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子不語堂志怪録 星なき夜に影は踊る  作者: 悠井すみれ
第三章 閉ざされた貢院に渦巻く蟲毒
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6.鏈瑣の誘惑

 辰蘭しんらんは、初めて貢院こういんの管理側の殿舎に足を踏み入れることになった。思えば問題の漏洩や買収を防ぐため、試験官や管理官も受験者同様、貢院に閉じ込められるものだった。


 だから、なのだろうか。辰蘭が押し込まれた部屋は狭く窓も小さく、十分に仮の牢獄としての用を為した。室内にあるのは卓と椅子だけ、扉の外には見張りが立っている。恐らくは礼部の官の麾下だろう。


 その椅子にかけて俯く彼と、部屋に立ち入ることを許されたしょう司獄しごくとの間に鉄格子がないのは、せめてもの慰めだった。


礼部れいぶさい尚書のご息女は、後宮で淑妃しゅくひの位を賜っている。皇子を儲けられるほどの寵愛ぶりと伺うが、その御方にとってもいん寧妃ねいひ様は無視しがたいのであろう」


 りん浩雨こううは追い立てられるように帰されたようだ。鏈瑣れんさについては、何らかの術で胥吏から逃れたのか、この場にはいない。無駄足を踏んだことを嘆きながら、龍淵りょうえんの巷で小物の精怪をつまみ食いしているころだろうか。


「先ほどの御仁はちん郎中ろうちゅうと仰る。そもそもの発案は段侍郎だったか。尚書に諂うために礼部を挙げて企んだ、というところであろうな」


 薄情な旧友と化物に比べれば、ほとんど罪人扱いの辰蘭に事情を説明してくれる葉司獄はとてつもなく親切だった。日ごろの辛辣さや厳格さからすれば、信じがたいほどに。


 ただ、素直に感謝する気には、今はなれない。


「そうですか」


 短く切って捨てるような、無礼な相槌にも、葉司獄は苦笑しただけだった。妹のためにその婚約者を手にかけた、などという嫌疑がどれほど不本意で屈辱か、辰蘭の動揺を慮ってくれているかのようだった。


「謀殺に手を染めた者が妃の位に居続けることはできぬ。ご本人に隙が見当たらぬからと、入宮前の事情を掘り起こして冤罪を着せることにした、というところか。刑部からも証人が欲しいと言われて引っ張り出されて、たいへん迷惑しているところであった」

「心中はお察し申し上げますが、私が謝罪すべき筋でしょうか」


 辰蘭は顔を上げて、語気荒く問いかけた。


 絡むようなもの言いへの後ろめたさは、ある。葉司獄の人柄からして、陰謀の証人に仕立て上げられるなど耐え難いに違いない。もっと冷静な時なら、妹のせいで申し訳ない云々と述べられただろう。だが――今は、知ったことか、という気分が強い。


「後宮の寵愛争いに利用されるのも、それによって職分を侵されるのも不快極まりない」


 辰蘭の重ねての無礼に、葉司獄は軽く片眉を上げた。それだけの仕草で感心しない、と雄弁に伝えてくる。


「とはいえ、確かに若君には何ら非のないことではある。無実は証明して差し上げるゆえ、しばし辛抱なされよ」


 ただ、続けた言葉は信じがたいほどに優しく、辰蘭に寄り添うものだった。


「……信じて、いただけるのですか」


 辰蘭が目を瞬かせると、葉司獄は軽く肩を竦めた。


「若君の人柄は存じ上げているし、いささかの借りもある。そもそも、妹君のために罪を犯すような御仁ならば、此度の科挙に臨まぬはずがない」


 冷静かつ端的な指摘に、辰蘭は再び俯いた。権勢を望むならさっさと進士の肩書を得ているだろう、という評は、決して手放しで喜べるものではなかった。


(私に、地位があれば……!)


 寵妃の妹の口利きで、及第して早々に高い官位を得よう、などとは唾棄だきすべき発想だ。だが、それなりの地位があれば、こうしてあっさりと捕らえられ、軟禁の憂き目を見ることもなかっただろうに。


 子不語堂などと掲げて怪力乱神と戯れたこの三年、彼は無為に過ごしてきたのだろうか。


「礼部の者どもは、次は桂磊けいらいの墓を暴くつもりであろう。遺体を検分した結果、毒殺の痕跡があった『ことにする』、という訳だな」

「そのような冒涜――」

「それこそ心中は察するが、止められぬ。若君の潔白を証明するには、検屍をした上で痕跡なし、となるのが一番早い。今度こそ小細工の余地など許さぬよう、司獄司の者できっちり見張ると約束しよう。――なので、しばし耐えられよ」


 葉司獄は、桂磊を殺した毒と針とやらの捏造を許したことについても詫びてくれているようだった。司法に携わる御方が冤罪を許さぬと言ってくれること、それ自体は心強い。


 だが、頼り切って安心するわけにはいかない。辰蘭は立ち上がり、葉司獄に詰め寄った。


「そのような――あっさりと嵌められ、大人のご厚意で助けていただくだけとあっては、妹に顔向けができません……!」


 辰蘭は、ずっと妹の梓媚のことを頭脳明晰にして怜悧狡猾、しかも気丈で強かな女だと思っていた。後宮でも活き活きと寵を争いほかの妃嬪と張り合って、人を陥れることはあっても陥れられることはないだろうと何となく思い込んでいた。


 今となっては、暢気な考えだった。辰蘭の鼓動が不穏に高まっていくのは、自身の冤罪への不安以上に、妹の身を案じるからだった。


(報せがないのは、本当にあてつけのためだったのか……!?)


 薄情な兄を懲らしめるため、少々焦らしてやるか、という意図でなかったとしたら。返事を認めることのできない状況に、梓媚が置かれているとしたら?


 何より――梓媚は心変わりなどしていなかった。婚約者の死を幸いと、後宮での贅を極めた暮らしを楽しんでいるわけではなかったのだ。桂磊を思い続けているからこそ、その姿を真似た鏈瑣に怒り狂ったのだろうから。


桂磊けいらいについてどう思われているのか――寧妃様の御心は詮索すまい。だが、どうであれ兄君までも喪うことは望まれぬであろう。焦るのは分かるが、騒ぎ立てせず待っていただきたい。後宮のことは、皇后陛下が目を配っておられるであろう」

「何を悠長な――皇后がアテになるのなら、梓媚はそもそも後宮に入っておりません!」


 寡婦や孤児にまで心を寄せる慈悲深い皇后――その評判が真実だというなら、婚約者を亡くしたばかりの娘に手を出そうとする皇帝を諫めて欲しかった。


「む――」


 絶句した葉司獄は、何だかんだで皇帝の寵愛を受けることは世の女にとっては幸福だと思っていたのかもしれない。思い違いを正していただいたなら幸い、だろうか。

 だが、あいにくというか何というか、梓媚は泣く泣く定めを受け入れる悲劇の姫君では決してないし、兄の冤罪に心を痛めて嘆き悲しむような殊勝さとも無縁なのだ。


「大人はあれの気性をご存じないから……!」


 気付かぬままに陰謀に利用された迂闊さ。桂磊の墓を暴き遺体を辱める暴挙を座視する怯懦と無能。いずれも、梓媚に知られたら――


(どのように痛罵されることか。否、二度と会ってはもらえぬかもしれぬ。というか、会えば殺される……!)


 そもそも、入宮以来ろくに書簡も送らず案じることもしなかった薄情な兄なのだ。受験を放棄したことも、悪手だったと痛感したばかり。すでに妹からの心証は地の底まで落ちているだろう。


「私もお連れください。ただ待つだけ、というわけには――」

「見え透いた謀であっても、若君は被疑者なのだ。弁えられよ」


 皇帝の寵妃に殺される、などとはさすがに口にできなかった。男として、兄としての体面もある。だが、それだけに辰蘭の言動は冤罪に取り乱しての醜態としか見られなかったらしい。


 葉司獄は、厳しく一喝すると、やや不安げな面持ちで辰蘭を眺めた。


「私は行かねばならぬが――よろしいか、くれぐれも大人しくしていただきたい」


 幼い子供に言い聞かせるような口調で念を押した後、老練な司法官は辰蘭を置いて去っていった。


      * * *


 無闇に騒ぎ立てても状況が悪化するだけなのは、辰蘭にも分かってはいた。見張りの者も、どうせ礼部の息のかかった胥吏しょりなのだろうから、交渉の余地もない。


(手詰まりか? 私も何かを為さねばならぬのに……!)


 焦りと苛立ちを抱えて座り込んでいると――上のほうから、錆びついたようにざらざらとした声が降ってきた。


「先生、先生」

「鏈瑣――」


 採光のために天井近くに設けられた窓にぴったりと嵌るように、鏈瑣のたいそう麗しい顔が覗き込んでいた。


 常人が見つかることなく登れる場所ではないが、相手は化物だ。例によって首だけを取り外しているのだろう。

 事実、艶やかな髪を窓枠に絡ませて、鏈瑣は立ち上がった辰蘭と目線が合うところまで降りてくる。


 髪さえも自在に操れるのは、今さら驚くにはあたらない。肺も声帯もないのに声を発することができるのも、身体のほうに絡んでいるはずの鎖の音を伴っているのも。ただ、結っていない髪が長くのびる様は、黒真珠の鱗を持った蛇が艶めかしく身をうねらせるようで、妖しく目を引きつける。


「どうやら、大変なことになっているようだな? 助けてやろうか?」

「逃げたのではなかったのだな。わざわざ戻ってきたのか……」


 驚くというなら、化物の癖にやけに親切なことを言い出したことについて、だった。無論、天祐のはずはないから、どう助ける気かは問わなかったのだが――鏈瑣は辰蘭の警戒には気付いていないのか、機嫌良く笑みを浮かべている。


「見張りも、先生を嵌めたらしいあの老いぼれも。あの客も。そう、あいつは先生をおびき出したのかもしれぬよなあ」

「林浩雨か……」


 旧友の真意を疑えば、腹の底から苦いものが込み上げるようだった。目を伏せた辰蘭を覗き込んで、鏈瑣は得意げに続ける。もしも胴体がついてきていたなら、胸を張っていたことだろう。


「ひと言、喰え、と言えば良い。どいつもこいつも、髪ひと筋残さず平らげてやる。傍目には『消えた』ようにしか見えぬ。どうだ? 良い考えであろう?」

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