8.幽鬼の告発
老受験生の鬼は、果たして桂磊が息絶えた部屋の前で立ち止まった。友の冷たい亡骸を抱えた時のことを思い出して、辰蘭の胸は締め付けられる。
「ここで、何を教えてくださると……?」
年長者への敬意を込めて、辰蘭は鬼に拝礼してお伺いを立てた。
どこまでも暗く虚ろな目をした鬼は、無言のまま数歩、足を進める。そして、土が剥き出しになった床のある一点をとん、と踏んで示した。
(掘れ、ということか)
辰蘭は迷わず膝をつき、湿った土に指を立てた。――過去の受験生が踏み固めてきたにしては柔らかい、かもしれない。頭上では、鏈瑣が苛立たしげに舌打ちしている。
「先生、虱潰しに捜しているようだぞ。見つかるのも時間の問題だ!」
「ならば手伝え。私は、ここで何があったか知らねばならぬ……!」
夏に遭った縊鬼と違って、老人の鬼は意思疎通ができるようだ。いつからさ迷っているかは分からないが、桂磊の最期も見ていたのかもしれない。その上で伝えたいことがあるというなら、無視できない。
(桂磊……さぞ無念であっただろうに……!)
もっと早く、調べてやるべきだった。胸を苛む悔恨の痛みに比べれば、爪が剥がれる痛みなど何でもない。
無心に掘り進めた甲斐あって、やがて、辰蘭の指先に硬いものが触れる――と同時に、鏈瑣が飛ぶような勢いで屈みこんだ。
「おお!?」
「痛――っ」
「これは……何という……!」
額をぶつけ合った衝撃に辰蘭が悶えるいっぽうで、化物は痛みを感じないようだった。というか、それ以上に埋まっていたモノに心を奪われたのか。掘り出す手が四本になったことで、間もなく地中から完全に姿を現したのは、固く封印がなされた壺だった。
(中に、何か入っている……?)
手に取ると何かかさかさとしたものが中で動く。その感触と、両手で包み込めるていどの大きさの割に、妙に重いのが気味が悪い。鏈瑣が目を輝かせて、満面の笑みを浮かべているのも。
不吉な予感に、辰蘭が顔を顰めた時――慌ただしい足音と、耳に刺さる怒声が響いた。
「殷辰蘭! いったいどのようにして――否、もはや逃がさぬぞ! 嫌疑ある身で脱走とは、家と寧妃様の名をどこまで汚すか!」
礼部の陳郎中が、胥吏を引き連れて現れたのだ。さらに後ろにいるのは、葉司獄だ。眉間に深く皺が寄っているのは、忠告を無視した辰蘭への苛立ちゆえだろう。
(とはいえ、大人しくしなかった甲斐はありましたので……!)
号舎の間の狭い通路は瞬く間に人で埋まり、退路は塞がれた。
だが、辰蘭が臆することはない。泥に塗れた姿のまま、掘り出したばかりの壺を丁重に捧げ持ち、陳郎中に示す。
「先達のご教示により、『これ』を見つけました。ここで、忘れもしない、柯桂磊が最後に過ごした部屋で――これこそが、彼の『本当の』死因だと存じます」
「何だ、それは」
「蟲毒だ」
胡乱げに目を細める葉司獄に応えたのは、鏈瑣のぎしぎしとした軋り声だった。泥で汚れたことで白さがいっそう際立つ指先が、辰蘭の抱えた壺を愛しげに撫でる。
「数多の毒蛇毒虫をひとつの壺に封じて喰い合わせ、残った一体で呪詛を行う――よく、育っている」
鏈瑣の形良く色気ある口元は、今にも涎を垂らしそうにだらしなく緩み、品定めする言葉ぶりも、熟成した酒か茶を語るかのよう。眼差しも、酔ったかのようにとろりと潤んでいる。色気漂う妖しい美しさのいっぽうで、どこまでも異様な風情だった。
「そんな――そのようなものが、何の証拠になる! そなたが持ち込んだのであろう!」
鏈瑣の美貌にも蟲毒とやらの説明にも怯まず、陳郎中は辰蘭を睨みつけ、指を突きつけた。毅然とした糾弾などでは決してない、不合理で辻褄が合わぬ難癖だった。
「だとしたら、私は桂磊のもとに駆けつける必要はなかった。己の答案を存分に練って、試験が終わった後で初めて彼の死を知ったことにすれば良いだけでしょう」
「む――」
辰蘭の語気の強さ、相手を睨む目の鋭さ険しさは、何も今回の謀への怒りによってだけではない。そんなことは、もはやどうでも良いことだった。
(こんなものが、ここにあった。桂磊は、殺されていた? 何者によって? 私の目は、節穴か……!)
辰蘭は何も気付かなかった。桂磊の衰弱振りから、疲労と寒気に耐えられなかったのだと信じて疑わなかった。蟲毒とやらを埋めた痕跡は、三年前ならもっと明らかだったのかもしれないのに。
「柯桂磊の死について、やはり調査が必要かと存じます」
腹の底で、溶けた鉄のように煮え滾る怒りをぶちまけるように。辰蘭は吼えた。
「礼部ではなく、刑部によって! 神聖な貢院にこのようなおぞましい呪物を持ち込ませたのは礼部の落ち度! まともな調査ができるとは思えない……!」
礼部の官を睨みながらの暴言は、当然、彼らの怒りと反発を買った。
「何を、無礼な……!」
「葉司獄と誼を通じているのであろう」
「そなたの嫌疑はまだ晴れていないのだぞ!?」
次々に上がる声は、鶏の鳴き声も同然だった。つまりは、意味もなく騒ぎ立てる、理の通らないただの音。科挙の関門を突破した俊才の言葉とは思えない。
「まだ仰るか――」
目の前で新たな証拠が掘り出されたのを見ておいて、と。さらなる反駁を連ねるべく、辰蘭は大きく息を吸った――が、思いの丈をぶつけてやることはできなかった。
「――柯桂磊と殷辰蘭は真の友だ」
ぼそりとした声が、場の全員の耳目を引きつけたのだ。まるで、水面に小石を投げたかのように。さほどの大声でもない、坦々とした――やけに温度を感じさせない声だというのに。なぜか、無視しがたい力があった。
「隣室の受験生が倒れたとして、助けに向かう者はどれだけいるであろう。まして、不正を疑われる危険を冒して、号舎を越えて見舞う者は? 貢院にて他者に心を配ることができる者はいかにも少ない」
声の主は、ひとりの胥吏だった。下働きとして雇われる彼らは、科挙のことなど知らぬはずなのに。上司たる官を差し置いて口を開くなど、あり得ないことのはずなのに。
(何が、起きているのだ……?)
気を呑まれたように男を見つめる官の何人かが、寒そうに腕や手を擦った。
そう――胥吏のぼそぼそとした声を聞いていると、衣服の間に氷を滑り込まされた心地がする。
その男の顔つきも異様だった。からくり仕掛けの人形の口を、無理に開閉させているようにぎこちない。表情も平板で、人形でなければ――死体が、喋っているかのような。
「柯桂磊の答案も、まったく見事なものであった。死して鬼となり果てた身でも妬み感嘆せずにはいられぬほどに。私にあれほどの才があったなら。官途を得た後、あのような答案を推挙する光栄に与れたなら……!」
「そなた……何者だ……?」
礼部の官のひとりが、恐る恐る、問いかけた。日ごろ使役していた胥吏が語っているのでは「ない」と気付いたのだろうか。辰蘭も、ここに至ってようやく思い至る。
(先ほどの鬼が、生者に憑いて声を借りているのか。冤罪を晴らすために現れてくださった……?)
あの老人は、すべてを見ていたのだ。桂磊の命を削った努力も、あの雨の夜の辰蘭の慟哭も。死者の声を聞く寒さ恐ろしさを越えて、辰蘭の胸を温かいものが満たした――満たし、かけた。
「あの答案を盗まなかった、その点でも殷辰蘭の才と友情は真実だ。――私を見捨てた上に答案を我が物にしたお前とは大違いだ、陳昌明……!」
老人の鬼は、不意に声を荒らげた。胥吏の、声だけでなく肉体を操って、陳郎中に伸ばした指を突き付ける。
「な、何を――」
鬼が呼ばわった名が間違いないこと。訴えた怨みが真実であることは、陳郎中の顔色を見れば明らかだった。
「言いがかりだ! 私は、そのようなことはしておらぬ!」
「お前は、倒れて苦しむ私を蹴ってうつぶせにさせた。息が詰まるように。今際の苦しみに視界は暗かったが、耳ははっきりと働いていた。我が答案を見て漏らしたお前の歓声、懐に紙を押し込む音。何たる僥倖と嘯きながら、私を踏みつけた」
陳郎中に詰め寄る胥吏――鬼に、所属も位階の高低も問わず、官も胥吏も道を開けた。この世ならざる者への恐怖ゆえに、ではないだろう。鬼が並べた所業があまりに非道、あまりに卑劣であるがゆえに、誰もが陳郎中を見捨てたのだ。
(何と、まあ……)
もはや辰蘭の追及も糾弾も、置き去りにされた恰好だった。一瞬だけ所在なく佇んで――まあ良いか、と思い直す。この隙に蟲毒の壺を葉司獄に渡せば済むだろう。
「葉大人」
呼び掛けると、謹厳な官の顔がこちらを向いた。さすが現実的な御仁だけあって、我に返るのが早い。感心しつつ足を踏み出そうとした時――葉司獄の目が、大きく見開かれた。
「危ない――」
何が、とは問うまでもなく感じられた。辰蘭の手中の壺が激しく揺れたかと思うと、封印が内側から破られたのだ。何やら呪文らしきものを記した紙を押しのけて、現れたのは。
(これが、蟲毒……?)
夜の闇を凝らせたような、巨大な漆黒の百足。蛇ほどに太く大きく、無数の脚を蠢かせて躍る。
短刀のように鋭く尖った牙が狙うのは――辰蘭の、首だ。




