5.嫌疑
科挙、ひいては貢院は、礼部の管轄だ。司法を掌る刑部の葉司獄がいるのは、本来おかしい。おかしいというなら、普段は閉ざされているはずの貢院の門が開いていたのも、試験の時季でもないのに人がいるのもそうなのだが。
だが、辰蘭が知己に挨拶したり疑問を口にしたりする余裕はなかった。彼が口を開くより先に、葉司獄と相対していた初老の官が血相を変えて叫んだのだ。
「何ですと。殷辰蘭が、今、ここに!? 葉司獄、これは由々しきことですぞ! 証拠の隠滅に忍び込んだのでは……!?」
「は?」
何やら穏やかでないことを聞いた気がする。しかも、官服の胸にあしらわれた補子を改めて見れば五品の白鳩。五品といえば、たとえば六部の各衙門の部門長にあたる郎中に相当する。結構偉い。
八品の黄鳥の補子を帯びる葉司獄はというと、自身よりも年長かつ高位の相手に対しても、厳しく顔を顰めてみせた。
「忍び込む、というには随分騒がしい登場でしたな。後ろめたい者は、もっと人目を忍ぶものでしょう」
ぎろりと辰蘭を睨んだ目つきも、例によって鋭く険しい。だが――これは、庇ってもらえているのだろうか。
「こちらの若君はたいそう風変わりな趣味をお持ちだ。鬼や精怪の噂を好き好んで追い回すような。貢院はその手の話にこと欠かぬもの――どなたもよくご存じのことと思うが」
疾走によって乱れた息を整えながら、辰蘭は葉司獄の視線を追って、前庭に集った面々を見渡した。
補子を胸に戴いた官は、見たところ両手の指で余るかどうか、というところだ。全員が科挙を経て現在の地位にいるのだから、葉司獄が仄めかした通り、貢院にまつわる怪談は、当然承知しているだろう。
(葉司獄と、こちらの御方が対立して――揉めていた? それを、鏈瑣が聞きつけた?)
辰蘭の前を駆けていた鏈瑣は、今はつまらなそうな顔で口を閉ざしている。気が抜けたような風情からして、化物の餌になりそうな怪力乱神はこの場にいないのだろう。ならばこれは、人間同士の諍いだ。
官たちは、それぞれ皁い衣の胥吏も引き連れている。立ち位置からして、葉司獄と五品の官とで陣営を違えているようだ。さらに言うならば、人数的には葉司獄のほうが分が悪いと見える。
「お、恐れながら――」
と、辰蘭のさらに後ろに続いていた林浩雨が、ようやく追いついた。
多少は市井を逍遥することもある辰蘭と比べて、運動不足が甚だしいようだ。揖礼した勢いで倒れそうな疲労困憊ぶりだったが、息も絶え絶えになりながらも、弁明を試みてくれる。
「私は、嘉永八年進士の林浩雨と申します。今回の郷試にて、弟の答案に不審な――不可思議な点がありましたゆえ、旧知の殷辰蘭に相談をしたところでして。ですので、何もやましいことは――」
「おお、そなたが林進士か! そう、まさに弟御の件で調査をしていたのだ!」
林浩雨が盛大に咳き込んだのには構わず、五品の官はいっそう声を張り上げた。まるで舞台に立つ役者のようだ、と思ってしまうのは――この場にいる者たちに丁寧に説明してやろう、という気配が漂っているからだろうか。
「科挙の不正も答案の入れ違いもあってはならぬこと、礼部の沽券に関わる大事である。柴尚書以下、ことの次第を詳らかにせねばと、心をひとつにしておる。段侍郎が答案の作者を思い出されたのは真にご慧眼であった」
では、この官は礼部の所属らしい。ならば、科挙の不正疑惑の調査に貢院を訪れるても不思議ではないが――
(証拠の隠滅、とはいったい……?)
どうにも不吉な予感が拭えない。辰蘭が向ける不審と警戒の眼差しに、葉司獄は苦虫を噛み潰したような渋面で応えた。彼にとっても、この一幕は不本意なものであるらしい。
「……はい。くだんの柯桂磊は、この殷辰蘭とは兄弟同然の仲でしたから――」
「そして、今は寧妃の位を賜る殷家の姫君とは将来を誓った仲であった。相違ないか?」
遅れて現れた林浩雨は、まだこの場の不穏な空気には気付いていないようだった。だが、またも言葉の半ばで遮られてさすがに目を見開く。
「は、はい。相違は――ございませんが」
助けを求めるように顔を向けられたところで、辰蘭にも教えられることなど何もなかった。ただ、決まった筋書きをなぞらされているらしい、という不快だけが募っていく。
(劉家の一件では、役どころが分かっていたから良かったものの……!)
しかも、あの時は劉大人に見せるための芝居であることも承知していた。今、満足そうにうんうんと頷く礼部の官は、誰を観客として想定しているのだろう。口を挟む糸口も見つけられないまま、見守るしかできないのがもどかしい。
「柯桂磊は、やはり怨みを訴えようとしているのであろう」
「ええ……やはり、私が不肖の身にて及第したゆえ、弟に仇を為そうと――」
「否!」
林浩雨にとっては、礼部にまでも実力を疑われていると感じられたのだろうか。悲壮感を漂わせる相槌は、けれど大音声で一蹴された。葉司獄と辰蘭、そして鏈瑣以外の者たちが首を竦めるのを、五品の官はゆっくりと見回して続ける。
「怨みとは、畏れ多くも主上に婚約者を奪われたことに対してのものに違いない。柯桂磊が生きて及第していれば、寧妃様の入宮はあり得なかったのだからな! あるいは――婚約者が『都合よく』死んだからこそ、あの御方は妃の位を得た、とも言えようか」
「何が仰りたいのですか」
意味ありげなじっとりとした視線を浴びて、当て擦るような含みある言葉を聞いて。辰蘭はさすがに口を開いた。
この「芝居」の筋書きが、見えてきた気もするが――考えることはおろか、口にすることさえ思いもよらない不快で不当で、しかもおぞましく品性下劣な発想だった。
辰蘭の詰問を、五品の官は余裕ある笑みで受け止めた。ここぞ名場面と見得を切るかのように堂々と胸を張り、晩秋の曇天の下に、決め台詞を高らかに響かせる。
「主上のお目に留まった寧妃様は、婚約者を邪魔に思われた。柯桂磊さえいなくなれば、主上の寵愛も、ひいては奢侈も一族の栄達も思いのまま、とでも考えたのであろう。だから始末しようとしたのだ! 柯桂磊の霊は、その罪を告発しようとしているに違いない!」
「馬鹿げたことを……!」
「そう、そなたはそう言うしかあるまい。柯桂磊は閉ざされた貢院の中で死んだ――ならば、犯人は同じ時に受験していた者だと当然考えられるからな!」
「な――」
辰蘭が絶句したのは、まったく覚えがない上に、恥知らずも良いところの主張を堂々とぶつけられたからに過ぎない。だが、五品の官は、なぜか勝ち誇った笑みを浮かべた。
罪人を糾弾するかのように、五品の官は痩せ枯れた指を辰蘭に突き付けた。
「殷辰蘭よ。そなたが受験の際に使った部屋から、毒薬と針が見つかった。持病がある受験者もあろうから、薬と偽れば咎められぬし取り上げられぬからな」
「そのようなものは知らぬ!」
視界の端で、林浩雨が一歩退いたのが見えた。馬鹿馬鹿しい糾弾を真に受けたのか、そうでなかったとしても厄介ごとの気配を感じて知らぬ振りを決め込もうというのか。あるいは――
(まさか、ぐる、ということはないだろうな!?)
答案が桂磊のものと入れ替わっていた、などという話自体がどこまで本当だったのだろう。辰蘭をおびき出すために、旧知の仲の林浩雨を抱き込んだ、などということは? 本人や弟の栄達と引き換えならば、旧友を売り渡すこともあるかもしれない。
この成り行きをどこまで理解しているのか、鏈瑣は優雅に首を傾げて佇んでいる。化物が口を開けば事態がややこしくなるのは必定、黙ってくれているなら僥倖だった。助けなどは――期待しないほうが良いだろう。
とにかく――辰蘭が考えを巡らせることができたのは、そこまでだった。
「友を案じて抜け出したところで倒れているのを見つけた――などとは嘘偽り。そなた、妹の依頼で闇に乗じて柯桂磊を暗殺したのであろう……!」
五品の官の「判決」を契機として、彼の配下と思しき胥吏が一斉に動いた。そして、辰蘭を拘束したのだ。




