狡賢い狸〈徳川家康と武田信玄 後編〉
【地獄駿府城にて 徳川家康と武田信玄】
「違うな。越後を取るのも、京に上るための布石だ。無闇に突っ走るだけが戦略ではないぞ」
「あんたに、戦略なんてなかった。ただ、周囲の相手に噛みついていただけだ」
「周囲から攻めるのは常識だ。まずは領地に、遠征に耐えられるだけの体力を付ける必要があるからな。
俺の本拠地の甲斐は、人口が少ないうえに、火山灰のせいで土壌が悪く、生産力が低かった。海はないし、河の流れは急で氾濫が絶えない。それは信濃も同じだ。
それに越後からは、海と河と琵琶湖の水運で、京に上るのも容易だ」
「それならば、とことん越後に拘れば良かった。敵は上杉謙信のみという戦略を徹底しなかったせいで、ずっとフラフラと迷走したんじゃないか。
甲相駿三国同盟があったんだから、北条家と連携して北上作戦に全力を注げたはずだ。当時 西の斎藤家は、お家騒動で信濃に目を向ける余裕なんてなかったしな。
あんたの最大の失策の一つが、今川家を攻め、三国同盟を瓦解させたことだ」
「甲斐・信濃の国力だけで、あの上杉謙信と戦い続ける困難さも知らずに、甘いことを言うな。それに あの時代は弱肉強食だ。弱い者を攻めるのは当然だ」
「甘いのはあんただ。どこの大名だって困難は抱えていたのに、あんたは少々の困難に耐え切れず、目先の利益に釣られて最悪の選択をしたんだ。
今川家を攻めることに反対した嫡男を幽閉して死なせ、さらに今川家と北条家を敵に回し、武田家の信用を地に堕としてまでやった戦で、得たのはただ駿河一国のみだった。その駿河だって、常に北条家との争いの元になり、結局ただの重荷でしかなかった」
「確かに、北条家との火種を抱えることにはなったが、駿河を得たことで、俺は東海道の進軍ルートを確保し、いよいよ上洛の準備が整った。
その後の、俺の遠江侵攻に対する、お前の無様さを忘れてはいないだろうな」
「話を飛ばすなよ。あんたは駿河を取った後、上洛するどころか小田原城を攻めたじゃないか。どうせ北条氏康が病気がちになったのを見て、今なら勝てるとでも思ったんだろう。
でも固く籠城されて、あっさり撤退した。先代が討ち取られ、急な体制の変更を余儀なくされた今川家と、計画的に次代への権限移譲を進めた北条家が、同じだとでも思ったのか」
「西上の前に、背後の脅威となり得る北条家を攻めて、何がおかしい。小田原城を落とせなかったのは、結果に過ぎん」
「だが、そうやって時間を無駄にしたのは事実だ。あんたにも、自分の健康状態くらいは分かっていたはずだ。その後の北条氏康の死で、自分も先が長くないことを、嫌でも認識せざるを得なかったんだ。
本当は、そこに至ってやっと、西上を決めたんじゃないのか。つまり あんたは、北へ行ってダメだったから南へ行って、次は東へ行ってダメだったから、西へ向かおうとしたところで、寿命が尽きてしまったんだ。
俺が現世で、あんたを挑発したのだって、焦らせる作戦のうちだ。
どうだ?甲斐の迷える子羊さんよ」
「おのれ…俺の失敗ばかりを並べて強調しやがって」
「弱肉強食だって言ったのは誰だ。敵の弱いところを攻めるのも常識だ」
「だが お前にも、海道一の弓取りなどという小癪な異名があるが、俺に言わせれば、ただの信長の腰巾着だ。その前は、今川義元の使い走りだった。自力で何か、したことがあったのか?」
「今川家には、親の代から臣従していたんだから、家臣も同然だった。その今川家と縁を切ったのも、信長と手を組んだのも、俺自身の判断だ」
「しかし その後は、事あるごとに信長に報せて、いちいち許可を求めていたぞ。戦のたびに、信長の援軍が駆けつけてもいた。
お前自身では、何もできなかったのと同じだ。三方ヶ原の戦いなど、信長の援軍がいてもなお、俺の圧勝だったではないか。
確かに、健康に不安を抱えていた俺は、あの戦いの直後に死んでしまったが、お前のことなど、歯牙にもかけていなかった」
「うう…確かに軍事面では、あんたに敵わなかった。その後も俺は、信長の援軍に頼っていた。だが それは、俺の領地にもまだ、十分な軍事力や生産力がなかったからだ」
「お前こそ、嘘を吐くな。軍事力や生産力の問題ではない。
お前が他人に頼らず勝った戦など、所詮は田舎の小競り合い程度だ。関ヶ原の戦いでも、ごく一部を除き、敵の戦意が低かったのに加え、敵将を小賢しい策で寝返らせたから勝てただけだ。
お前が、自力で堂々と戦って勝ったことなど、一度もないぞ。武田家の家臣に過ぎなかった、真田昌幸にさえ、まともに勝ったことはない」
「ぐっ…その名前は出すな」
「お前の弱点を攻めただけだ。
お前は天下を取ったのではなく、秀吉の死後、豊臣政権を掠め取ったのだ。海道一の弓取りに 相応しいのは今川義元だけで、お前は狡賢いだけの狸だ」
「ああ、あんたの言う通り、狡くてセコかったのは認めよう。しかし、それでも俺は生き残り、武田は滅んだ。それは、あんたが俺に勝ちながら、息の根までは止められなかったからじゃないか。
その他にも、武田滅亡の大きな要因を遺したのも、あんただったぞ。あれに、寿命も、領地の環境も無関係だったよな」
「むう…」
「俺以外のやつからも、既に散々言われているだろう。いや 言われなくても、あんたなら分かって……
――――――――
地獄駿府城
「あれ?…ああ ここは地獄だな」
「…………」
「どうやら時間切れのようだね。あと一手で、あんたを投了に追い込めたのに、残念だよ」
「俺は、死ぬ間際まで、勝頼を正式な後継者に指名しなかった。お前の首を取れなかったのも、俺の失態だ。そのせいで、武田家を滅亡させた」
「ああ、言っちゃうんだね」
「投了だ」
「確かに俺が優勢だったが、勝たなければ、どんなに優勢でも意味がない。…というのは、あんたとの戦いで得た教訓だ。
今の喧嘩は、引分けだ」
「嘘を吐くな」
「何が?」
「あんなタイミングで時間切れだなどと、誰が信じるか」
「いや、本当にそうなんだけどね」
「まあ良い。久しぶりに面白い会話だった。迷える子羊とは、俺にぴったりで笑わせる」
「狡賢い狸と、良い勝負だよ」
「しかし…天命とはいえ、やはり あと二年は生きたかった。お前が言うように、生命への執着なのだろうがな」
「たとえ、あと何年生きていても、同じだったよ。死が訪れる時には、せめてあと少しだけって、誰でも思うもんなんだ。それが いつのことであろうとね。俺みたいに、長生きし過ぎたやつは別だけどさ。
死を意識したから、あんたは胸の奥にあった宿願に目覚めることができたんだよ。そして、太く短く生きたからこそ、武田信玄は歴史に深く名を刻んだんだ」
「そうか…。そこまで見抜かれていたのか。では、俺も言っておこう。
実は俺も、新しい幕府の創設を成し遂げるのはお前だと、確信していた。だから、三方ヶ原の戦いで、わざとお前を逃してやったのだ」
「そ、そうだったのか…」
「お前の背中に、俺は、こう呟いた。〈俺の意志は、お前に託したぞ〉とな…。
そして俺の目に、狂いはなかった」
「武田信玄…あんたって人は……」
「ふっ…」
「大嘘を…吐くなっ」
「バレた?」
【浅井家の事情〈織田信長と浅井長政 前編〉】に続く
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