甲斐の迷える子羊〈徳川家康と武田信玄 前編〉
【地獄駿府城にて 徳川家康と武田信玄】
「家康」
「あっ 出たな。甲斐の寅さん」
「出たなとはなんだ。幽霊みたいな言い方をするな」
「だって悪霊じゃないか」
「失礼な」
「悪霊退散…悪霊退散……」
「な、何をするっ」
「払い給え、清め給え…」
「おい、やめろ、家康。よく見ろ。お前、自分まで消えかかっているぞ」
「おお……。本当だ。危ないところだったぞ…」
「お前、妙な力が備わっているな。神だからなのか?」
「多分 そうなんだろうな、地獄に堕ちる神というのも間抜けだが…」
「さっきの悪霊払いで、自分も消えそうになったということは、お前自身も、神であり悪霊なのだろう」
「わけが分からん」
「とにかく、無闇にその妙な力を使うなよ。自爆攻撃になるぞ」
「あんただけ消滅させる方法を、研究しておくよ」
「ああ、そうか」
「あれ、怒るかと思ったのにな」
「まあ さっきは焦ったが、別に消されても、問題はなかった気もする」
「そうなのか。なんだか武田信玄らしくない発言だね」
「武田信玄らしくないか」
「らしくないだろう。消されても別に良いなんて、かつてのあんたは、絶対に言わなかったぞ。支配欲と物欲と顕示欲と自己愛と、生命への執着で出来ているような人間だったからな」
「そこまで貶されたのは久しぶりだが、その通りだったのだろうな。
実は地獄に来てからは、武田信玄らしくないと、よく言われるようになった」
「そうなのか。みんな地獄では、人格が変わるみたいだね。率直で温和になるやつが多いって聞いたよ」
「現世で、演じたり隠したりしていた部分がなくなって、本来の人格に戻るということらしいぞ。地獄はどうやら、性善説で構築されているようだな」
「なるほど。現世では色々と演じる必要があったからか。でもなあ…」
「なんだ?」
「温和な武田信玄なんて、今ひとつなんだよな」
「もしかすると、お前も今、俺と同じことを考えているのかも知れんな」
「さすが武田信玄。人格は変わっても、鋭さはあのままか」
「俺は構わんぞ。あの妙な力が備わった今のお前なら、できるんじゃないのか?」
「できるだろうよ。どうせ、何でもありなんだ。よし、やるか」
――――――――
1572年 浜松城
「ここは?」
「浜松城だよ、現世のね」
「ほう。落とす価値もなかった、あの徳川家康の居城だな」
「こんなことをするのは、今回だけだぞ」
「それはお前の勝手だ。だが俺とお前には、お行儀の良い会話より、思い切り罵倒し合うほうが似合っている。
お前が言っていた、俺の強欲と自己愛が、現世の空気で一気に蘇ってきたぞ」
「良いね。俺も、地獄で丸くなっちゃった武田信玄と話しても、退屈なだけだからね。まるで少年漫画で、仲間になったら急に温くなる敵役みたいで、まるで面白みがない。
あんたとは思う存分、喧嘩したいんだ。でも念のために言っておくが、今の俺たちでも、実体はないからな。殴り合いはできないよ」
「殴り合いなど、望んではいない。俺だってお前と口喧嘩がしたいのだ」
「あんたは甲斐の虎なんかじゃない。迷える子羊だ」
「おお、徳川家康が先制攻撃とは珍しいな。受けて立ってやる。どこが迷える子羊なんだ?」
「目的地も分からず、あっちへフラフラ こっちへフラフラして、やっと目的地を見つけたと思った途端に、寿命が尽きてしまったじゃないか。どうだ、迷える子羊だろう?」
「俺の目的地は、ずっと幕府があった京だった。上洛し、足利家から将軍位を奪い……じゃなくて穏便に譲位して頂き、甲斐に新しい幕府を作る予定だったのだ。
お前のような似非とは違って、俺は歴とした源氏だからな」
「似非ね。そこはあえてスルーしておくよ」
「若い頃なら、むきになって反論しただろうが、あえてスルーか。お前にあるのは、そういう狡賢さだけだった。昔も、今もな」
「源氏だから何だ。幕府を作るだなんて大嘘を吐くな。あんたは強欲を抱いて死んだだけだ」
「確かに俺は、強欲を抱いて死んだ。だがあと三年…いや二年でも長く生きることができていれば、俺の宿願だった幕府を作れていた。少なくとも、上洛は果たせていた」
「宿願だと?また嘘を吐いたな。あんたは病に罹り、自分の命が長く残っていないことを自覚してから急に、上洛なんていう、いかにも守護大名らしい目的を掲げたんだ。いや そもそも、あんたが そんなことを、本気で考えていたわけがない」
「何を根拠に、ほざいているんだ。俺が親父を追い出してまで、武田家の当主に就いたのは、京を目指すという目的のためだ。
あえて お前の言葉を借りれば、自分の支配欲と物欲と自己顕示欲を満たすためだ。一見してお行儀の良いお前と比べれば、薄汚れた野望に見えただろうがな。
だが野望を持って、何が悪い。行儀の良い理想とやらのためなら、人を殺しても良くて、野望のために人を殺すのは悪なのか?」
「いや、野望が悪いなんて言ってはいない。俺だって、天下を取るまでに何万もの人を殺したから、地獄に来たんだしな。
最後は武力ですべてを決めるのが、あの時代のルールだったんだ」
「武力がルールだと?それは、俺に一度も勝てなかったお前の、敗北宣言か?」
「そんな甘いことを言っているから、あんたは何も為し得なかったんだ」
「なんだと?」
「そうだろう。あんたが俺に勝ったなら、なぜ俺は生き延びた?なぜあんたは死んだ?」
「寿命だと言っただろう」
「寿命が尽きたのは、あんた自身のせいだ。仮にあんたが、本当に幕府を作ろうとしていて、そのために上洛が必要だったなら、なぜもっと早く、そうしなかったんだ。俺も信長もガキのうちから動いていれば良かったじゃないか」
「思い上がるな。俺の敵が、お前と信長だけだったとでも言いたいのか。お前らのような若造以上に、厄介なやつらに囲まれていたのだぞ。
だからまずは、比較的小さい勢力に分割統治されていた、信濃を平定するところから始めたのだ」
「そんなことは分かっている。でも北信濃の村上義清の援軍に来た上杉謙信と、川中島で十年以上も戦う必要なんかなかった。あんたが防衛線を南へ後退させれば、戦は終わったはずだ。上杉謙信にとっては、信濃より関東の戦のほうが重要で、あんたと争うメリットはなかったからな。
だが あんたは、川中島に拘った。それは海に面した越後が欲しかったからだ。つまり、京なんか目指してはいなかったんだ。違うか?」
【後編 狡賢い狸】に続く




