吏がこちらを向いた。貢院の、ただでさえ狭い号舎の間の通路に人が押し合いへし合いして、潰されかけた者が呻きを上げる。


 ゆうれいに憑かれた胥吏、それに詰め寄られて首を絞めかけられているちん郎中ろうちゅう百足ばけものを貪る鏈瑣ばけもの――ひとつところに、決して近づきたくないものが多すぎるから当然だった。


 いっぽう、周囲の人の壁が薄くなったことで、鏈瑣はのびのびと食事を楽しむことにしたようだった。またひと口、百足の銅を食い千切り噛み砕きながら、性懲りもなく無作法に口を開く。


「そう言うな、先生。――ほら、術者も見つかったし」

「何……?」


 鏈瑣が顎で示した先に、人がひとり、倒れていた。皁衣そういの、胥吏だ。一見、押されて身体の均衡を崩したようにも見えるが――違う。


「――ひっ」


 傍にいた別の胥吏が、引き攣った悲鳴を上げて飛びのいた。それも道理、倒れた男は、尋常ではあり得ない方向に胴が折れている。ぶつけるものもないだろうに、顔の半分は無惨に潰れて赤く染まって。――まるで、鏈瑣に喰われた百足と同じような姿で、こと切れている。


「強力な術には代償がつきもの、呪詛を行って返されれば、まあ『そう』なる。――うん。内臓も、美味いな……」


 その場の人間すべてを凍り付かせておいて、鏈瑣はの百足の断面に口をつけて中身を啜った。


 じゅるり、という粘性の音に、何人かが失神して倒れた。嘔吐する者も出始める。まったく無理のないことだし、できることなら辰蘭も倣いたいくらいだった。だが、まだそうするわけにはいかなかった。


 陳郎中の首に手をかけていた胥吏――に、憑いた鬼へ、必死の思いで呼び掛ける。


「あ、貴方は去ってください! 今のうちに、行くべきところへ……! 貴方の怨みは必ず晴らしますし、御名を調べて祀りますゆえ……!」


 死者にとってさえも、鏈瑣の姿は恐ろしくおぞましかったのだろう。鬼はさすがに驚きの表情を浮かべて固まっていた。鏈瑣にとっては、ただの死者よりも蟲毒のほうが御馳走なのだろうが――箸休めを欲しがらないとも限らない。


 辰蘭の懸念に気付いたのだろう、鬼は慌てたように陳郎中を突き飛ばした。そして、辰蘭に向けて丁寧に拝礼する。生前は科挙を目指して励んだ、才も教養もある人だったのだろうと窺わせる所作だった。


「心より御礼申し上げる。そして、御身の栄達を願う」


 最後の言葉も温かく、血の気が通ってさえ聞こえたような。


(栄達……するかどうかは、分からないのですが)

 どさり、と音がしたのは、鬼に操られていた胥吏が倒れた音だ。

 これで、貢院に渦巻いていた蟲毒のような怨念はひとまず解けただろう。


      * * *


 もちろん、辰蘭への嫌疑は晴れた。糾弾されるのは、今や礼部れいぶの官たちのほうだ。何の咎もない受験者の答案をすり替えた上に、それを利用して寵妃とその兄を陥れようとした――さい尚書とやらも罪に問われるのか、あるいは下の者が勝手に采配したことになるのかは、今後の調査次第だろう。


 陳郎中については、過去の不正についても追及されることになる。彼が及第した時に亡くなった受験者のこと、その故郷や縁者のこともすぐに判明するだろう。辰蘭としては約束通り手厚く祀るつもりだし、成り行きによっては改めて進士及第相当の名誉が贈られるかもしれない。


「――陳郎中は、無作為に答案を選んだつもりだったそうだ。桂磊のそれと入れ替わっていたことにするのは、誰でも良かったのだろうからな」


 騒動から数日経って子不語堂しふごを訪れたりん浩雨こううに、辰蘭は説明した。彼が桂磊を殺したのかと疑ったまま貢院を追われたこの旧友は、さぞ気を揉んでいたことだろうから。


(思えば、こいつに演技ができるはずもなかったな。家や弟御に要らぬ嫌疑が向けられる陰謀を、良しとするはずもないし)


 友を疑ったあの時の辰蘭は、焦りと不安によって目が濁っていたとしか言いようがない。


「よりによって弟御のものだったのは――それによって、私があの場に居合わせることになったのは、あの鬼が何か干渉したのではないだろうか。ご本人は旅立たれたから、確かめようがないのだが」

「そう、だな。そうかもしれぬ」


 林浩雨の煮え切らない相槌の理由は、想像がついた。貢院をさ迷うゆうれい、などと。噂としては知っていても、現実の事件に関わるものとして聞かされるのは落ち着かないものだろう。


「弟御の答案も見つかった。これで、心置きなく次の機会に向けて励めるな? 良かったではないか」


 謀を巡らせた者たちも、無関係の受験生の答案を破棄するのは気が引けたらしい。林浩雨の弟の答案は、捜索の結果無事に見つかり、しかも事件を聞きつけたとある内閣大学士に添削されるという栄誉を賜っていた。


(結果として、お前の依頼も叶ったであろう?)


 そもそもは、弟の不正疑惑を何とかして欲しい、ということだった。何の非もないことが証明できた上に、高官と知遇を得るという嬉しい「おまけ」もついてきた。


「辰蘭――」


 申し分ない結果だろうに、なぜまだ強張った顔をしているのだろう、と。辰蘭が首を捻っていると、林浩雨は椅子を蹴倒す勢いで跪いた。


「すまぬ。私はあの時お前を恐れ、疑った。何よりもまず、それを言うために来たのだ」


 貢院にて、辰蘭が陳郎中に糾弾された時のことだろう。


(私が、桂磊を殺すと思ったのか? 本当に?)


 ひどく見損なわれていたのを悟って、辰蘭は苦く溜息を吐いた。たいへんに不本意なことではあるが――もう過ぎたことだ。それに、彼のほうも謝罪すべき誤解をしていた。


「……疑ったのはお互い様だ。私も、お前におびき出されたのかと思ったのだからな」

「お前が桂磊に何かすると信じたわけではない。ただ……お前にも欲があって欲しかった」

「欲?」


 お互いに水に流そう、と仄めかしたつもりだったのに。林浩雨はまだ床に膝をついた格好でぶつぶつと言っている。


「お前は、何ごとにも執着がないから。進士及第はおろか、寧妃ねいひ様のご意向で栄達も思いのままだろうに、何も望まないで陋巷暮らしに甘んじているから。だから、人並みに悪事を企む――何というか、俗っぽさがあっても良いだろう、と」

「友を暗殺するのは俗っぽさでは済まないだろう」

「ああ……だから、重ねてすまぬ」


 林浩雨が立ち上がる気配がないのを見て、辰蘭は苦笑した。そして、旧友と鏡合わせになるように屈みこむ。彼は、林浩雨を見下ろせるような人間ではないのだ。


「私は俗人だ。芳霞ほうかのことは忘れられぬし、桂磊のことで悔やみ続けている。せめて妹は守りたいと思うから――だから、いつまでも無位無官ではいられぬ。怠けた分を取り戻すために、励まなければな」

「辰蘭。それは――」

「次の科挙は受験しようと思う」


 目を瞠る林浩雨に、しっかりと頷いて――辰蘭はぎこちなく、それでも少し悪戯っぽく笑んだ。


「弟御には、気の毒かもしれないが?」


 精いっぱいの軽口は、「仲直り」の合図だと、どうにか伝わったらしい。林浩雨も、すぐに辰蘭と似た類の笑みを浮かべた。


「……大口を叩くものだ。良かろう、お前をくだせるよう、今から鍛え直すことにしよう……!」

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