7.手招きする幽鬼
髪を使ってぶらさがっていることで、鏈瑣の白い額が露になっている。首だけの異様な姿でも、この化物はやはり息を呑むほど美しい。見蕩れてはならない類の美であり、その甘言にも耳を傾けてはならぬこと、辰蘭には嫌というほど分かっていたが。
ゆらゆらと揺らめく鏈瑣の首を睨めつけながら、辰蘭は慎重に言葉を選んだ。
「お前は――以前、いずれ戻る、と言っていたな。あの月の官に。人は喰いたいが喰わせてもらえぬのは分かっている、とも」
「そうだったか?」
胴体なしで首を傾げることは難しい。だが、鏈瑣は器用に髪を操って空惚ける角度を作った。
「許しさえあれば喰える――喰いたい、のか? それは……美味いからとか、そういう理由ではない、のか……?」
鏈瑣は、恐らくはただの化物ではない。その食い意地は、かつて計り知れない災いを地上にもたらした――のかもしれない。
虚空を食い尽くすほどの貪欲さ。あるいは虚空のごとくに尽きせぬ貪欲。そう、謳われた凶星。
そのような存在が、善意で助けの手を差し伸べるはずがない。人間を餌として与える行いが、正しいはずがない。
「人を喰うことで、お前は解き放たれる、のか……!?」
決意と警戒を込めての詰問を、鏈瑣は錆びを擦り落とすようなぎしぎしとした笑い声で誤魔化した。
「人は、実際美味いし腹持ちも良いぞ? 無辜の民でもない、先生を陥れた相手だ。遠慮や哀れみが必要か?」
「はぐらかすな、貪虚星君!」
見張りに聞こえぬように抑えた声で、それでも鋭く辰蘭はその名を口にした。
鏈瑣の首の、気まずげな揺れ方が。それにつれて宙に泳いだ視線が、呼び間違いではなかったことを伝えている。
睨み合うように見つめ合うことしばし――鏈瑣は、言い訳を許さぬ、という圧に屈した。軽く唇を尖らせた、いじけたような表情でぼそぼそと白状する。
「……極の太祖は、俺を捕らえて利用しようとしたのだ。代々鎖を引き継いで、子孫に使役させようと――どうやら途中で忘れられたようだが」
「なんと杜撰な」
「まったくだ」
思わず呟くと、鏈瑣は我が意を得たりとばかりに大きく頷いた。というか、頷きに似た仕草を空中で見せた。
「お陰で、蔵を掘り返した妃嬪だの宮女だのばかりを主にすることになってしまった」
すなわち、当代ではそれが梓媚だった、というわけだ。
天地を騒がせた凶星が、後宮や陋巷で細々とした精怪を啜るのは屈辱だったのか、単にもの足りなかったのか。鏈瑣は頭全体を使って鞠のように跳ね、不満を表した。
「本来ならば、皇帝の代替わりに伴って鎖の管理を引き継ぐはずだったのだろうが、それもなくなった。主が死ねば、また偶然に封印が解かれるのを待たねばならぬ。だから、先生が陥れられてあの女が失脚するのは、俺にとっても嬉しくない」
「……利害が一致しているというわけか。天に戻る――自由になる気は、ないのか」
喰えなくなるのは嫌だ、という主張は、日ごろの鏈瑣を見ていれば一応は説得力があった。それでもまだ不審な点は残っていたが――
「ただ働きと、月官ふぜいに哀れまれたのが業腹で、憎まれ口を叩いただけだ。……天にいると、あれは駄目これは駄目と煩いから、面倒だ」
「……なるほど」
かつての鏈瑣を窘めたのは、天帝や、伝承に名高い神仙ではないのだろうか。それを口煩い親や教師のように語ることに目眩を感じながら、辰蘭はとりあえず頷いた。すると、貪婪を極めた化物は途端に目を輝かせる。
「では、喰って良いのか? 誰なら良い? あの女も狙われているのだろう? 急いだほうが良いのだろう?」
尻尾を振る犬を思わせる、はしゃいだ問いかけへの答えは決まっていた。
「人を喰ってはならぬ。当然ではないか」
「ええ……」
犬の尻尾がしおしおと垂れるのが見えた気がした。が、無論、辰蘭は哀れみなどしない。
「手足も指も、髪のひと筋も喰ってはならぬ。傷も後遺症もいっさい残すな。ただ、ほんの少しの間眠るていどに精気を奪え。……できるな?」
有無を言わせず命じた調子は、少しは梓媚に似ていたのではないだろうか。
* * *
ややあって扉を開けた鏈瑣は、きちんと胴の上に首を載せていた。そして、不貞腐れた表情で床に倒れた見張りを軽く蹴った。八つ当たりも良いところである。
「言われた通りに、した」
「助かった。では、貢院を出るぞ」
「算段はあるのか、先生?」
化物が気のない口調で問うたのは、どこかしらに空腹を満たす要素を見出せないか、という仄かな期待ゆえだろう。あいにく、応えてやれそうにないが。
独房代わりの部屋を抜け、殿舎の外を目指しながら、口早に説明する。
「……葉大人以外の経路で、礼部の企みを暴ければ、良い。たとえば、毒があったとかいう場所――前回の会試で私に割り当てられた部屋に不審な細工がないか、とか」
貢院にて受験生に割り当てられる小部屋はごく狭く、毒を隠しておける場所はそもそもない。ならば壁に穴を開けたか床を掘ったか、いずれにしても新しい痕跡が残っているのではないだろうか。
辰蘭と並んで足を急がせる鏈瑣が、いかにも嫌そうに顔を顰めた。
「あの、蜂の巣のような小部屋だよな? どれがどれやら、どこがどこやら分からぬが――先生なら覚えているのか」
「うむ。念のため、見ておくか」
貢院の門は、遥か甬道の果てだ。その手前には、小部屋が連なる号舎が軒を接してひしめいている。個々の通路と建物、さらに小部屋にはそれぞれ識別のための文字と番号が記されているから、捜し出すはさほど難しくない。辰蘭にとっては、既知の場所なのだ。
鏈瑣に頷いたのとほぼ同時に、辰蘭の足は殿舎の敷居を跨いでいた。彼らがいたのは審査官や管理官のための区画、受験生向けの窮屈な号舎とは違って、前庭が設けられていたはずなのだが――
「……これは、どういうことだ」
眼前に広がる光景に、辰蘭は呻いた。
両手を広げることができるかどうか、というごく狭い間隔で石壁によって区切られた空間が、左右にずらりと並ぶ。内壁に溝が設けられているのは、板を渡して机や腰掛の代わりにするためだ。
改めて見ると、独房というより家畜小屋の雰囲気さえ漂ってくる。牢獄ならば鉄格子もあろうが、この小部屋には扉などないのだから。吹き込む風雨から答案を守るべく奮闘した、冷たい夜の記憶が蘇って辰蘭の肌を粟立たせた。
嫌というほど見覚えがある、受験生向けの号舎の真っただ中に彼らはいた。ほんの数歩で、距離も建物も飛び越えたとしか思えない。
息を呑んで絶句する辰蘭の耳を、鏈瑣のざらついた声が擦る。
「鬼打牆、だな。まあ、いかにも鬼がいそうな場所だしなあ」
視線で問い質すと、見目良い化物は軽く肩を竦めてから、当たり前のように続けた。
「幽鬼の類が人を惑わすために操る――幻のようなものだ。『ない』道や壁をあるように見せかけて、あるいは空間を捻じ曲げて。それで、同じところをぐるぐると回らせたり、住処におびき寄せたりする。怪談話にもよくあるだろう?」
「なるほど」
貢院に鬼が出ること自体は確かに何らおかしくはない。桂磊以外にも志半ばで斃れた者は多いのだから、怨みも心残りもあるだろう。
「だが、目的は何だ……? 惑わされている暇はないのだが。我らを逃がすまいとしている……?」
「知らぬ。本体を見つけて喰えば、術は解けようが」
鬼の気配にやる気を出したのだろう、鏈瑣はおざなりに相槌を打ちつつ周囲に視線を巡らせている――と、形良い唇が歓声を上げた。
「――あ」
鏈瑣が指さした先には、擦り切れた衣の老人がうっそりと佇んでいた。
生者ではあるまい。まだ日が高いというのに顔はなぜか暗く翳り、輪郭というか姿かたちは薄墨で描いたようにどうも色が淡く存在感というものがない。辰蘭たちを鬼打牆とやらに誘い込んだ鬼が、わざわざ姿を見せたのだろうか。
緊張のうちに見つめ合ったのは一瞬のこと、老人の鬼は軽く一礼すると、辰蘭たちに背を向けた。そして、ゆっくりと歩き出す。
「喰って良いか!?」
「ならぬ。受験の先達だ。それに、何やら言いたいことがおありのようだ」
鬼の後を追って駆け出しながら、辰蘭は鏈瑣を戒めた。老人は、時おり足を止めてはこちらを振り向いてくる。ちゃんとついてきているかどうか、確かめているようだ。
「暇がないのであろう!? ひっ捕らえたほうが話が早いぞ!」
鏈瑣の抗議を裏付けるかのように、黒い瓦が密集する号舎の屋根屋根の向こうから、人声が騒ぐのが聞こえてくる。見張りが倒れて辰蘭が姿を消したのに気付かれたのだろう。門は即座に塞がれるだろうから、袋の鼠になってしまう。だが――
(孔、懷、兄、弟――間違いない!)
千字文の順で号舎に付された文字を認めるうちに、辰蘭の心臓は高鳴っていく。興奮を身体のうちに留めておくことができず、大声が口から漏れる。
「意味があってのお招きのはずだ! 桂磊が死んだ部屋に向かっている!」




